霧の中の電脳樹 4 言葉になる前の根音
根音皿の外側についた白い点は、まだ消えなかった。
消えないから、目が戻る。
目が戻るから、意味をつけたくなる。
旅人は、白い点から少し視線を外した。外すと、今度は電脳樹の根元が聞こえた。聞こえた、と言ってよいのか分からない。耳に届いたわけではない。足裏に先に触れ、膝の内側を通り、胸の少し下で遅れて震えた。
音というには、体の中に近い。
文字というには、形がない。
合図というには、誰かへ向かっていない。
「今の、聞こえたにゃ」
ミャオリンが言った。
「耳で、ですか」
旅人が尋ねると、ミャオリンは耳を左右に動かした。
「耳だけじゃないにゃ。しっぽの根元にも来たにゃ」
リリウムは、湿った札のそばにしゃがんだ。葉裏のしずくの下に置いた木片は、さらに暗くなっている。書かれていないのに、そこだけ時間が長く見えた。
「森では、耳だけで聞くものばかりではありません」
「でも、耳で聞かないものを音と呼ぶと、音のほうが広くなりすぎるね」
ククルーは、静かに言った。
鈴は鳴らない。
鳴らない鈴の近くにも、さきほどの震えは届いたはずだった。だが鈴は揺れない。揺れないから、聞こえなかったことにはならない。揺れたら合図に見えすぎる。揺れないまま、鈴の縁だけが少し冷えているように見えた。
旅人は、電脳樹の根元へ半歩近づいた。
リリウムが、すぐ声をかけた。
「根には触れないで」
責める声ではない。足元へ置く低い紐のような声だった。
旅人は止まった。
止まると、根音は少し遠くなった。遠くなったのか、足が次の震えを待ってしまったのか、分からない。待つと、体が先に形を作る。次はこう来るはずだ、という場所を用意してしまう。
「待っている場所が、先にできました」
旅人が言うと、リリウムはうなずいた。
「それも、低い布へ置こう」
ククルーが、乾かしきらない布の端を広げた。低い聞き台に使った布とは別の端だ。砂の粒は残っていない。ただ、森の湿りを吸って、布全体が少し重くなっていた。
「名づけたい手も、待ちたい体も、同じ布で見られるかな」
ククルーは尋ねた。
リリウムは少し考えた。
「同じ布でよいです。でも、重ねません」
布の左端には、名づけたい手を置く。右端には、待ってしまう体を置く。リリウムはそう言ったわけではない。けれど、布を広げる手つきが、二つを重ねない場所を作っていた。
旅人は、自分の手を見た。
名づけたい手。
根音、ともう呼んでいる。呼んだ時点で、少し名前になっている。音にも文字にもなる前の揺れを、根音という仮の場所へ置いている。その仮の場所が強くなれば、あとから聞くものは全部、根音として集められてしまう。
「根音という言葉も、もう少し低く置いたほうがいいですか」
旅人が言うと、ミャオリンは首をかしげた。
「名前がないと話しにくいにゃ」
「名前があると、集まりすぎます」
リリウムが続けた。
「だから、低く置く名前にします。呼ぶためではなく、呼びすぎないための札です」
ククルーは、布の端に小さな名前未満札を置いた。
文字はない。
札というより、薄い木片だった。だが、前の湿った札よりも少し乾いている。乾いていると、書けそうに見える。書けそうに見えるから、旅人は手を伸ばしたくなる。
「書かないよ」
自分で言って、手を止めた。
「書かない、と決めるのも強いね」
ククルーが言った。
「では、今は書かない」
旅人は言い直した。
その言い直しだけで、手の力が少し抜けた。
電脳樹の根元から、また震えが来た。
今度は、前より浅い。
土の表面だけを通ったような震えだった。足裏には届く。膝までは来ない。胸までは上がらない。けれど、根音皿の外側についた白い点が、ほんの少しだけ濃く見えた。
「皿が受けたように見えます」
旅人は言った。
「受けてはいません」
リリウムがすぐに言う。
「見えただけ、ですか」
「見えただけ、にすると、見えた手が軽くなりすぎます」
リリウムは根音皿を動かさない。
「受けたことにもしない。見えただけにも、しない。皿の外側の点が濃く見えた、とだけ置きます」
ミャオリンは、未送信灯を低く持ったままうなずいた。
「送信記録にしにくいにゃ」
「しにくいままにしましょう」
ククルーは、布の右端を見た。
「待ってしまう体は、どう置くかな」
旅人は、息を止めていたことに気づいた。
次の震えを待っていた。胸の下で、もう一度同じ場所が震えるのを待っていた。同じ場所に来れば、さきほどの感覚と比べられる。比べられれば、少し言葉になる。
旅人は、息をゆっくり吐いた。
