第2巻 名前のない託宣 第5章 名前を置く係
名前を置く係の机は、胞子図書洞の奥にあるのに、部屋というより小さな台所に似ていた。
低い机がいくつも並び、その間を細い通路が通っている。机の上には小瓶、空札、薄い紐、乾いた胞子の筆、丸い石、古い葉、欠けた鈴、折れた匙、誰かの靴紐の先だけが置かれていた。どれも、宝物のように飾られているわけではない。けれど捨てられているわけでもない。
朝の支度の途中みたいだった。
誰かが水を温め、誰かが布を畳み、誰かがまだ呼ばれていない椅子を出しておく。そんな気配が机のあちこちからしていた。
「ここで、名前を置くんですか」
僕が聞くと、リリウムは小さく頷いた。
「はい。ただし、名前だけではありません。名前になりかけた音、名前にされたくない印、名前を忘れた物、名前を持ちすぎた記録も置きます」
「持ちすぎた名前も?」
「名前は少なすぎても迷います。でも、多すぎても重くなります」
ククルーが机の脚に前足をかけ、慎重に上を覗き込んだ。
「台所に似ているね。煮込みすぎると味が全部同じになるし、火から下ろすのが早すぎると固い。帳面に書きにくい料理だよ」
小瓶のひとつが、ちり、と小さく鳴った。
中に入っていた音が笑ったのかもしれない。
机の向こうで、若い織り手が手を止めた。薄緑の外套を着て、袖口に小さな棚札をいくつも結んでいる。リリウムよりも声が低く、けれど歩き方はとても軽い。足を置くたび、床の胞子がほんの少しだけ光った。
「見学ですか」
織り手はそう言ってから、すぐに首を傾げた。
「いえ、見学と呼ぶと見られる側になりますね。同行、としておきますか」
「同行でお願いします」
リリウムが答えた。
織り手は袖口の札を一枚めくった。
そこには、名前を置く係、と書かれていた。ただし下の余白が広い。肩書きの下に名前を書ける場所があるのに、空いたままだ。
「私は、係をしています」
「名前は?」
僕は聞きかけて、すぐに口を閉じた。
聞いてはいけないわけではない。けれど、ここでは最初に聞く言葉ではない気がした。
織り手は少し目を細めた。
「今の止まり方は、いい止まり方でした」
「いい止まり方」
「はい。名前を聞く前に、聞き方を置いたので」
ククルーが尻尾をゆるく揺らした。
「ぼくとしては大きくうなずきたいところだけれど、ここではうなずきも置いておこう」
「点数はよく腐りますから」
織り手はまじめな顔で言った。
ククルーは一瞬だけ固まり、それから小さく咳払いした。
「それは、かなり耳が痛いね」
僕は笑いそうになった。でも、机の上の小瓶たちが静かに揺れているのを見て、声を小さくした。
「あなたのことは、何と呼べばいいですか」
「今は、係で大丈夫です」
「ずっと?」
「今は、です。ずっと、と言われると、係も少し困ります」
係はそう言って、机の上の空札を一枚取った。札の表面には何も書かれていない。けれど角の部分だけが薄く湿っている。誰かの息が、まだ残っているみたいだった。
「ここへ来るものは、たいてい急いでいます。誰かが早く呼びたい。誰かが早く分類したい。誰かが早く忘れたい。どれも悪くありません。急ぐこと自体は悪くないです。雨が降る前に洗濯物を取り込むのは、急いだ方がいい」
係は空札を手のひらにのせた。
「でも、名前だけは、急ぐと形が固まります」
札の湿った角が、ゆっくり乾いた。
「固まると、戻す時に欠けます」
リリウムの袖が、ほんの少し揺れた。
僕はその揺れを見てから、机の小瓶へ視線を戻した。第4章で見た古い袖札の線が頭の中に残っている。聞かない、と言った。今も聞かない。けれど、聞かないことで見えなくなるものもある。
その時、奥の机から短い呼び声がした。
