霧の中の電脳樹 3 ミャオリンの遅い信号
未送信灯は、湿った札の横で、点かないまま青い輪郭を返していた。
光っていないのに、見える。
見えるのに、知らせていない。
その中途半端さが、ミャオリンの手元を何度も呼んだ。
「点けたほうが、分かりやすいにゃ」
ミャオリンは、誰に向けるでもなく言った。
リリウムは、湿った札の位置を変えない。旅人も、未送信灯へ手を伸ばさない。ククルーは鈴を鳴らさない。ただ、三人とも、ミャオリンの手が灯の近くで止まっていることを見ていた。
「分かりやすいものは、悪くありません」
リリウムが言った。
「でも、分かりやすい形にした瞬間、森から落ちるものがあります」
「分かってるにゃ」
ミャオリンは、未送信灯の縁へ指を置いた。押さない。点けない。縁に触れるだけだ。
「でも、送らないまま置くのも、親切じゃない気がするにゃ。ネオンシャでは、見えたものを見えたままにしておくと、誰かが遠くで困ることもあるにゃ」
「森では、見えたものをすぐ遠くへ送ると、近くで困ることがあります」
リリウムの声は、責めていない。
責めていないから、ミャオリンはすぐ言い返さなかった。
霧胞子が、未送信灯の上を通った。白い粒が灯の青い縁に触れ、ほんの一瞬だけ明るく見えた。信号に見える。点灯にも見える。けれど、ミャオリンは灯を点けていない。
「今の、送ったように見えたにゃ」
「見えました」
旅人は言った。
「でも、送ってはいません」
「そうにゃ。送ってないにゃ」
ミャオリンは、自分に言い聞かせるように繰り返した。
「送っていないのに、届いたように見えることがあるにゃ。届いたように見えると、届いたことにしたくなるにゃ」
ククルーは、浅い連絡袋の外側を指で軽く押さえた。
「届いたことにすると、返事を待ちたくなるね」
「返事がないと、不安になるにゃ」
「返事がなくても、送っていなければ、返事がないことにはならないよ」
ミャオリンは、耳を少し倒した。
「それが、むずかしいにゃ」
リリウムは、湿った札の横から細い苔を一本取った。前に置いた苔よりも長い。だが、紐として結べるほど強くはない。引けば切れる。置けば曲がる。
「信号紐の代わりにはなりません」
リリウムは言った。
ミャオリンは、小袋から本物の遅い信号紐を取り出した。
ネオンシャで使う速い紐ではない。すぐ灯へつなげられる金具もない。細い繊維に、間を空けて小さな結び目がある。結び目は合図のようにも、休符のようにも見える。
「これは、送るための紐にゃ。でも、速く送るためじゃないにゃ」
ミャオリンは、信号紐を低い聞き台の手前へ置いた。
置いた瞬間、手が結びたがった。紐は、結ぶために作られている。結べば、場所と場所がつながる。つながれば、ここで見たものを、どこかへ渡せる。
だが、ミャオリンは結ばなかった。
「結ばないで置くにゃ」
「結ばない紐は、落ちませんか」
旅人が尋ねると、ミャオリンはうなずいた。
「落ちるにゃ。だから、落ちないように結びたくなるにゃ」
「結ぶと」
「送れるにゃ」
ミャオリンは、信号紐の端を湿った札の外側へ置いた。
「でも、今は送れることが早すぎるにゃ」
森の縁は、目の前にあった。
縁、といっても線ではない。土の湿りが少し変わる場所。霧胞子の白さが薄くなる場所。電脳樹の青い明滅が、葉の緑に隠れそうになる場所。そこから先は、シルヴァリスの深い森へ戻るのか、ネオンシャの信号が届く外縁へ出るのか、ひと目では分からない。
ミャオリンは、その縁へ信号紐を運んだ。
一歩ごとに、紐の結び目が揺れる。結び目は数えられる。数えれば、間隔を測れる。測れば、どれくらい遅い信号なのか言える。
ミャオリンは、数えなかった。
「数えると、遅さが性能になるにゃ」
「性能」
旅人が繰り返すと、ミャオリンは苦く笑った。
「ネオンシャでは、そうなりやすいにゃ。速い、遅い、届く、届かない、何秒、何歩、何回。便利にするには大事にゃ。でも、ここでそれを先に出すと、森の縁が通信試験の場所になるにゃ」
「試験の場所ではない」
「そうにゃ。ここは、送る前の音を聞く場所にゃ」
リリウムは、低い聞き台から木皿を持ってきた。
木皿の底には、透明な粒はもう見えない。消えたのではなく、薄く広がって皿の色に混ざったようだった。リリウムは、その皿を信号紐の端の近くへ置いた。
「森の縁にも、聞く前の皿を置きます」
「皿に音は入らないよね」
ククルーが言った。
「入りません」
リリウムは答えた。
「だから、入らないものを入れたことにせずに済みます」
