第16巻 星読みと月光卿 第3章 合同天体観測祭
午後の観測丘は、夜を待つには明るすぎた。
空は青く、砂は白く、星砂盤の点は朝よりもさらに見えにくい。見えにくいのに、丘の上は忙しくなっていた。サミルは薄い布を何枚も運び、ネフェルは星砂盤の縁を低い木片で測り直している。ククルーはその間を歩き、踏んでよい砂と踏まない方がよい砂を、足の置き方だけで確かめていた。
旅人は、白い布の中央を見ていた。
第2章で星図薄板と法典片の間に空けた場所は、まだ空いている。何も置かれていない場所は、時間が経つと何かを置きたくなる。特に、周りが忙しくなるほど、空きは忘れ物のように見えてくる。
サミルも、何度かそこへ目を向けた。
「ここも、何か敷きますか」
「敷きたくなりますね」
ネフェルは木片を置き、白い布の中央を見た。
「でも、今日はまだ敷かない」
「合同天体観測祭なのに、中央が空いたままでよいのですか」
サミルの声には、責める響きはなかった。けれど、不安はあった。祭には中心がある。中心があるから、人は集まりやすい。中心がない祭は、どこを見てよいか分からなくなる。
ククルーが白い布の端に座りかけ、すぐにやめた。
「中心は、座り心地がよさそうだからね」
「座らないでください」
サミルが言うと、ククルーは大げさに前足を引っ込めた。
「うん。中心を猫の席にしない。大事だね」
その言い方で、サミルの肩が少し下がった。緊張が一枚、布の端から落ちたようだった。
観測祭の準備は、七つの低い席から始まった。
七つの席は、朝と同じ場所には置かれなかった。サミルはまず円に並べかけ、手を止めた。円にすれば美しい。見た人にも分かりやすい。七つの席が同じ役を持つように見える。けれど、同じ高さでも、同じ向きでもない席を円にすると、違いが飾りに見えてしまう。
サミルは一枚目を星砂盤の近くへ置いた。
二枚目は、少し離して白い布の左へ。
三枚目は、法典片の近くではなく、銀葉封筒の影が届かないところへ。
四枚目は、丘の入口へ向けて。
五枚目は、空を見る人が背伸びしなくてよい低さへ。
六枚目は、星砂盤を見ない位置へ。
七枚目だけは、まだ手に持ったままだった。
「最後の一枚は」
旅人が聞くと、サミルは困ったように笑った。
「置くと、並べ終わったことになります」
ネフェルがうなずいた。
「では、まだ持っていてください」
サミルは七枚目を胸の前に持った。重そうではない。けれど、持ち続けるには少し気を遣う大きさだった。持っている間、席は席になりきらない。祭も、まだ始まりきらない。
旅人は浅い連絡袋を見た。軽い便札も、ずっとそうだった。持っているのに、持ち物にしすぎない。運んでいるのに、目的地へ急がせない。
丘の下から、人の声が上がってきた。
アルカディアの観測係たちだった。瓶に入った星砂、折りたたんだ夜見布、丸い石の重し、細い水差しを持っている。祭と言っても、太鼓や旗が最初に来るわけではない。ここでは、星を測る前の道具が、音を立てないように上がってくる。
そのあとに、ルミエールからの小さな使いが来た。
使いと言っても、身分を示す飾りは少ない。肩に銀葉の小布を掛け、両手で細長い筒を持っている。筒は封じられていない。けれど、開いてもいない。中には月待ち布が入っていると、ネフェルが教えてくれた。
「法典片の返事ですか」
サミルが聞いた。
ルミエールの使いは首を横に振った。
「返事ではありません。待つ場所です」
その声は硬くなかった。少し緊張しているが、裁く人の声ではない。遠い場所から、違う作法を抱えて来た人の声だった。
旅人は、その声を聞いて、白い布の中央へ目を向けた。返事ではなく、待つ場所。森と滝の返事棚にも、似た言葉があった。だが、ここでは水音ではなく、月を待つ布になる。
月待ち布は、筒から出されてもすぐには広げられなかった。
ネフェルは星砂盤の縁を少し空けた。サミルは閉じた筆箱を持ち上げ、低い席の横へ移した。ルミエールの使いは、自分で布を広げず、まず筒を白い布の右側へ置いた。
