霧の中の電脳樹 2 リリウムの湿った札
低い聞き台のまわりで、霧は形を変え続けていた。
電脳樹の明滅は、さきほどより弱くなったようにも見える。だが、弱くなったのではなく、目が慣れただけかもしれない。霧胞子の白い点も、文字の端に見えるときと、ただの水気に見えるときがある。見え方の揺れは、旅人たちの外にあるのか、見る手の中にあるのか、すぐには分からない。
リリウムは、その分からなさを急がせなかった。
「ここからは、札を作る前の時間を少し長くします」
そう言って、リリウムは腰の小袋から薄い木片を取り出した。木片は乾いていない。あらかじめ湿らせてあったのではなく、森の空気を吸って自然に重くなったような色をしている。角は丸い。表面には何も書かれていない。
「札ですか」
旅人が尋ねると、リリウムは木片をすぐ差し出さなかった。
「札になる前の木片です」
ミャオリンは、未送信灯の横にしゃがんだ。
「札になる前、という札にしたくなるにゃ」
「そうですね」
リリウムは笑わずにうなずいた。
「だから、今日はその名前も少し遅らせます」
木片は、低い聞き台の端ではなく、足元の苔の上に並べられた。ひとつ、ふたつ、みっつ。数えられる。けれど、リリウムは数えなかった。数えれば管理しやすくなる。管理しやすくなると、足りないものも見つけやすくなる。
足りないものを見つけることは、悪いことではない。
ただ、見つけた瞬間に、埋める手が先に出ることがある。
リリウムは、葉裏へ手を伸ばした。
葉の裏には、小さなしずくが並んでいる。朝露と言えば近い。だが、朝という時間をまだここへ持ち込んでよいのか、旅人には分からなかった。霧の中では、朝も昼も少し遅れている。時間の名前をつけると、しずくがその時間に閉じ込められる気がした。
「このしずくを、見ます」
リリウムは言った。
「採りますか」
「採りません」
「写しますか」
「写しません」
「数えますか」
「数えません」
三つの否定は、きつく聞こえなかった。扉を閉めるための否定ではなく、手が先へ行きすぎないための低い杭のようだった。
リリウムは、葉を切らず、しずくにも触れず、葉の下へ湿った木片を一枚置いた。
木片には何も移らない。
しずくの形も、葉脈の影も、木片には写らない。ただ、木片の表面が少し暗くなった。水が落ちたのではない。葉裏の冷たさが、ほんの少し下へ降りたように見えた。
「何も書かれていませんね」
旅人は言った。
「書かれていない、と言うと、書かれるはずだった場所になります」
リリウムは木片を動かさない。
「何もない、でもありません。葉の下に置いた時間があります」
ミャオリンは、その木片をのぞき込んだ。
「記録にはしにくいにゃ」
「しにくいままにします」
「しにくいと、なくした気になるにゃ」
「なくした気になった手を、見ます」
リリウムは、別の木片を土の上へ置いた。
今度は、足元だった。旅人たちが立っている場所のすぐ近く。土は湿っている。踏めば沈むほどではない。だが、靴底を上げると、形のない暗さが少しだけ残る。
「足跡も、札にしません」
リリウムは言った。
「足跡を残さないのですか」
「残ります。けれど、足跡として読む前に、足が重くなった場所を見ます」
旅人は、自分の足元を見た。
砂皿市では、足跡は乾いた線になった。乾いた線は、どこから来てどこへ行くのかを示しやすい。森の土では、足跡が線にならない。沈み、戻り、少しだけ暗くなる。方向よりも、重さが先に残る。
「道に見えませんね」
「道に見えない足跡もあります」
リリウムは、木片を足跡の横へ置いた。
「これを、道ではないから無意味とはしません」
ククルーは、浅い連絡袋を抱え直した。
「道ではない足跡は、迷った跡に見えるね」
「迷った、と言うのも少し速いね」
リリウムは、ククルーのほうを見た。
「迷いと呼ぶ前の重さです」
葉裏のしずくは、足跡の横で小さく震えた。落ちれば、湿った点になる。点になれば、札へ移せる。けれど、まだ落ちていないしずくは、点ではなく、葉の裏に残る重さだった。
ミャオリンは、湿った木片を一つ拾いかけて、やめた。木片は、札になりそうな平たさを持っていた。指で表をなでれば、書く場所が見つかる。裏を見れば、置ける向きが分かる。けれど、木片が札になる前には、木片として足元にある時間がある。
