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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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第2巻 名前のない託宣 第8章 リリウムの言いそびれ

照合塔を出たあと、リリウムはすぐには話さなかった。


話します、と言った声は、たしかに逃げていなかった。けれど、逃げていないからといって、すぐに開けられる棚ばかりではない。


名前を置く係は、照合塔の坂を下りきったところで立ち止まった。


霧は腰の高さまで来ていた。少し歩くだけで、服の裾がしっとり重くなる。遠くの灯り輪は、霧の中で丸ではなく、ほどけた糸のように見えた。


「未整理棚を開くなら、ここではありません」


係は肩掛け棚を抱え直した。


「照合塔は、あるものを比べる場所です。まだ言いそびれているものは、比べるより先に、休ませて聞く場所へ置いたほうがいい」


リリウムは頷いた。


「胞子膜の小部屋を借りられますか」


「もちろんです」


係は僕を見た。


「旅人さんも、来ますか」


僕はリリウムを見た。


リリウムは少しだけ迷った。迷ったことが分かるくらい、袖の下の古い札が淡く明滅した。


「来てください」


その言い方は、お願いではなく、許可でもなかった。


自分で置く場所を選んだ人の声だった。


ククルーは尻尾の先で霧を一度払った。


「それじゃ、講義ではなく、同席だね」


「ククルーは何もしないの?」


僕が聞くと、ククルーは真面目な顔で言った。


「何もしない、はけっこう難しい同席だよ」


「講義ではないんじゃ」


「うん、その引っかかりは大事だね」


いつもの調子なのに、鈴は鳴らなかった。


僕はそのことを聞かなかった。


聞かないことも、たぶん今は、置くことだった。


胞子膜の小部屋は、名前を置く係の作業場の奥にあった。


以前見た胞子図書洞ほど広くはない。人が三人と、ククルーが座ればいっぱいになるくらいの小さな丸い部屋だ。壁は薄い膜で覆われていて、息をするたびに、膜の表面へ細かな胞子の点が浮かんでは消える。


中央には低い台がある。台の上には何も置かれていない。


何も置かれていないのに、そこだけ霧が避けていた。


名前を置く係は肩掛け棚から、空の薄皿を一枚出した。


「話す前に、ここへ置くものを決めます」


リリウムは薄皿を受け取った。


「全部ではありません」


「はい」


「正確な順番でもありません」


「はい」


「誰かを責めるための記録でもありません」


係は三度目に、少し深く頷いた。


「では、今日は何を置きますか」


リリウムは薄皿を両手で持った。


袖の札が、布の下でひとつ光る。


「私が、一度だけ名前を急いだこと」


言葉が皿の上に落ちた。


音はしなかった。


けれど、胞子膜が一斉に、息を止めるように静かになった。


リリウムは座った。僕も向かいに座る。ククルーは僕の隣で丸くなったが、眠るためではなく、床に耳を近づけるためだった。


名前を置く係は、入口のそばに座った。


「旅人さん」


リリウムが僕を呼んだ。


「はい」


「今日の話は、あなたの登録不能を解く答えではありません」


「分かっています」


言ってから、少し考えた。


「分かっている、と思います」


リリウムはその訂正を聞いて、目元だけで笑った。


「そのくらいが正確です」


胞子膜に、最初の景色が浮かんだ。


古い森だった。


今のシルヴァリスと同じ森なのに、霧の色が少し違う。白ではなく、青みのある朝の色。木々の根元には、小さな名札が並んでいる。今の名前棚よりもずっと簡単で、薄い葉に短い音だけが書かれていた。