ミャオリンは、木皿と信号紐の距離を見た。
近すぎると、紐のための皿に見える。遠すぎると、関係のないものになる。ミャオリンは、少し迷ってから、紐を半歩ぶんだけ外側へずらした。
「ここにするにゃ」
「どうしてですか」
旅人が尋ねる。
「近くに置くと、森の音を信号にしたくなるにゃ。遠くに置くと、信号は森とは別だと言いたくなるにゃ。どちらも速いにゃ」
ミャオリンは、紐の端を結ばないまま、湿った葉の上へ乗せた。
「ここなら、触れてるけど、結んでないにゃ」
触れている。
結んでいない。
その距離は、不安定だった。風が吹けばずれる。誰かが歩けば外れる。霧が重くなれば、葉ごと沈むかもしれない。
だが、不安定だからこそ、つながったことにできなかった。
旅人は、その不安定さを見た。
「外れたら、どうしますか」
ミャオリンは、すぐ答えなかった。
ネオンシャの道具なら、外れないようにする。外れたら通知する。どこで外れたか記録する。直す手順を作る。どれも、必要なことだ。
けれど、森の縁では、外れるかもしれないという状態そのものが、強すぎる接続を遅らせている。
「外れたら、外れたところを見るにゃ」
ミャオリンは言った。
「直す前に」
ククルーは、鈴を見た。
「鳴らない鈴に似ているね」
ミャオリンは首をかしげた。
「似てるにゃ。でも、同じではないにゃ」
「ええ」
ククルーは笑わない。
「同じにしないほうが、いいだろうね」
その声は、いつもより少し低かった。
旅人は、そこに触れなかった。
触れれば、ククルーの沈黙を説明したくなる。説明したくなれば、鈴のことへ進みたくなる。ここで必要なのは、鈴の答えではない。送る前の音を、送ったことにしない距離だった。
電脳樹の根元から、細い震えが届いた。
信号紐は、震えない。
震えないのに、震えたように見えた。
ミャオリンは、息を止めた。
「今、紐が返事したみたいに見えたにゃ」
「見えただけですか」
「たぶん、見えただけにゃ」
「たぶん」
旅人は、その言葉を低く置いた。
たぶん、は弱い。
弱いから、記録に向かないことがある。だが、たぶんを消してしまうと、見えた手の揺れも消える。見えただけかもしれない。返事ではないかもしれない。それでも、見えたように思った手は、そこにある。
リリウムは、根音皿を持ってきた。
低い聞き台のそばに置いていた皿だ。まだ何も入っていない。音を入れる器ではない。根の音を保存する道具でもない。ただ、聞こえそうになったものを、聞いたことにする前に置くための皿。
「信号紐の近くへ置きますか」
リリウムが尋ねる。
ミャオリンは迷った。
近くに置けば、根音と信号を比べやすい。比べやすいと、似ているところが見つかる。似ているところが見つかると、つなげたくなる。
遠くに置けば、別のものとして扱いやすい。別のものにすれば、混ざらずに済む。だが、別のものにしすぎると、森とネオンシャが互いを聞き返せなくなる。
ミャオリンは、根音皿を信号紐から少し斜めに置いた。
「正面に置かないにゃ」
「斜めですね」
「正面だと、答え合わせみたいになるにゃ。横だと、関係ないものに見えるにゃ。斜めなら、見えるけど、合わせにくいにゃ」
リリウムは、根音皿から手を離した。
「合わせにくい場所」
「そうにゃ。合わせにくいまま聞くにゃ」
霧胞子が、根音皿の縁へ落ちた。
白い点がひとつ、皿の内側ではなく外側についた。内側なら、入ったものに見える。外側なら、こぼれたものに見える。だが、リリウムはどちらとも言わない。
ミャオリンも、送らない。
旅人は、白い点と信号紐の結び目を見比べた。似ている。けれど、似ていると言えばすぐつながりそうになる。違うと言えばすぐ離れそうになる。
「似ているところを、まだ使わない」
旅人が言うと、ミャオリンはうなずいた。
「使えるものを使わないのは、むずかしいにゃ」
「どうしてですか」
「使えるなら、助けになるかもしれないからにゃ。助けになるかもしれないものを置いておくと、冷たい感じがするにゃ」
ミャオリンの声には、いつもの軽さが残っている。だが、その下に小さな熱があった。
伝えたい。
知らせたい。
助けたい。
その手があるから、未送信灯は点きたがる。遅い信号紐は結ばれたがる。信号根は読まれたがる。
「その手も、置きます」
リリウムは、湿った札の一枚をミャオリンの近くへ寄せた。
「伝えたい手を、悪いものにしないために」
ミャオリンは、湿った札を見た。
「悪くないにゃ」
「はい」
「でも、今は速いにゃ」
「はい」
ミャオリンは、未送信灯を低くした。