「これも、書く前ですか」
ミャオリンは木片を拾わずに尋ねた。
「書く前です。拾う前でもあります」
リリウムは、足を少し引いた。踏まないためではない。避けるためでもない。足元にあるものを、足元からすぐ手元へ移さないための小さな後ろだった。
ククルーは、浅い連絡袋を抱えたまま、袋の口を見なかった。
「袋に入れる前でもあるね」
旅人は、うなずいた。足跡の横にあるものを、道へしない。木片を、札へしない。しずくを、点へしない。その三つは、分からなさを薄めるためではなく、分かりそうな手を急がせないために並んだ。
ククルーは、鈴へ触れずに目を細めた。
「呼ぶ前のものが多いね」
「この森は、そういうものを先に拾うんだ」
リリウムは、三枚目の木片を自分の手元へ置いた。
その木片だけ、葉の緑に近い匂いがした。木片そのものの匂いではない。リリウムの指先に残っていた葉裏の湿り、土の冷たさ、霧胞子の薄い粉が混ざった匂いだった。
旅人は、匂いを言葉にしようとして、止めた。
森の匂い。
そう言えば済む。
けれど、済ませた瞬間に、さきほどから別々に届いていたものが、ひとつの見出しになる。葉裏のしずくも、足元の重さも、木片の暗さも、低い聞き台の霧胞子も、全部「森の匂い」としてまとめられてしまう。
「今、まとめそうになりました」
旅人が言うと、リリウムは小さくうなずいた。
「まとめそうになったことも、置けます」
「どこに」
「札の空欄ではなく、札の外側に」
リリウムは、木片の上には何も書かなかった。かわりに、木片の横へ細い苔を一本置いた。苔は線のように見える。だが、線として使うには曲がっている。境界として置くには柔らかすぎる。
「空欄にしないのですか」
「空欄にすると、いつか埋める場所になります」
「埋めない空欄もあるにゃ」
ミャオリンが言った。
「あります。けれど、今日はまだ空欄にも届かせません」
リリウムは、木片、苔、葉裏のしずく、足元の暗さを順に見た。
「分からないものを、すぐ空欄にすると、分からないものが欠けた場所として扱われます。ここでは、欠ける前の揺れを見ます」
霧胞子が、リリウムの肩に一粒乗った。
白い点が、緑の外套の上で小さく光る。文字の点にも見える。飾りにも見える。汚れにも見える。どれにも見えるから、どれかに決めたくなる。
リリウムは払わなかった。
「払わないのですか」
「払うと、いらないものになります」
「残すと、印に見えるにゃ」
「だから、残すでもありません」
リリウムは肩を動かさない。
「乗っている間を見ます」
乗っている間。
それは、短い。短いから、記録したくなる。記録しないと消えそうに思える。けれど、記録するために手を動かすと、その間はもう終わってしまう。
旅人は、息を浅くした。
胞子は、しばらくそこにいた。やがて、霧の流れに乗って外套から離れた。離れたあと、外套には何も残らない。白い点も、跡もない。
「残りませんでした」
「残らないものも、ありました」
リリウムは言った。
「残らないから、なかったとはしません」
ククルーは、低い聞き台のほうを見た。
「残らないものは、説明しにくい」
「うん」
「説明しにくいものは、親切に見せにくいね」
ククルーの声は、少しだけ湿っていた。
旅人は、その湿りも札にしなかった。
ククルーの言葉は、いつも穏やかだ。穏やかだから、聞いた側は安心しやすい。だが、今の声にあった湿りは、安心のためのものではない。説明しにくいものを説明しないまま持つときの重さだった。
リリウムは、ククルーへ木片を渡さない。
渡せば、何かを書いてほしいという形になる。代わりに、木片をククルーの足元から少し離れた場所へ置いた。
「手元ではなく、足元の少し外です」
「どうしてですか」
「手元にあると、扱いたくなります。足元にあると、踏まないようにできます。少し外にあると、持たなくても見えます」
ククルーは、ゆっくりうなずいた。
鈴は鳴らない。
鈴が鳴らないことも、ここでは合図にならない。鳴らなかった、という札を作ると、鳴るべきだった場所になる。リリウムは鈴を見ず、鈴の影が湿った土に落ちている場所だけを見た。
「影も、札にしません」
「影は動くからね」
「動くものを止めると、止まった形が強くなります」
ミャオリンは、未送信灯を見た。
「信号も同じにゃ。送った形が強くなるにゃ。送る前の手元は、送ったあとから見ると弱く見えるにゃ」