その中を、若いリリウムが歩いていた。


今より少し小さく、今より少し早く歩くリリウム。


袖には、まだ古い札が付いていない。


手には語り部の杖があった。


「語り部だったのですか」


僕が小さく聞くと、リリウムは首を横に振った。


「語り部見習いです。正確には、聞こえた話をみんなが読める順番へ直す係でした」


「今と、少し似ています」


「似ています。でも、あの頃の私は、似ていることと同じことをよく間違えました」


膜の中の若いリリウムは、霧の中に耳を澄ませていた。


遠くから、声が聞こえる。


リリ。


リリ。


そこで止まる。


呼びかけは、いつも二音で切れていた。


若いリリウムは、葉の名札を一枚取った。そこへ、リリ、と書く。書いたあと、少し考えて、隣に細い線を足した。


リリ、ではなく。


リリウム。


「自分の名前にしたのですか」


「違います」


リリウムの返事は早かった。


早すぎたことに自分で気づいたのか、彼女は薄皿を見た。


「違う、だけでは足りませんね」


胞子膜の景色が少し揺れる。


「あの声は、私を呼んでいるようにも聞こえました。でも、私だけを呼んでいるとは限らなかった。霧の中には、二音までしか届かない託宣がいくつもありました。リリ、ミミ、ネネ、セセ。途中で息を休める声です」


「休み」


僕は手首の灯り紐を見た。


一つ。休み。もう一つ。


リリウムは頷いた。


「私は、その休みを待てなかった」


膜の中の若いリリウムは、名札を高く掲げた。


リリウム。


その名前が胞子に乗って、森へ広がる。


霧がいったん明るくなった。


若いリリウムの顔も明るくなる。見つけた、という顔だった。役に立てた、という顔でもあった。


でも、次の瞬間、霧の奥でたくさんの短い声が重なった。


リリ。


リリ。


リリ。


リリウム、と書かれた名札へ、届くはずだった声が集まっていく。


一枚の札が、重くなる。


葉の札は耐えきれずに垂れ下がった。若いリリウムは両手でそれを支えた。支えながら、嬉しそうな顔をやめた。


「名前を与えたつもりでした」


今のリリウムが言った。


「でも、本当は、途中までしか聞こえていない声を、私の知っている形へ寄せただけでした」


ククルーは床に耳を付けたまま、目を閉じている。


名前を置く係は、肩掛け棚の引き出しに手を添えていた。


「それで、霧の巨像が」


僕は言いかけて、止まった。


リリウムが僕を見る。


「言ってください」


「霧の巨像は、その時の声ですか」


「一つではありません」


リリウムは胞子膜へ目を戻した。


「でも、混ざっています。私が急いだ名前も、その一部です」


膜の景色が変わった。


名札に集まりすぎた声を、若いリリウムが剥がそうとしている。剥がせば剥がすほど、札は薄くなる。薄くなるのに、声は軽くならない。


誰かが言った。


それは君の名前だから、君が持ちなさい。


誰かの顔は、膜に映らなかった。


若いリリウムは頷いた。


頷いてしまった。


その日から、袖に古い札が付いた。


リリウム、と書かれた札。


正しい名前としてではなく、急がれた名前の重さを忘れないための札。


僕は息を吐いた。


胸の中に、登録されない旅人、という文字がまだ残っている。


登録されないことを怖がっていた。


でも、登録されることにも、別の怖さがあった。


名前があると、呼びやすい。


呼びやすいと、集めやすい。


集めやすいと、間違ったものまで、その名前の下に置いてしまう。


「私はそれから、名前を急がない係になりました」


リリウムは言った。


「名前を置く係を手伝い、照合係の言葉を覚え、胞子図書洞で読めないものを読めないまま扱う作法を学びました。正確であろうとしたのは、優秀に見られたかったからではありません」