「係さん、朝の置き直しをお願いします」
声の方を見ると、小さな子が両手で瓶を抱えていた。瓶の中には、青い音が入っている。音に色があるのは変なのに、そうとしか見えなかった。青い音は瓶の底で丸まり、時々、ふ、と浮いてはまた沈む。
「こちらへ」
係が僕たちを手招きした。
子は瓶を机に置くと、すぐに両手を離した。でも離した後も、指先が瓶の形のまま固まっていた。
「昨日、呼べたと思ったんです」
子は言った。
「畑の端で、青い茸が出て、みんなが何て呼ぶか話していて。ぼく、先に言いました。ミズアオって。水みたいで、青いから」
瓶の中の音が、み、と鳴った。
「悪い名前ではありません」
係が言う。
子はほっとした顔をした。でも、すぐに眉を寄せた。
「でも今朝、同じ茸を見たら、青くなかったんです。夜の霧を飲んで、少し銀色でした。ミズアオって呼んだら、違う気がしました。でも昨日、みんなに言っちゃったから」
「その茸は、昨日のミズアオを嫌がりましたか」
「分かりません」
「では、分からないを置きましょう」
係は胞子の筆を取り、空札に何かを書く代わりに、何も書かない部分を指で囲った。指が通ったところだけ、薄い縁ができる。文字ではない。けれど空欄が、空欄として見えるようになった。
「ここに、ミズアオだったかもしれない、を置きます」
「名前じゃない」
「はい。名前ではありません。けれど、昨日のあなたが見た水みたいな青さは、消さなくていい」
子は瓶を見た。
「今日の銀色は?」
「別の空欄へ」
係はもう一枚の札を出し、今度は縁を丸く囲った。
「ミズアオだったかもしれない。銀を飲んだかもしれない。どちらも、茸を閉じる名前ではなく、見た日の置き場所です」
子はしばらく黙っていた。
瓶の中の青い音が、み、ず、と鳴りかける。
係は蓋にそっと指を当てた。
「まだ最後まで言わなくていいです」
音は途中で止まった。止まったけれど、消えなかった。
子はようやく指をほどいた。
「じゃあ、今日も見てきます」
「はい。昨日と違っても、昨日が間違いになるわけではありません」
子は瓶を持たず、二枚の空札だけを受け取った。瓶の青い音は机の上に残る。
「これは置いていくの?」
僕が聞くと、子は少し恥ずかしそうに頷いた。
「持っていると、すぐ言っちゃうから」
係は瓶を棚のいちばん低い段へ置いた。棚には、同じような瓶がたくさん並んでいる。赤い息、白いざらめ、黒い笑い声、透明なためらい。どれもラベルがない。ただ、置かれた日付と、置いた人が見た方角だけが小さく記されている。
「名前を置く係は、名前を預かる係ではないんですね」
僕が言うと、係は頷いた。
「預かると、持ち主がこちらになります。ここでは、持ち主を増やしません。持ち主が分からないものは、分からないまま、触り方だけを記録します」
持ち主。
その言葉が胸の中で、さっきの持ち主名欄に触れた。
クロニクルブックの空いた欄。胞子図書洞の大きな膜に出た、該当記録なし。
僕の持ち主は、僕なのだろうか。
そんな問いが浮かび、浮かんだ瞬間に、嫌な感じがした。自分を物みたいに扱ったからではない。むしろ逆だった。持ち主がいるはずだと思ってしまったことが、少し怖かった。
「どうしました」
リリウムが聞いた。
僕はクロニクルブックを押さえた。
「持ち主が分からないものは、どう置くんですか」
係は僕を見た。リリウムも、ククルーも、同じように僕を見た。
その視線の重さに、僕は言葉を足した。
「たとえば、どこから来たか分からないものとか。誰のものか分からない記録とか」
係はすぐには答えなかった。
机の上の筆を水の入っていない皿に置き、手を拭いてから、棚の奥へ歩いた。そこには他の棚よりも少し広い空間があった。物が置かれていない。空きすぎている棚。
