第2巻 名前のない託宣 第6章 巨像の足音
胞子図書洞の外へ出ると、霧は膝の高さまで沈んでいた。
いつもなら霧は枝の間を漂い、足元の菌糸を薄く隠すだけだった。けれど今は、地面の方から白い布を引き上げているみたいに重い。歩くたび、靴の先が霧を分ける。分けたところから、光る胞子が少しだけ浮かび、すぐに沈んだ。
集落の灯りは消えていない。
消えていないのに、遠く見えた。
名前を置く係が持ってきた空札の束は、霧に触れるたびに端が丸くなった。紙ではない。胞子膜を薄く乾かして作った札だと聞いていたけれど、今は生きている葉みたいに呼吸している。
リリウムは先頭を歩いた。
いつものように道を示すためではない。道が見えにくいからでもない。先頭に立たないと、自分が後ろへ残ってしまうと知っている歩き方だった。
ククルーは僕の横にいた。首の鈴は揺れている。揺れているのに、音が出ない。
「熱いかな」
僕が聞くと、ククルーは少しだけ目を細めた。
「熱い、というより、鳴り方を忘れている感じだね」
「鈴が?」
「鈴も、ぼくも」
その返事は冗談の形をしていなかった。
僕は足を止めかけた。けれどククルーは先に歩いた。止まらないことで、今は聞きすぎなくていいと示しているようだった。
名前を置く係が、空札の束を胸に抱え直した。
「巨像の近くでは、呼び名を強く出しすぎないでください」
「呼び名」
「あれ、とか、それ、とか、巨像、とか。便利な言葉ほど、霧に引っかかります」
「巨像って呼ぶのも?」
「仮置きなら大丈夫です。決定にすると重くなります」
僕は霧の向こうを見た。
巨大な輪郭は、まだはっきりしない。人の形に見える時もある。木の幹が何本も寄り合っているようにも見える。大きな獣が眠っているようにも、誰かが立ったまま泣いているようにも見えた。
巨像。
そう呼ぶと、輪郭が少しだけ人に近づいた気がした。
僕は慌てて言葉を飲み込む。
言葉を飲み込んだ瞬間、霧の向こうから低い拍が返ってきた。
一つ。
長い休み。
もう一つ。
地面が揺れる。けれど足音ではない。大きなものが歩いているなら、枝が折れたり、土が沈んだりするはずだ。でも森は壊れていない。ただ、あちこちの棚や瓶や空札が、見えない手で同じ拍を打たれている。
「足音じゃない」
僕が言うと、リリウムが頷いた。
「呼ばれなかった託宣が、歩く形を借りています」
「形を借りると、足音になるんですか」
「いいえ」
リリウムは振り返らずに答えた。
「足音だと思った人が多かったので、足音に近くなりました」
名前を置く係が、空札の束から一枚を抜いた。
「呼び間違いも、長く重なると姿になります」
集落の外れに着く頃には、織り手たちが何人も集まっていた。誰も武器を持っていない。代わりに、空札、灯り紐、名前を戻すための小さな匙、胞子の筆、蓋をしていない瓶を持っている。
家の入口には子どもたちが座っていた。大人が隠しているわけではない。見せすぎない場所に座らせ、見なくていい時は目を閉じられるように、膝に小さな布を置いている。
朝、青い音の瓶を持ってきた子もいた。
その子は僕に気づくと、二枚の空札を胸に当てた。ミズアオだったかもしれない札と、銀を飲んだかもしれない札。
今はどちらも、青くも銀色でもなく、霧の白さを少しだけ吸っていた。
「係さん」
別の織り手が駆け寄ってきた。
「名前をつける係が、外縁の柱に候補名を掛けようとしています」
名前を置く係の顔が曇った。
「止めましたか」
「止めると、余計に急ぎます。みんな怖がっています。呼べないと、近づいてくるものを避けられないから」
係は空札の束を僕に少し預けた。
「持てますか」
「はい」
札は軽かった。
でも、軽いのに手が沈む。書かれていない言葉が多すぎるのかもしれない。
僕たちは外縁の柱へ向かった。柱は集落の境に立つ菌糸の束で、普段は道案内の札が掛けられている。今日はそこに、いくつもの候補名が並んでいた。
霧の巨像。
名なしの大人。
忘れられた森。
帰れない託宣。
迷子の世界樹。
どれも、悪い言葉ではなかった。
悪い言葉ではないから、怖かった。
名前をつける係と思われる年配の織り手が、さらに一枚の札を掛けようとしていた。札には、沈黙の王、と書かれている。
「待ってください」
リリウムが言った。