「弱いものを、弱いまま置ける場所が必要です」
リリウムの声に、森の湿りが混ざった。
旅人は、低い聞き台のまわりを見た。
葉裏のしずくの下に置かれた木片。
足跡の横に置かれた木片。
匂いをまとめそうになった手の横に置かれた苔。
ククルーの足元の少し外に置かれた木片。
どれも、何かを書いた札ではない。
けれど、何もない場所でもない。
それらは、森の感覚が言葉へ向かう前に、少しだけ立ち止まれる低さだった。
「湿った札、と呼んでもいいですか」
旅人が言うと、リリウムは考えた。
すぐに否定しない。すぐに許可もしない。霧の中で、言葉を少し湿らせるように待った。
「呼んでもいいです」
リリウムは言った。
「ただし、書いた札ではなく、書く前に湿った場所として」
「湿った札」
ミャオリンが繰り返した。
「送るときは、注意がいるにゃ」
「まだ送らなくていい」
旅人は言った。
ミャオリンは、少し笑った。
「そうにゃ。まだ、送らないにゃ」
低い聞き台は、読めそうになった手を置く場所だった。
湿った札は、言葉になりそうな感覚を、欠けた空欄にする前に置く場所になった。
けれど、それを章と呼ぶ声は、森の中にはない。
旅人は、そう思いかけて、すぐにその考えも置いた。
章ではなく、順番でもない。
ただ、低い聞き台のそばに、湿った札が増えた。
電脳樹の根は、相変わらず細く明滅している。霧胞子は、文字の端に見えたり、見えなかったりする。リリウムは、そのどちらも急がせない。
旅人は、木片のひとつに手を伸ばしかけた。
触れれば、重さが分かる。
重さが分かれば、言葉にしやすくなる。
言葉にしやすくなれば、次へ運びやすくなる。
手は、途中で止まった。
「触らないのですね」
リリウムが言った。
「触る前の重さも、ある気がしました」
「あります」
リリウムは、静かに答えた。
「触ったあとに分かる重さと、触る前に手が迷う重さは、同じではありません」
旅人は、手を戻した。
戻した手のひらには、何も乗っていない。
何も乗っていないのに、少し湿っていた。
それを、湿った札には書かなかった。
森の匂いも、見出しにはしなかった。
リリウムは、最後に三枚の木片の位置を少しだけ変えた。そろえない。並べすぎない。葉裏、足元、匂い、影。そのあいだに、空白ではない隙間が残るように置いた。
「次は、送れるものと送らないものの距離を見ます」
ミャオリンの未送信灯が、霧の中で薄く青い輪郭を返した。
リリウムは、その輪郭を見出しにしない。
旅人も、まだ言葉にしない。
湿った札は、書かれないまま、低い聞き台のそばに残った。
リリウムは、湿った札の横へ小さな葉皿を置いた。
皿と呼ぶには浅く、ただ葉を丸めただけのものだった。中には何も入っていない。だが、何も入っていないからこそ、旅人の手はそこへ何かを落としたくなった。
「ここに置くものは、ありますか」
旅人が尋ねると、リリウムは葉皿を見たまま答えた。
「あります。でも、まだ入れません」
「入れないまま、皿にするのですか」
「はい。入れたくなった手を見るための皿です」
旅人は、自分の指先を見た。
葉裏のしずく、足元の重さ、森の匂い。どれも、さっきから言葉になりそうでならない。言葉にならないままだと、消えてしまう気がする。消えそうだから、何かに入れたくなる。皿、札、袋、見出し。どれでもいいから、形のある場所へ移したくなる。
その気持ちは、森を粗末にするものではなかった。
なくしたくないだけだ。
リリウムは、その気持ちを責めなかった。
「なくしたくない手は、ここに置けます」
葉皿は空のまま、湿った札の横へある。
空であることが、欠けているように見えないよう、リリウムは皿の下へ細い苔を一本敷いた。苔は皿を持ち上げない。少しだけ傾ける。傾いた葉皿は、入れるための器ではなく、見えるための手元になった。
ククルーは、その皿を見て言った。
「空っぽなのに、場所があるね」
ミャオリンの未送信灯が、薄く青い輪郭を返した。
「にゃ。送る前にも、空っぽの場所がいるにゃ」
旅人は、葉皿と湿った札を一緒に見た。
書かない札。
入れない皿。
触る前の手。
それらが並ぶと、言葉になる前の感覚は、ただ曖昧なものではなくなる。
まだ形にしないために、低い形を借りているものになる。