でも、第4章でできた持ち歩き棚とは違う。持ち歩き棚は空っぽでも、これから何かを置ける感じがした。こちらの棚は、置いたものが勝手にどこかへ帰ってしまった後のように見えた。
「これは、帰り先未定の棚です」
係が言った。
「持ち主が分からないものは、ここへ置きます。ただし、長く置きすぎません。持ち主を探すためではなく、持ち主という考え方が合っているかを確かめるために置きます」
「持ち主という考え方が、合っているか」
「はい。すべてに持ち主が必要なわけではありません。たとえば霧には、通った場所があります。でも持ち主はいません。胞子には、飛んできた傘があります。でも戻るとは限りません。言葉には最初に言った人がいるかもしれませんが、聞いた人の中で形を変えます」
係は棚の縁を指でなぞった。
「持ち主を探すことで楽になる記録もあります。持ち主を決めることで苦しくなる記録もあります」
僕は返事をしなかった。
できなかった。
ククルーが近くへ来て、僕の足元に座った。何か説明するかと思ったけれど、ククルーは何も言わない。ただ、しっぽの先を床に置いて、一つ、休み、もう一つ、と灯り紐と同じ拍を作った。
リリウムも黙っていた。
沈黙が、答えを待っていない沈黙だったので、少し息がしやすかった。
やがて、係が小さな箱を持って戻ってきた。箱には蓋がない。中には、半透明の小石が三つ入っている。どの石にも文字はない。けれど石の内側に、細い道のような線が見えた。
「試し置きをしますか」
「何を」
「あなたが今、持ち主という言葉で触ってしまったものです」
僕はクロニクルブックを開いた。
持ち主名欄は、空いている。
何度見ても空いている。けれど今日は、空いているというより、こちらを見返しているように感じる。名前を書いてほしいのではない。誰のものか決めてほしいのでもない。ただ、僕がこの空きにどう触るのかを見ている。
「書かなくてもいいんですか」
「はい」
「置くのに?」
「置くために、書かないこともあります」
係は半透明の小石を一つ、僕の前に置いた。
「この石は、帰り先未定の棚で使います。中に何かを閉じ込める石ではありません。触った時の拍だけが残ります」
僕は石に指を置いた。
冷たいと思った。でもすぐに、冷たさの奥に温かい線が走る。水滴の道で聞いた、落ちる前の間。閉じない輪で見た、欠けた場所。灯りの休み場で覚えた、点ききらない息継ぎ。胞子図書洞の大きな膜で見た、照合不能。
全部が一度に来る。
僕は指を離しそうになった。
「離してもいいです」
係が言った。
「離さなくてもいいよ」
ククルーが言った。
「どちらも、今は正解にしなくていいよ」
リリウムが言った。
三つの言葉が、別々の方角から来て、僕の指の周りで止まった。
僕は石に触れたまま、息をした。
持ち主名欄に名前がないことは、空っぽということなのか。
七大陸のどこにも登録がないことは、間違いなのか。
それとも、まだ置き方が決まっていないだけなのか。
問いはすぐに形を変えた。自分のことだけではない。水滴の中の集落も、閉じない輪も、休む灯りも、青い茸も、リリウムの袖札も、全部、早く呼ばれたり、閉じられたり、読まれたりしそうになっている。
僕の空欄も、その中の一つなのかもしれない。
特別な空欄ではなく。
でも、特別ではないから軽い、というわけでもなく。
石の内側に、薄い線が増えた。
一つ。
休み。
もう一つ。
灯り紐と同じ拍。でも、ほんの少しだけ違う。休みの部分が長い。名前を書かない時間を、長めに取っているようだった。
係はその石を箱へ戻さず、空の皿に置いた。
「これは、持ち歩き棚へ」
