霧の中の電脳樹 1 霧の中の電脳樹
霧の中を進むほど、森は静かにならなかった。
静かなのではなく、音が分かれすぎていた。葉から落ちる水、土へ沈む足音、遠くでしなる枝、近くの胞子が衣に触れるかすかな擦れ。ひとつずつなら聞き取れる。けれど、まとめて聞こうとすると、どれも同じ白い息に混ざってしまう。
旅人は、足を止めた。
止まると、聞こえるものが増えた。
歩いているあいだは、足音が前に出る。止まると、足音の下にあったものが遅れて届く。湿った土の奥で、何かが細く震えていた。虫の羽音ではない。水路の音でもない。木の根が伸びる音だと言うには、少し規則がありすぎる。
ミャオリンの耳が、ゆっくり動いた。
「信号に似てるにゃ」
言ってから、ミャオリンはすぐ口元を押さえた。
「似てる、までにしておくにゃ」
リリウムはうなずいた。
「森の音にも似ています」
「似ているものが二つあると、どちらかに決めたくなるね」
ククルーは、鈴を鳴らさないまま言った。
霧の奥に、黒くも青くも見える影があった。木の幹のように太く、塔のようにまっすぐではない。枝は上へ伸びているのに、ところどころで光の糸が横へ走る。その糸は、ネオンシャの信号線に似ていた。だが、信号線ならまっすぐ届くはずの光が、葉の裏で何度も曲がり、根の皮の内側へ潜っていく。
「あれが、電脳樹かな」
旅人の声は、霧に吸われた。
リリウムは、すぐには答えない。森では、名を言うことも手を伸ばすことに近い。言葉が先に届けば、あとから見るものはその名の影を受ける。
少し待ってから、リリウムは言った。
「この森では、サイバリアの遠根と呼ぶ人がいます」
「遠根」
「根が遠くまで届くから、ではありません。遠いものを、根のように受けてしまうからです」
ミャオリンは、未送信灯を胸の前で低く持った。まだ点けない。灯の輪郭だけが、霧の粒を受けて薄い青になる。
「ネオンシャの信号も、少し混ざってるにゃ」
「混ざっている、と言い切れますか」
旅人が問うと、ミャオリンはしっぽを小さく振った。
「言い切れないにゃ。けど、まったく違うとも言い切れないにゃ」
その言い切れなさが、霧の中でいちばんはっきりしていた。
電脳樹の根元へ近づくと、土の色が変わった。黒い土の中に、細い銀色の筋が入っている。筋は金属ではない。指で触れれば折れそうな菌糸にも見える。だが、近づく前から、そこに弱い明滅があることだけは分かった。
明滅は、言葉を作りそうだった。
一つの点が光り、少し遅れて隣の点が光る。二つの点のあいだに、線があるように見える。線が見えると、意味を探したくなる。意味を探すと、次の点が来る前に、前の点へ名前をつけたくなる。
旅人は、見えた線から目を少し外した。
線を見ないのではない。
線だけを見ない。
「読めそうです」
言ってから、旅人は足元へ視線を戻した。
読めそう、という言葉には熱がある。読める、と言い切るより弱い。けれど、読めない、と諦めるより強い。熱は悪くない。熱があるから、見ようとする。だが、熱が強すぎると、霧の粒が文字に見えてくる。
霧胞子が、電脳樹の周りを漂っていた。
胞子は白い。白いだけなら、霧と区別がつかない。けれど、近づくと、ひと粒ずつが少しだけ角を持っていた。角は文字の端に見える。払いにも、点にも、折れにも見える。
「文字みたいに見えるにゃ」
ミャオリンの声は小さい。
「文字ではありません」
リリウムが言う。
「まだ」
ククルーが付け足した。
リリウムは、少しだけククルーを見た。
「そうだね。まだ、と言ったほうが近いね」
まだ文字ではない。
それは、文字になる前のものを守る言い方にも聞こえた。だが同時に、いつか文字になるはずだと決めてしまう危うさも持っている。旅人は、その両方を足元へ置いた。
「まだ、にも向きがありますね」
「あるにゃ」
ミャオリンは、読まない向きの星読み札を思い出すように、指先を動かした。
「送る前のまだ。読める前のまだ。読まないで残すためのまだ。似てるけど、同じじゃないにゃ」
電脳樹の根元に、古い台の跡があった。
台そのものは壊れている。脚は二本だけ残り、板の中央は沈んでいた。誰かがここで何かを読もうとしたのかもしれない。聞こうとしたのかもしれない。だが、残っているのは、読んだ結果でも、聞いた記録でもない。置かれた重さの跡だけだった。
リリウムは、その跡へ直接近づかなかった。
「昔の読み台です」
「使えますか」
「使おうとすると、昔の読み方も一緒に起きます」
リリウムは、湿った葉を一枚拾い、壊れた台の手前に置いた。
「今日は、手前に置きます」
「直さないのですか」
旅人が尋ねると、リリウムは首を横に振った。