今までより、さらに低く。地面に置くのではなく、湿った札と同じ高さまで、手の中で下げる。灯は点いていない。それでも、青い輪郭は残る。輪郭が残るから、見える。見えるから、忘れない。
送らなくても、忘れないための低さ。
ミャオリンは、その低さを見つけた。
「ここなら、持ってるけど、掲げてないにゃ」
「見せびらかしてもいない」
旅人が言うと、ミャオリンは笑った。
「にゃ。見せる前の灯にゃ」
森の縁で、遅い信号紐は結ばれずに置かれた。根音皿は斜めに置かれた。未送信灯は低く持たれた。湿った札は、伝えたい手を責めないために近くにある。
電脳樹の根元から、また細い震えが届いた。
今度は、信号紐も、未送信灯も、返事をしたようには見えなかった。
ただ、根音皿の外側についた白い点が、少しだけ湿った。
「送る前の音」
ミャオリンは、ゆっくり言った。
「送った音じゃないにゃ。届いた音でもないにゃ。送る前に、ここで聞こえそうになった音にゃ」
リリウムは、その言葉を札にしなかった。
旅人も、見出しにしなかった。
ククルーは、鈴を鳴らさなかった。
送る前の音は、根音皿の内側には入らない。信号紐にも流れない。未送信灯にも点らない。
それでも、森の縁に少し残った。
残ったものを、ミャオリンはすぐネオンシャの方式へ変えなかった。
変えないまま、信号紐の端をもう一度見た。
結ばれていない端は、湿った葉の上で少し曲がっている。
その曲がりは、返事ではない。
合図でもない。
けれど、次に根の音を聞くとき、きっと目に入る。
ミャオリンは、それで十分だと、まだ言わなかった。
十分と言えば、そこで終わる。
終わらせずに、未送信灯を低く持ったまま、根音皿の斜め横に座った。
霧は、送られない音を包んだ。
しばらくして、遅い信号紐の端に小さな水滴がついた。
水滴は、信号の点ではない。
結び目でもない。
けれど、青い糸の上に乗ると、どうしても印に見える。
ミャオリンは、その水滴を拭かなかった。
「拭くと、なかったことになるにゃ」
「残すと、印になりませんか」
旅人が尋ねる。
「にゃ。だから、印にしない置き方を探すにゃ」
ミャオリンは、信号紐の端を少しだけ持ち上げた。水滴は落ちない。落ちないが、結び目の上からは外れ、糸の横へすべった。
青い糸の横で、透明な水滴は光を持たないものになった。
「これなら、信号の一部に見えにくいにゃ」
リリウムは、湿った札の横から小さな葉を一枚持ってきて、水滴の下へ置いた。
葉は水滴を受ける。
だが、水滴を吸いきらない。
受けて、少し揺らす。
「送る前の手にも、余分な湿りがあります」
リリウムが言った。
「余分と言うと、捨てたくなります」
旅人が言うと、リリウムは首を横に振った。
「では、横の湿りです」
横の湿り。
ミャオリンは、その言い方を手帳に書かなかった。
書けば、すぐ使える言葉になる。使える言葉になれば、次から同じ湿りを探すようになる。今ある水滴は、次から探すための見本ではない。
水滴の下の葉は、まだ少し揺れていた。揺れは小さく、息を吹きかければ消えそうだった。けれど、消えそうだからといって、手で押さえれば、葉は押さえた形を覚えてしまう。ミャオリンは、押さえたい手をひざの上へ戻した。
「横にあるものは、横に残しにくいにゃ」
「正面へ置きたくなりますか」
旅人が尋ねると、ミャオリンはうなずいた。
「正面なら見やすいにゃ。見やすければ、送るときも説明しやすいにゃ。でも、正面にした瞬間、横にあった理由が落ちるにゃ」
リリウムは、葉の下へもう一枚、別の葉を差し込まなかった。支えれば安定する。安定すれば、湿りを見やすくできる。けれど、支えた時点で、横にあった水滴は支えられた水滴になる。
ククルーは、浅い連絡袋の外側を見た。
「入れない袋と、正面にしない湿り。似ていそうで、少し違うね」
「違うにゃ。袋は入れたくなるにゃ。湿りは向けたくなるにゃ」
ミャオリンは、言いながら未送信灯を低くした。灯の青い輪郭が、横の湿りに少し届きそうになる。届きそうになると、水滴は信号の端に見えた。
ミャオリンは灯を半歩ぶん下げた。
「照らしすぎないにゃ」
照らさないのではない。照らしすぎない。横にあるものが、横にあるまま目に入る程度に、灯は低いまま残った。
「にゃ。横にあるにゃ」
そう言うだけで、ミャオリンは手帳を閉じた。
送る前の音、送る前の灯、送る前の紐。
そこへ、横の湿りが加わった。
どれも、信号としては不便だ。
だが、不便なまま置かれたことで、森の縁は少し広くなった。