「帰り先未定の棚じゃないんですか」
「今の拍は、帰り先を探していませんでした。持ち歩いて、次の場所でまた触るための拍です」
僕は第4章でできた棚を思い出した。
持ち歩き棚。
全部を置かなくていい。全部を背負わなくてもいい。持ち歩いていることを、記録の中へ一つの状態として残せる場所。
「持ち歩くことも、置くことなんですね」
「はい。足のある置き方です」
ククルーが目を細めた。
「歩く棚。持ち歩けるのに、置き場所でもあるんだね。家具屋さんが困りそうだ」
係は真剣に考える顔をした。
「困る家具屋さんも、置き場所が必要ですね」
ククルーはまた一瞬だけ固まった。
リリウムが、ほんの少しだけ笑った。
その笑いは小さすぎて、音にならなかった。でも、リリウムの袖口の古い札が、その時だけ少し軽く見えた。
名前を置く係の仕事は、それからも続いた。
昼前には、二人の織り手が古い歌を持ってきた。歌は三番まであるはずなのに、二番だけが村ごとに違っていた。片方の村では雨乞いの歌、もう片方では子守歌、さらに別の家では茸を干す時の数え歌になっている。
「どれが本当ですか」
織り手の一人が聞いた。
係は三枚の札を並べた。
「本当という棚に全部入れると、棚が軋みます」
「では、間違いですか」
「間違いという棚に入れると、歌が小さくなります」
係は三枚の札の間に、細い紐を置いた。
「同じ曲で違う仕事をした歌、と置きます。雨の日に歌う時は雨の札を前へ。眠る時は子守の札を前へ。茸を干す時は数え歌の札を前へ」
「一つにしない?」
「一つにしないことで、一緒に歌える日もあります」
午後には、古い道標が運ばれてきた。道標には、もう存在しない小道の名前が刻まれている。道は霧に沈み、今は誰も通らない。けれど刻まれた名前を削ると、地面の菌糸が痛がるのだという。
係は道標を洗わなかった。苔を落としすぎず、土も少し残したまま、空札を結んだ。
「消えた道ではなく、休んでいる道」
「でも、もう通れません」
「通れないことも、休み方の一つです。無理に通れる道へ戻すと、道標が嘘をつくことになります」
夕方には、誰かが泣きながら小さな鈴を持ってきた。鈴は鳴らない。持ち主だった人の名前を呼んでも鳴らない。別の名前で呼ぶと、かすかに鳴る。でもその別の名前を誰も知らない。
係は鈴を鳴らそうとしなかった。
「鳴らない鈴、と書きますか」
泣いていた人が聞く。
係は首を横に振った。
「今は鳴らされない鈴、と置きます」
「いつか鳴るんですか」
「分かりません。でも鳴らないと決めると、鈴が休めません」
その言葉を聞いた時、ククルーの首の鈴がかすかに揺れた。
音はしなかった。
僕はその小さな沈黙に気づいた。ククルーも気づいたのか、首元に前足を当てた。けれど何も言わない。
第6章へ続く気配は、その時、まだ足音ではなかった。
ただ、鳴らない鈴の奥に、遠い熱があった。
夜になる前、係は机の上の札を整理した。整理といっても、きれいに並べるだけではない。急ぎすぎた札は端へ寄せ、長く休みすぎた札は少し光の近くへ移し、誰かが何度も見に来る札は手の届きやすい棚へ置く。
「名前を置く係は、一日中、決めないんですね」
僕が言うと、係は手を止めずに答えた。
「決めないだけではありません。決める日が来た時に、決めすぎなくて済むようにしています」
「決める日もある」
「あります。呼ばれないと届かない祝福もありますから」
係は青い音の瓶を手に取った。朝の子が置いていった瓶だ。中の音は、少し薄くなっている。消えたのではなく、瓶いっぱいに広がっていた。
「名前は悪いものではありません。名前があるから、朝の茸を見に行けることもあります。歌を一緒に歌えることも、帰る家を探せることもあります」