彼女は薄皿の縁を指でなぞった。


「また急ぎたくなかったからです」


僕は何を言えばいいのか分からなかった。


分からない時は、聞く。


これまでの旅で何度も教わったことだ。


でも今は、質問が相手を追い詰めるかもしれない。


聞くことと、問い詰めることは違う。


僕は胸の中にできた質問を一枚ずつ見た。


つらかったですか。


誰のせいですか。


どうして黙っていたのですか。


どれも、今の皿には大きすぎる。


だから、別の言葉を探した。


「今、ここに置けたものはありますか」


リリウムはゆっくり瞬きをした。


それから、薄皿を見た。


皿の上には何もない。けれど、胞子膜に浮かんでいた若いリリウムの姿が、少し薄くなっている。


消えたのではない。


近すぎた場所から、少し離れた。


「あります」


リリウムは答えた。


「私は、あの声を私の名前にしたのではありません。私の知っている名前で、あの声を止めてしまった」


その違いは、長かった。


長くて、持ちにくい。


でも、投げられない。


名前を置く係が、そっと息を吐いた。


「その文のまま、置きましょう」


係は小さな空札を出した。


リリウムはそこへ、自分で文字を書いた。


私は、あの声を私の名前にしたのではなく、私の知っている名前で、あの声を止めてしまった。


文字は少し震えていた。


でも、途中で止まらなかった。


書き終えると、胞子膜の奥から、また声が聞こえた。


リリ。


今度は二音のあとに、長い休みがあった。


誰もその休みを埋めなかった。


ククルーの鈴も鳴らない。


灯り紐も、急いで光らない。


僕たちは待った。


一つ。


休み。


もう一つ。


膜の奥で、声が続いた。


リリ、ウム。


リリウムは目を閉じた。


呼ばれたのだと思った。


でも彼女は、はい、と返事をしなかった。


代わりに、こう言った。


「聞いています」


その言葉に、胞子膜が柔らかく波打った。


リリウムを責める声ではなかった。


許す声、と言うには早い。


ただ、二音で止まっていたものが、休みを挟んで、続けられる場所を見つけた。


僕はそのことに、胸の奥が熱くなった。


名前を返す、という言葉が浮かぶ。


まだできない。


でも、名前を急がないだけでは、足りないのかもしれない。


急いで集まったものを、それぞれの休みへ返す。


それが、この森で最後に必要になることだと、まだ言葉にはできないまま感じた。


リリウムは空札を薄皿へ置いた。


「旅人さん」


「はい」


「あなたが登録されないことで、私の古い記録が起きました。それは、あなたのせいではありません」


「はい」


「でも、あなたがいなければ、起きなかったかもしれない」


僕は頷いた。


その二つは、両方置ける。


せいではない。


でも、関係はある。


「だから、ありがとう、も、すみません、も、今日は急ぎません」


リリウムはそう言って、少し笑った。


今度の笑いは疲れていたけれど、さっきよりも息が入っていた。


「代わりに、次の手順を置きます」


名前を置く係が顔を上げた。


「ミケリオン本体ですね」


リリウムは頷いた。


「霧の巨像は、集まりすぎた声の形です。私の急いだ名前だけでできているわけではありません。でも、私の札は、そこへつながっています」


「ミケリオンの傘下に入れば、胞子の根元から聞けます」


係は言った。


「ただし、本体の傘下では、名前を持つ人ほど強く呼ばれます。リリウムさんは」


「行きます」


リリウムの返事は静かだった。


急いでいない。


でも、逃げてもいない。


ククルーがようやく顔を上げた。


「それじゃ、旅人さん」


「はい」


「次の案内名を置くなら、何かな」


僕は胞子膜を見た。


二音で止まっていた声。


長い文のまま置かれた札。


光る灯り紐と、光らない灰色の紐。


登録されないこと。


名前を急がないこと。


それから、急いでしまった名前を、どこへ返すのかという問い。


「呼ばれても、すぐ返事をしない練習」


僕が言うと、ククルーは少し考えた。


「短くするなら、そうも言えるね」


「短くしないほうがいい気がします」


ククルーは小さく髭を揺らした。


「それじゃ、そのままにしておこう」


小部屋の外で、霧が動いた。


足音ではない。


泣き声でもない。


けれど、昨日より近い。


霧の巨像だったものが、どこかで体を休めながら、こちらの声を聞いている。


リリウムは袖の古い札を隠さなかった。


名前を置く係は、肩掛け棚の一番下に、新しい空札を入れた。


僕はクロニクルブックを開いた。


七大陸登録網のページの下、さっきできた空欄に、細い字が浮かんでいる。


リリウムの言いそびれ。


その横に、まだ題名になりきらない言葉が続いた。


急いだ名前は、どこへ帰るのか。


僕はページを閉じた。


今度は、閉じたくて閉じたのではない。


次に開く場所が決まったから閉じた。


ミケリオンの傘下へ。


胞子の根元で、止まった声の続きを聞くために。

現時点で50巻分まで作成。

51巻分からサイドストーリーで100巻分ほど続く予定になっています。

日々の暮らしに、感性を追加出来る作品として、継続的に投稿していきます。

引き続きよろしくお願いいたします。

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