「同じところに来てほしいと思っていました」
「同じところに来ると、安心しますか」
リリウムが尋ねる。
「はい」
「安心したい体を、責めずに置きます」
低い布の右端へ、旅人は手のひらを近づけた。触れない。布の少し上で止める。手の影だけが、布に落ちた。
影は動く。
手が震えると、影も揺れる。
「影のほうが正直だね」
ククルーが言った。
「手は止めたつもりでも、影は少し動くね」
「影を記録するかな」
ミャオリンが聞いた。
ククルーは首を横に振った。
「記録すると、次は影を止めたくなるかもしれないね」
旅人は、布に落ちた影を見た。
根音は、また来るかもしれない。来ないかもしれない。来ても、同じ場所を通らないかもしれない。同じ場所を通っても、同じものとは限らない。
その不確かさを、不足にしない。
旅人の胸の少し下には、さきほどの震えの名残が残っていた。
痛みではない。
温かさでもない。
そこだけ、内側から薄い葉を当てられているような感覚だった。息を吸うと葉が少し浮き、吐くとまた沈む。だが、葉が本当にあるわけではない。胸の中を探しても、何も持てない。
「ここにも、まだ残っています」
旅人は胸の下を押さえなかった。
押さえれば、そこが場所になる。
場所になれば、次の根音もそこへ来てほしくなる。
リリウムは、旅人の手が止まった位置を見た。
「押さえない場所も、置こう」
リリウムは低い布の右端に、薄い葉形の影札を置いた。葉ではない。影でもない。葉の形をした小さな黒い札だった。表面には筋がなく、裏表も分かりにくい。
「胸の葉影札です」
「胸にあるものではありません」
旅人が言うと、リリウムはうなずいた。
「はい。胸にあるものにしないための札です」
胸の葉影札は、旅人の体から少し離れている。
離れているのに、胸の下の名残を思い出させる。
近づけすぎれば、体の場所を示す札になる。
遠ざけすぎれば、ただの黒い札になる。
リリウムは、そのどちらでもない距離を選んだ。
ミャオリンは未送信灯を見た。
「体の中の感じも、記録しようと思えばできるにゃ」
「できるのですか」
旅人が聞くと、ミャオリンは少し耳を伏せた。
「できる形に近づけることはできるにゃ。震えの長さ、息の間、手が止まった高さ。ぜんぶ数に近づくにゃ」
数に近づく。
それは便利なことだった。
便利だから危ない、というだけではない。便利なものを使えないふりにすれば、今度は記録する手そのものが隠れてしまう。
ククルーは、胸の葉影札の横に、丸くない小石を置いた。
「測りたい手も、悪者じゃないね」
小石は、測る道具ではない。
けれど、手のひらに乗せれば重さを感じられる。重さを感じれば、比べたくなる。比べたくなれば、次に同じくらいのものを探したくなる。
「測る前の小石かな」
ククルーは、そう言って小石を低い布の端へ置いた。
「測る前」
旅人は繰り返した。
「測らない、と言い切るより低いね」
ククルーは笑わなかった。
笑うと、少し楽になりすぎる場面だった。
測りたい手は、旅人の中にもある。
根音が同じ場所へ来たかどうかを知りたい。
さっきより浅いか深いかを知りたい。
胸の下の葉のような感覚が、次も同じ形で浮くのかを知りたい。
知りたい手は、根へ触れたい手と似ていた。
似ているが、同じではない。
根へ触れたい手は外へ伸びる。
測りたい手は内側へ戻る。
内側へ戻る手のほうが静かに見えるぶん、急いでいることに気づきにくい。
旅人は、胸の葉影札と測る前の小石のあいだへ、手の影を落とした。
影は二つに届かなかった。
間に、細い空きがある。
その空きが、体の中の感覚と、それを測りたい手を同じにしないための場所になった。
リリウムは、空きへ何も置かなかった。
ミャオリンも、未送信灯を向けなかった。
ククルーも、鈴の影を近づけなかった。
空きは、空いたまま残った。
リリウムは、低い布の中央に霧糸を一本置いた。
霧糸は、見える糸ではない。霧の粒が細く並んで、糸のように見えるだけだ。リリウムが指先を動かすと、糸はすぐほどける。ほどけても、切れたわけではない。もともと結ばれていない。
「霧糸は、線に見えます」
リリウムは言った。
「でも、線ではありません。つなげる前の並びです」
ミャオリンは、遅い信号紐を見た。
「紐に似てるにゃ」
「似ています」
「でも、紐じゃないにゃ」
「はい」
「紐じゃないものを、紐のように使いたくなるにゃ」
「使いたくなる手を、低い布へ置きます」
ミャオリンは、未送信灯を持つ手とは反対の手を布の近くへ下ろした。