係は瓶を棚に戻した。
「ただ、名前をつけることと、名前で閉じることは違います」
その言葉は、今日一日見たものをゆっくり結んだ。
水滴を、水滴と呼ぶこと。
輪を、輪と呼ぶこと。
灯りを、灯りと呼ぶこと。
どれも間違いではない。でも、その言葉で終わりにすると、落ちる前の間も、閉じない欠けも、点ききらない休符も見えなくなる。
僕はクロニクルブックを開いた。
空欄はまだ空欄だ。
でも、空欄の周りに、今日見た小さな置き方が増えていた。ミズアオだったかもしれない。銀を飲んだかもしれない。同じ曲で違う仕事をした歌。休んでいる道。今は鳴らされない鈴。持ち歩く拍。
空欄は、ただの穴ではなくなっていた。
穴の周りに、手を置ける縁ができた気がした。
その時だった。
胞子図書洞の奥で、棚が一つ鳴った。
強い音ではない。
けれど、部屋中の小瓶が同時に震えた。
青い音の瓶が、み、と鳴る。赤い息の瓶が、は、と漏れる。透明なためらいが、瓶の中で急に曇る。
係が顔を上げた。
リリウムの目が、洞の入口ではなく、もっと遠くを見た。
ククルーの首の鈴が、揺れた。
やはり音はしなかった。
「今のは」
僕が言いかけると、床の胞子が一斉に暗くなった。
暗くなったあと、通路の向こうから、低い拍が来た。
一つ。
長い休み。
もう一つ。
灯り紐の拍に似ている。けれど休みが重すぎる。休みというより、誰かが言葉を飲み込んだまま歩いている音だった。
係は机の上の札を押さえた。
「集落の外です」
リリウムが言った。
その声には、案内役の静けさがあった。でも、いつもの正確さより先に、古い痛みが混じっていた。
「霧の巨像が、聞く場所の近くまで来ています」
名前を置く係の棚で、帰り先未定の空間が淡く光った。
何も置かれていない棚なのに、重そうだった。
僕は持ち歩き棚へ置かれた半透明の小石を見た。石の内側の線が、さっきよりも濃くなっている。
ククルーは首元の鈴を押さえたまま、短く息を吐いた。
「鳴らないまま、熱を持っています」
係は小瓶の蓋を一つずつ確かめた。
「巨像は、名前を探しているのですか」
僕が聞くと、リリウムはすぐには答えなかった。
洞の外から、もう一度、低い拍が届く。
一つ。
長い休み。
もう一つ。
リリウムは古い袖札を押さえた。
「探している声と、拒んでいる声が、重なっています」
その言葉で、部屋の温度が少し下がった。
名前をつけてほしい声。
名前をつけないでほしい声。
どちらも、同じ巨像の中にある。
僕はクロニクルブックを閉じた。閉じた瞬間、持ち主名欄の空きが胸の奥で小さく鳴った気がした。
鳴った、というより。
まだ鳴らされない鈴のように、熱を持った。
「行きましょう」
リリウムが言った。
係は頷き、空札を束ねた。名前を書くための札ではない。名前を急がないための札だ。
僕は半透明の小石を受け取った。持ち歩き棚へ置かれたはずの石は、いつのまにか僕の手に戻っている。
「それは、歩く棚です」
係が言った。
「落とさないように?」
「落としても大丈夫です。拾った場所も、置き場所になります」
ククルーが立ち上がった。
「かなり帳面に書きにくい遠足になりそうだね」
誰も笑わなかった。
でも、その言い方のおかげで、足が少し動いた。
胞子図書洞の入口へ向かうと、外の霧がいつもより低く沈んでいた。霧の向こうで、巨大な輪郭が立っているのか、森が重なってそう見えるだけなのか、まだ分からない。
ただ、足音ではない足音が、地面の下から届いていた。
一つ。
長い休み。
もう一つ。
名前を置く係の机に残った小瓶たちが、背中の後ろで小さく震えた。
僕はその震えを聞きながら、まだ名前のない影へ向かって歩き出した。