筒の置き方だけで、丘の上の空気が少し変わった。星砂を入れた瓶は、置かれると小さく沈む。丸い石の重しは、置かれるとそこが中心のように見える。けれど月待ち布の筒は、置かれても沈まなかった。白い布の上を少しだけ転がりそうになり、使いの指がそれを追いかけかけて、止まった。
追いかければ、筒を正しい位置へ戻せる。戻せば、任されたものを守ったことになる。だが、転がりそうになったことも、月を待つ前の手元だった。使いは筒を押さえず、手のひらを筒の少し手前に置いた。触れないが、転がりすぎたら止められる距離。守ることと、形を決めることの間にある距離だった。
サミルは、その手のひらを見た。
「押さえないのですか」
「押さえると、ここが正しい場所になります」
ルミエールの使いは、小さく答えた。
「正しい場所ではないのですか」
「まだ、転がりそうだった場所です」
その言葉で、サミルは閉じた筆箱を抱え直した。筆箱もまた、置けばそこが記録の始まりになる。抱えたままなら、記録したい手の重さだけが残る。どちらも楽ではない。けれど、楽でないからこそ、始まる前の形がよく見えた。
「どうして広げないのですか」
サミルが聞いた。
「広げると、月を待つ形になります」
使いは答えた。
「形になってはいけませんか」
「形になる前に、どこで待ちたいかを見るように、と言われています」
誰に、とサミルは聞きかけた。だが、すぐに口を閉じた。月光卿の名前を出せば、布の置き方まで答えのように見えてしまう。サミルは聞きたい手を、閉じた筆箱の上ではなく、横へ置いた。
ククルーが小さくうなずいた。
「聞かなかった手も、ここに見えていたよ」
サミルは、今度は照れずにうなずいた。
祭の支度は、ゆっくり進んだ。
星砂盤の周りには、三つの小皿が置かれた。ひとつは、見えたものをすぐ置きたくなる手の皿。ひとつは、見えなかったと言いたくなる手の皿。ひとつは、まだ見ている途中の手の皿。どれにも砂は入っていない。空の皿を置くと、空の皿が何かを待っているように見える。だが、ネフェルはそれを待ち皿とは呼ばなかった。
「呼ぶと、待つ形が決まります」
サミルが先にそう言った。
ネフェルは笑った。
「はい。よく聞けています」
「聞けている、と書いてもいいですか」
「今日は、書きたくなったところまでで」
サミルは筆箱に触れ、また触れただけでやめた。
旅人は、合同天体観測祭という言葉を心の中で低く置いた。
合同。
その言葉は、すぐに一つにしたくなる。二つの大陸が同じ空を見る。星図と法典が同じ夜を読む。ネフェルとリンドが同じ場所に向かう。言葉にすれば、きれいだ。けれど、きれいな言葉ほど、違う手元を隠してしまうことがある。
ここにあるのは、まだ合同ではない。
同じ丘へ、違う道具が来ている。
同じ夜を待つために、違う待ち方が置かれている。
その違いを急いで消さないことが、今日の祭の支度だった。
ルミエールの使いは、月待ち布の筒を見つめていた。開きたいのだろう。自分の手で開けば、任された役を果たしたことになる。けれど、開けば月を待つ形が決まる。決まった形は、人を安心させるが、まだ見ていない手を入れにくくする。
旅人は、使いの横に立った。
「重いですか」
使いは少し驚き、筒を持ち直した。
「重くはありません。軽いです。でも、軽いものほど落とすと大きな音がします」
旅人はうなずいた。
「軽い便札も、そうでした」
使いは浅い連絡袋を見た。何かを聞きたそうにしたが、聞かなかった。代わりに、筒を白い布の上ではなく、白い布の手前へ置いた。
「ここなら、まだ開けたことになりません」
「はい」
旅人が答えると、ククルーが横から言った。
「そして、置かなかったことにもならないよ」
サミルはその言葉を聞いて、七枚目の席を持つ腕を少し下げた。