声は静かだった。でもその静けさが、かえって強く響いた。
年配の織り手は振り返った。
「待っている間に、近づいています」
「はい」
「呼べないものは、伝えられません。子どもに説明できません。巡礼路を閉じる合図も出せません」
「はい」
リリウムは否定しなかった。
そのせいで、年配の織り手の肩が少し下がった。反論を待っていたのかもしれない。反論が来れば、名前を急ぐ理由をもっと強く言えたのだと思う。
「では、どうするのです」
リリウムはすぐ答えず、僕の方を見た。
僕は空札の束を抱えていた。
急に渡された問いみたいだった。
「仮の札を、複数に分けるのはどうですか」
僕は言った。
自信はない。でも、第5章で見た机の仕事が、手の中の札に残っている。
「避けるための呼び名。記録するための呼び名。怖さを置くための呼び名。全部を一つにしないで」
名前を置く係が、小さく頷いた。
「用途ごとの仮置きです」
年配の織り手は眉を寄せた。
「それでは長すぎる」
「長い方がいい時もあるね」
ククルーが言った。
「短い名前は便利だね。でも便利すぎる名前は、誰でもすぐ投げられる。投げられると、刺さることがあるんだ」
織り手はククルーの鈴を見た。
「ククルーの鈴は、鳴っていませんね」
ククルーは少しだけ笑った。
「うん。今日は始まりの合図が苦手なようだね」
笑いの形だけれど、声が乾いていた。
その時、霧の向こうの輪郭が動いた。
動いた、と思った。
でも、動いたのは輪郭ではない。霧に映っている人々の見方が、同時にずれたのだ。誰かが巨像だと思えば巨像に近づき、誰かが森だと思えば枝の重なりになり、誰かが忘れられた人だと思えば肩のような影が生まれる。
候補名の札が、一斉に震えた。
沈黙の王、と書かれた札だけが、強く黒ずんだ。
「外してください」
名前を置く係が言った。
年配の織り手が札に手を伸ばすより早く、黒ずんだ文字が霧へほどけた。
沈。
黙。
王。
三つの文字が霧の中で別々に浮かび、すぐに重なった。
低い拍が、今度は近くで鳴った。
一つ。
長い休み。
もう一つ。
集落の子どもが何人か、膝の布を握った。泣き声はない。けれど、泣く前の息があちこちで止まっている。
僕は空札を一枚取り出した。
何を書くべきか分からない。
書かないべきかもしれない。
でも、今は何もしないことも一つの決定になる気がした。
「怖い」
小さな声がした。
青い音の子だった。
その言葉に、周りの大人たちが一斉に子どもの方を見た。言ってしまった、という顔をする人もいた。言わせてしまった、という顔をする人もいた。
僕は空札を持って、その子の前にしゃがんだ。
「怖いを、ここに置いてもいい?」
子は驚いた顔をした。
「名前じゃないよ」
「名前じゃないから、置けると思う」
子は少し考え、頷いた。
僕は空札に文字を書かなかった。ただ、第5章で係がしていたように、空欄の縁を指で囲った。怖い、と口にした息が、札の表面へ薄く移る。
文字ではない。
でも、その空欄は確かに怖さの形を持った。
「怖いを置く札」
僕が言うと、名前を置く係が隣で別の札を作った。
「近づいているものを知らせる札」
リリウムが三枚目を作った。
「まだ読まれていない託宣の札」
ククルーは四枚目の札を見て、しばらく黙った。
「鈴が鳴らない札」
そう言って、札に前足をそっと置いた。
札は鳴らなかった。
けれど、ククルーの首元の鈴から、熱が少しだけ札へ移ったように見えた。鈴はまだ無音のまま、揺れを止める。
年配の織り手は、沈黙の王の札があった場所を見つめていた。
「王と呼ぶと、こちらは民になります」
リリウムが言った。
「沈黙と呼ぶと、声がないことになります」
名前を置く係が続けた。
「でも、向こうには声があります。多すぎて、聞き分けられないだけです」
僕は霧の向こうを見た。
輪郭の奥に、いくつもの細い光がある。水滴の中に映った集落の灯りよりも弱い。灯りの休み場の息継ぎよりも乱れている。図書洞の膜に浮かんだ記録よりも、互いに重なりすぎている。
声だ。
声というより、声になる前に押し合っているもの。
名をください。
名をつけないで。
ここにいます。
ここにいたくありません。
忘れないで。
思い出さないで。
どれも、同じ強さではない。どれも、はっきり聞こえるわけではない。でも、重なっている。