「直すと、ここが読める場所だったことになります。読める場所だったと言うと、読めなかったものが失敗に見えます」
ミャオリンは、未送信灯を壊れた台の上に置こうとして、止めた。
「置きやすい場所があると、そこに置きたくなるにゃ」
「置きやすい場所は、前の手の形を持っているからね」
ククルーが言った。
ククルーは、鈴に触れず、浅い連絡袋の外側から乾かしきらない布を外した。布は森の湿りを受け、砂皿市にいたときより重い。布の端には、砂の細い粒が一つ残っている。
「新しい台にするかな」
ククルーは、旅人へ布を渡した。
旅人は、すぐには受け取らなかった。
新しい台を作る。それは、壊れた台を直すより柔らかい。けれど、台を作れば、何かを置く場所ができる。置く場所ができれば、置いたものを読みたくなる。
「聞くための台なら、どうでしょう」
旅人が言うと、ミャオリンが耳を倒した。
「聞く、も速いにゃ。聞いたことにして送れるにゃ」
「では、聞く前の台」
リリウムは、湿った葉の上に、木皿を置いた。
「低い聞き台。聞くためではなく、聞こえそうになった手を置くための台です」
言葉にすると、それでも少し形ができる。
低い聞き台。
名前ができた瞬間、霧胞子が少しだけ集まったように見えた。名づけたから集まったのか、集まったように見えたから名前が強くなったのか、分からない。
旅人は、その分からなさを台の横へ置いた。
ククルーの布を、壊れた台の手前の土に敷く。布は平らにならない。湿りと砂粒のせいで、端が少し浮く。浮いた端の下に、細い根が一本通っていた。根は黒く、ところどころに青い明滅を持つ。電脳樹の遠根なのか、別の木の根なのか、すぐには分からない。
「踏まないように」
リリウムが言った。
旅人は、布の位置を少しずらした。
ずらすと、根の明滅も少し変わった。光が強くなったのではない。見える角度が変わっただけかもしれない。だが、角度が変わると、点の並びも違って見える。
「今、文字になりそうだったにゃ」
ミャオリンが言った。
旅人にも、そう見えた。
三つの点が、斜めに並ぶ。少し離れて、もう一つの点がある。点と点を結べば、短い合図のようになる。ネオンシャなら、誰かがすぐ読み取り表を出すかもしれない。シルヴァリスなら、葉脈の流れと比べるかもしれない。
だが、ここではまだ、表も葉脈も出さない。
「読めそうになった手を、置きます」
旅人は、低い聞き台の端へ手を置いた。
手のひらを、根に触れさせない。布にも押しつけない。浮いた布の影に、手の重さを少しだけ預ける。
電脳樹の明滅は、変わらない。
変わらないように見える。
それでも、旅人の手の内側では、読もうとする力が少しだけ弱まった。
リリウムは、その横へ湿った葉をもう一枚置いた。
ミャオリンは、未送信灯を台から少し離して置いた。
ククルーは、鳴らない鈴の縁を指で押さえず、鈴の影だけを布の外へ落とした。
四つのものが、低い場所に並んだ。
湿った葉。
未送信灯。
浮いた布。
鈴の影。
どれも、電脳樹を読む道具ではない。
どれも、読めそうになった手を少し遅らせるものだった。
霧胞子が、低い聞き台の周りをゆっくり回った。ひと粒が布の浮いた端へ触れ、白い点を残す。その点は、すぐ消えない。消えないから、印に見える。印に見えるから、意味をつけたくなる。
旅人は、白い点を見たまま、意味をつけなかった。
「消えませんね」
「消えないものは、記録に見えます」
リリウムが言った。
「でも、記録に見えることと、記録として扱うことは違います」
ミャオリンは、未送信灯のふちを撫でた。
「信号に見えることと、信号として送ることも違うにゃ」
ククルーは、鈴の影を見た。
「合図に見えることと、合図にすることも違うね」
三つの違いが、低い聞き台の周りに残った。
旅人は、白い点の残った布端を見た。
点は小さい。
小さいのに、目を引く。
目を引くものは、すぐ中心になりたがる。中心になると、周りの湿りや根の影や未送信灯の暗い縁が、点を説明するための外側に変わってしまう。
リリウムは、布端の点の横へ、浅い葉皿を置いた。
皿には何も入っていない。
水もない。
胞子も入れない。
ただ、白い点を見たあとで、目を下ろす場所として置かれた。
「読む前の白点皿です」
リリウムは言った。
「点を入れる皿ではありません。点を読もうとした目を、少し横へ置く皿です」
旅人は、白い点と皿を交互に見た。
皿があるだけで、点は少し遠くなる。
消えたわけではない。
点はまだ布端にある。
けれど、点だけを見てしまう手前に、皿の空が挟まった。
ミャオリンは、未送信灯の明かりをさらに低くした。