そこには、旅人の影がある。名前未満札がある。霧糸がほどけかけている。ミャオリンの手が近づくと、霧糸は少し揺れた。揺れただけだ。反応ではない。合図ではない。
「今、返事に見えたにゃ」
「返事にしません」
ミャオリンは、自分で言った。
「返事にしないけど、返事に見えた手は置くにゃ」
その手も、布の近くで止まった。
低い布のまわりには、触れない手が増えていく。
増えた手を数えれば、並びにできる。並びにすれば、どの手が先で、どの手が後かを言いたくなる。けれど、低い布のまわりにある手は、順番を作るために止まったのではなかった。
旅人の影は、名前を置きたい場所へ伸びている。
ミャオリンの指は、霧糸を紐として使いたい場所で止まっている。
ククルーの鈴の影は、鳴らさないまま聞こえたことにしたくなる場所へ落ちている。
リリウムの指の跡は、ほどけた霧糸を線として残したくなる場所にある。
どれも近い。だが、重ならない。重ねれば、同じ迷いになる。同じ迷いにすれば、ひとつの布で包める。包めれば、持っていける。持っていけると、ここで止まった手の違いは薄くなる。
「分けて置くのですね」
旅人が言うと、リリウムは布の端を少しだけ直した。
「分けすぎても、別々の問題になります」
「近すぎても、ひとつになるね」
ククルーの声は、鈴の影の上で止まった。
ミャオリンは、未送信灯を布から少し離した。
「近くで見る。まとめない。遠くへやらない。むずかしいにゃ」
「むずかしさも、ここに置けるね」
リリウムは、布の中央へ何も置かなかった。空いている場所があると、何かを置きたくなる。だが、その中央は、どの手にも属さないまま残すための空きだった。
旅人の手。
ミャオリンの手。
ククルーの鈴の影。
リリウムの霧糸を置いた指の跡。
どれも、根音をつかまえない。
どれも、根音をなかったことにしない。
電脳樹の根元で、胞子灯が淡く明滅した。
いつからそこにあったのか、旅人は気づいていなかった。胞子灯は、灯という名を持っているが、火ではない。胞子が集まり、白い息を内側から照らしているように見えるだけだ。点いたと言えば点いたようで、濃くなったと言えば濃くなったようでもある。
「これも、記録棚へ送れるにゃ」
ミャオリンが言った。
「送れる形に見えますね」
リリウムは、胞子灯を見た。
「でも、送りません」
「なぜですか」
旅人が尋ねる。
「今送ると、明滅したものが記録になります。記録になると、次に明滅しないものが欠けたように見えます」
「明滅しないものも、ある」
「あります」
リリウムは、胞子灯の下に何も置かなかった。
「何も置かないのかな」
「置くと、見る場所が決まります。今は、決めないで見ます」
決めないで見る。
それは簡単なようで、難しかった。目は明るいものへ行く。明るいものは意味を呼ぶ。意味は言葉を呼ぶ。言葉は次の手を呼ぶ。
旅人は、明滅する胞子灯から目を外し、足元の布を見た。
低い布には、まだ何も書かれていない。名前未満札にも文字はない。霧糸はほとんどほどけている。手の影は少し薄くなった。だが、そこには確かに、名づけたい手、待ちたい体、使いたい手、返事に見えた手が置かれている。
置かれているのに、記録ではない。
記録ではないのに、なかったことではない。
根音が、もう一度来た。
今度は、足裏にも胸にも届かなかった。
耳の近くで、何かがほどけたように感じた。音ではない。文字でもない。呼びかけでもない。けれど、旅人は思わず顔を上げた。
ミャオリンも顔を上げた。
ククルーの鈴は鳴らない。
リリウムは、胞子灯を見ていない。低い布を見ている。
「同じ根音ではありません」
リリウムが言った。
「同じ根元から来たのに」
旅人は言った。
「同じ根元から来ても、同じものとは限りません」
同じ根元。
同じではない揺れ。
その二つを一緒に持つと、胸の中が落ち着かない。落ち着かないから、どちらかに寄せたくなる。同じ流れだと言いたくなる。別の音だと言いたくなる。
旅人は、その寄せたくなる手を低い布へ置いた。
布は、少し沈んだ。
沈んだだけだ。
答えは出ない。
それでよかった。
根音は、言葉にならなかった。
旅人は、そう考えかけて、すぐにその言い方も置いた。
区切りではない。
結果でもない。
ただ、根元で揺れたものが、言葉になる前のまま、低い布のまわりに残った。
胞子灯の明滅は、記録棚へ送られない。
未送信灯は低いまま。
遅い信号紐は結ばれないまま。
根音皿の外側の白い点は、少し薄くなった。
薄くなったから、消えたとは言わない。
薄くなったまま、次の記録棚の手前へ、まだ渡さずに残った。