僕はクロニクルブックを開いた。
ページが勝手にめくれた。
持ち主名欄ではない。新しい項目が浮かびかけている。
霧の巨像。
その文字が出かけて、止まった。
巨像の「巨」の上に、薄い余白ができる。霧の「霧」の下に、休みの拍が入る。文字が完成しようとして、完成しきらない。
「クロニクルブックも迷っているね」
ククルーが言った。
「迷っていいのかな」
僕は聞いた。
「迷っている手も、ここに置けると思うよ」
ククルーはすぐに答えた。
そして、自分で少し驚いた顔をした。
「今のは、ぼくが少し先に言いすぎたね」
「でも、届く言葉でした」
僕が言うと、ククルーは困ったように笑った。
「困るね。届く言葉ほど、置き場所に気をつけないと」
霧の向こうの輪郭が、また近づいた。
今度は、近づいたと分かった。
枝が折れる音はない。地面が割れる音もない。けれど、集落の外縁に掛けた仮置きの札が、順番に光った。
怖いを置く札。
近づいているものを知らせる札。
まだ読まれていない託宣の札。
鈴が鳴らない札。
四つの札が、同じものを別々の角度から照らす。
強い光ではない。
強く照らしたら、輪郭は一つに固まってしまう。
灯りの息継ぎで覚えたように、点ききらない明るさが必要だった。
僕は手首の灯り紐を見た。
一つ。
休み。
もう一つ。
それに対して、霧の向こうの拍は、
一つ。
長い休み。
もう一つ。
休みが長い。
長すぎる。
「休みの中に、何かあります」
僕は言った。
リリウムがこちらを見た。
「聞こえますか」
「はっきりは」
僕は耳を澄ませた。
音だけでは無理だった。目だけでも無理だった。灯りだけでも足りない。水滴、輪、灯り、図書洞、名前を置く係。ここまで歩いてきた場所が、ひとつずつ別の聞き方を差し出してくる。
落ちる前を聞く。
閉じない欠けを見る。
点ききらない灯りを休ませる。
書かない空欄の縁を作る。
名前を決めずに用途を分ける。
僕は半透明の小石を握った。
歩く棚。
持ち歩いているものを、持ち歩いている状態として置くための石。
石の内側の線が熱を帯びた。
霧の休みの中から、かすかな声が浮かんだ。
置いて。
いいえ、呼んで。
いいえ、返して。
いいえ、読まないで。
いいえ、読んで。
声は互いに否定し合っていた。
でも、全部を否定すれば消えるわけではない。むしろ否定するほど重なって、重なった分だけ大きな影になる。
「一つの答えにしない」
僕は自分に言うように呟いた。
名前を置く係が空札を差し出した。
「では、最初の置き場所を」
「最初?」
「全部は置けません。最初に置けるものだけです」
僕は札を受け取った。
何を書くか。
書かないか。
今度は迷う時間が少し短かった。迷わなかったのではない。迷いながら手を動かす方法を、第5章で見たからだ。
僕は札の中央に、文字ではなく、休みの印を置いた。
一本の短い線。
長い空白。
もう一本の短い線。
一つ。
長い休み。
もう一つ。
そして空白のところだけ、指で縁を囲った。
「休みの中を、まだ決めない札」
僕がそう言うと、札は淡く光った。
霧の向こうの輪郭が、ほんの少しだけ止まった。
止まった、というより、歩く形を借りるのを忘れたようだった。
巨像の足音が消えた。
森に、本当の静けさが戻る。
その静けさの中で、初めて別の音が聞こえた。
泣き声だった。
大きな泣き声ではない。
誰か一人の声でもない。
たくさんの言いそびれが、同じ休みの中で息を吸っている音。
リリウムの顔色が変わった。
古い袖札が、袖の中で強く光った。
「リリウム」
僕は呼んだ。
リリウムは返事をしなかった。
霧の向こうから、細い声が一つだけ抜けてきた。
リリ。
そこで止まる。
リリウムではない。
リリ、と呼びかけて、何かを言いそびれた声。
リリウムは一歩下がった。
名前を置く係が空札を差し出しかけ、止めた。今は係が置くものではない、と判断したのだと思う。
ククルーの鈴が、初めて小さく鳴った。
ちり。
音は一つだけ。
でも、鳴った瞬間、ククルーは目を見開いた。
「今の音、ぼくの鈴だけじゃないよ」
「どういうことですか」
「どこか別の鈴が、同じ鳴り方をしたんだ」
「どこかって」
ククルーは答えなかった。
答えられない顔だった。
クロニクルブックのページが、また震えた。霧の巨像、と出かけていた項目の下に、別の細い文字が浮かぶ。