青いふちが、白い点へ届かなくなる。
「光を当てると、白い点が読みやすくなるにゃ」
「読みやすくなると、助かることもあるね」
ククルーが言った。
「でも、今は助けすぎると、点が先に答えになりそうだね」
ミャオリンは、未送信灯を手前へ引いた。
「助けすぎる灯りは、今日は休ませるにゃ」
灯りの青が引くと、白い点は少し鈍くなった。
鈍くなった点は、かえって布の湿りに近づいた。
旅人は、点を失った気がしなかった。
読みにくくなったのに、見失ってはいない。
その中間が、低い聞き台には必要だった。
ククルーは、鈴の影の下に、小さな根影布を置いた。
根影布は、乾かしきらない布より暗い。
森の根元の影を切り取ったように見えるが、実際にはただの薄い布だった。縁だけが少し波打っていて、根の曲がりに似ている。
「触れる前の根影かな」
ククルーは、名前を決めるようには言わなかった。
仮に置いた言葉だった。
「根に触らないための布ですか」
旅人が聞くと、ククルーは首を少し傾けた。
「触らないため、だけだと少し強いかな。触れそうになった手が、いったん影を見るための布だね」
旅人は、自分の手を見た。
根へ触れたいわけではない。
けれど、根が明滅し、白い点が残り、低い聞き台ができると、確かめたい手は少しずつ前へ出る。
確かめたい手は、乱暴な手ではなかった。
むしろ、丁寧に知ろうとする手だった。
だからこそ止めにくい。
丁寧な手は、自分が急いでいることに気づきにくい。
旅人は、その手を根影布の上へ近づけた。
触れない。
影だけが、根影布に落ちる。
根影布の暗さは、旅人の影を吸い込まなかった。濃くもならない。薄くもならない。ただ、影がそこに来たことを、布の波打つ縁が少しだけ受けた。
「触れていません」
旅人が言った。
「うん。触れていないね」
ククルーはうなずいた。
「でも、触れそうになったことは、ちゃんとここにある」
その言い方で、旅人の手は少し楽になった。
触れそうになったことを隠さなくてよい。
触れなかったことをえらい結果にも、しなくてよい。
ただ、触れそうになった手が低い場所にある。
リリウムは、読む前の白点皿と根影布のあいだを少し空けた。
空けすぎると、別々の道具になる。
近づけすぎると、白い点を読まないために根へ触れない、という一つの作法になってしまう。
今は、別々の手前として置く。
白い点を読みたい目。
根へ触れそうな手。
未送信灯で助けすぎそうな明かり。
鈴を合図にしたくなる影。
それらは似ている。
だが、同じではない。
低い聞き台の手前に、リリウムは小さな影布を一枚置いた。台へ乗せるものではない。台の下へ敷くものでもない。聞く前に、手の影だけをいったん休ませるための布だった。
霧胞子は、影布の端へゆっくり降りた。粒は文字に見えなかった。けれど、粒と粒の間が、ふと文字の余白に似ることはあった。ミャオリンの指が、一度だけ近づく。写せるかもしれない、という手だった。
「写したくなる前に、手を置けますか」
リリウムが尋ねると、ミャオリンは指を引いた。
「置けます。いまの手は、送る手ではありません」
ククルーは、鈴を見た。鳴らさない鈴の影が、影布の端へ細く伸びている。影は合図にならない。けれど、合図になりそうな形を持つことはある。その形を見たあとで鳴らさずにいることは、何もしていないこととは違った。
旅人は、読み台の壊れた縁へ触れなかった。直す手ではない。壊れた理由を探す手でもない。ただ、聞けそうなものが近くにあるときほど、聞く前の場所を残す手だった。
電脳樹は、答えを返さない。
返さないまま、根の奥で細く明滅する。見ようとすれば見える。読もうとすれば、何かが読めそうになる。けれど、読めそうなものほど、まだ読まない場所が必要だった。
旅人は、壊れた昔の台を見た。
台は、何かを読み切れなかった場所に見える。あるいは、読み切ったつもりで置かれた場所にも見える。どちらなのかは分からない。
分からないまま、手前に新しい低さを作った。
「ここで、少し聞きます」
旅人が言うと、リリウムはすぐ訂正しなかった。
ミャオリンも、送信灯を点けなかった。
ククルーも、鈴を鳴らさなかった。
少し聞く。
それは、聞き切ることではない。聞いたことにすることでもない。聞こえそうになった手を、根元へ近づけすぎず、遠ざけすぎず、低い台の端に置くことだった。
霧の奥で、電脳樹がもう一度明滅した。
白い胞子が、文字の端のように揺れる。
信号根が、森の根のように湿る。
低い聞き台は、答えを受け取らない。
ただ、読めそうになった手を、そこに置かせた。