七大陸登録網。
その文字はすぐに薄れた。
まだ早い、と言われたようだった。
僕の持ち主名欄が、見えないページの奥で熱を持つ。
巨像の休みの中にある泣き声。
リリウムを呼びかけて止まった声。
ククルーの鈴と同じ鳴り方をしたどこかの鈴。
僕の登録されない空欄。
全部が一つの答えになりそうで、僕は慌てて息を整えた。
一つにしない。
まだ。
「今日は、近づくのを止めるだけです」
僕は言った。
自分で言ってから、これも決めすぎかもしれないと思った。でも、名前を置く係は頷いた。
「止める、ではなく、休ませるなら」
「休ませる」
「はい」
リリウムは袖を押さえたまま、深く息を吸った。
「霧の外縁に、休みの輪を作ります。閉じない輪です。巨像を囲むのではなく、歩く形を借りなくていい場所を作ります」
第2章の閉じない輪が、ここへ戻ってきた。
年配の織り手が、候補名の札を外し始めた。巨像。名なしの大人。忘れられた森。帰れない託宣。迷子の世界樹。全部を破るのではなく、別々の箱へ入れる。
「用途ごとの仮置きにします」
その声には、まだ怖さがあった。
でも、怖さも札へ置かれている。
織り手たちは集落の外縁へ広がった。閉じない輪を作るために、灯り紐を地面へ置く。完全な円ではない。何かが入るためでも、出られないようにするためでもない。
歩く形を、少し休ませるための余白。
僕は休みの中をまだ決めない札を、輪の開いたところへ置いた。
札が霧を吸う。
霧の向こうの輪郭が、さらに少しほどけた。
人の肩に見えたところが枝に戻り、枝に見えたところが声の束になり、声の束に見えたところが白い空白へ戻る。
全部が消えたわけではない。
むしろ、見えるものは増えた。
けれど、一つの大きな影として迫ってくる感じは弱まった。
集落の子どもたちが、膝の布から顔を上げる。青い音の子は、二枚の空札を見比べてから、三枚目の札を胸に当てた。怖いを置く札だ。
「怖い、少し小さくなった」
その声が聞こえた時、外縁の灯りが一つだけ点いた。
点ききらない、弱い灯り。
でも、十分だった。
ククルーの鈴は、もう鳴っていない。けれど熱は少し引いていた。
リリウムの袖札は、まだ光っている。
僕はリリウムを見た。
「さっきの声」
聞いてから、言い過ぎたと思った。
リリウムは少しだけ首を横に振った。
「今は、持ち歩きます」
その言葉は、第4章で僕が言った言葉と同じだった。
僕は頷いた。
「はい」
霧の向こうで、巨像だったものが遠ざかったのか、ほどけたのかは分からない。ただ、足音ではない足音は、もう聞こえない。
代わりに、休みの中に小さな泣き声が残っている。
名前を置く係は、その泣き声へ札を向けなかった。
「明日、また聞きます」
「明日でいいんですか」
僕が聞くと、係は頷いた。
「今日聞けるものを聞きました。今日聞けないものを今日聞くと、明日の置き場所が壊れます」
ククルーが疲れたように座り込んだ。
「今日は、記録に余白を残したくなる寄り道だったね」
「帳面には?」
僕が聞くと、ククルーは首を傾げた。
「帳面にすると、鈴がまた熱を持ちそうだね」
リリウムが小さく笑った。
今度は、音になった。
ほんの少しだけ。
でも、その笑いの後で、リリウムは霧の外縁を見つめ続けた。袖の古い札を、指で押さえたまま。
夜が降りてくる。
閉じない輪の灯りは、集落を囲まない。霧のための椅子を、外にいくつか出しているだけだ。
僕はクロニクルブックを開いた。
新しい項目は、まだ完成していない。
霧の――。
そこで止まっている。
巨像、とはまだ書かれない。
その下に、小さく別の行があった。
休みの中を、まだ決めない。
僕はその行を指でなぞらなかった。
なぞれば、早く決まってしまいそうだったから。
ただ、ページを閉じ、半透明の小石を握る。
小石の中の線は、今も歩いている。
どこへ向かっているのかは分からない。
でも、分からないまま持ち歩くことを、今日の僕は少しだけ知っている。
霧の向こうで、誰かがまた泣いた気がした。
リリ、と。
呼びかけて止まる声。
リリウムは答えなかった。
でも、逃げもしなかった。
その背中を見ながら、僕は第7章へ続く問いが、もう足元まで来ているのを感じていた。
登録されないものは、どこへ置けばいいのか。