席は軽い。乾いた草を編んだだけの薄い座面で、縁には砂が入りにくいよう細い糸が通されている。けれど、ずっと持っていると、軽さの方が腕に残った。早く置いてしまえば楽になる。置けば、七つそろったと言える。そろったと言えば、祭の準備が進んだことになる。
その順番の速さを、サミルは自分の腕で知った。
「持っていると、置きたくなります」
サミルが言った。
「はい」
ネフェルは星砂盤から目を離さずに答えた。
「置きたいから置くのか、見えるようにするために置くのか。その差は、星が出る前の方が見えやすい」
ルミエールの使いは、白い布の手前に置いた筒へ手を添えた。開けていない筒。置いていないわけでもない筒。サミルの七枚目の席と、少し似ている。どちらも、手放せば役になり、持っていれば手の中の迷いが見える。
ククルーは、サミルの足元へ近づいた。
「持ったまま待つのは、なかなか地味だね」
「練習ではありません」
サミルはすぐに言ったが、声は笑っていた。
「じゃあ、地味な祭だね」
「それも少し違います」
「むずかしいね。では、地味に見える大事な支度」
サミルはそれなら否定しなかった。
丘の下から、もう一組の足音が上がってきた。今度は小さな台車の音だった。車輪は砂に取られないよう布で巻かれている。きしむ音はほとんどない。台車には、低い灯皿、白い石の重し、短い紐、折り畳まれた影よけの板が載っていた。
「灯皿は夜からでよいのでは」
サミルが聞くと、観測係の一人が首を横に振った。
「夜に置くと、灯りのための場所になります」
「昼に置くと」
「手を置く場所として見られます」
その観測係は、灯皿を白い布から少し離して置いた。皿には何も入っていない。火も水も砂もない。ただ、空の浅い皿が、昼の明るさの中でじっとしている。夜になれば灯りを受けるかもしれない。けれど、今は灯りより先に、そこへ伸びる手の高さを見せている。
旅人は、その皿を見て、浅い連絡袋を思い出した。
浅い袋は、急いで届けるための袋ではなかった。何かを隠すための深さもない。軽い便札は、袋の底でかすかに動くだけで、まだ誰かの返事にはならない。浅いから、入っているものの輪郭が手に伝わる。けれど、浅いからといって、すぐ取り出す理由にはならない。
低い灯皿も、同じだった。
見える。だが、まだ使わない。
「見えるものを使わないで置くのは、もったいない気がします」
サミルが言うと、ネフェルは低い木片を星砂盤の縁へもう一度当てた。
「もったいない、と感じる手も、今日は大切です」
「大切なら、書いておきますか」
「書く前に、どこへ置くかを見ます」
サミルは筆箱へ伸ばしかけた指を止めた。
「筆箱の上ではない」
「はい」
「白い布の中央でもない」
「はい」
「では、ここ」
サミルは七枚目の席を胸の前に持ったまま、足元の砂を指した。何もない場所だ。だが、そこは七枚目の席を置きたい手が、今ちょうど立っている場所だった。
「置きたい手の足元」
ネフェルは静かに言った。
「よいです」
サミルは足元へ小さな丸石を置いた。席ではない。札でもない。書いたものでもない。自分の足の前に、ただ丸石を一つ置いた。丸石は、七枚目の席を置いた代わりにはならない。けれど、置きたい手がここにいたことだけは、消えなくなった。
ルミエールの使いも、筒の横へ細い銀糸を一本置いた。
「開きたい手の横です」
ククルーが耳を動かした。
「開きたい手の横へ置いてあるんだね」
旅人は、祭が始まる前の丘を見渡した。
七つの席はまだ六つしか置かれていない。月待ち布は筒の中にある。低い灯皿は空のまま。三つの小皿にも何も入っていない。白い布の中央も、まだ空いている。
だが、空いているだけではなくなっていた。
置きたい手の丸石。
開きたい手の銀糸。
使いたい前の低い灯皿。
そのどれも、答えではない。けれど、答えへ急ぐ手が見える場所になった。
サミルは七枚目の席をもう一度持ち直した。さっきより腕は楽ではない。むしろ少し疲れている。だが、疲れたから置くのではないと、腕が分かっている。
「夜まで持つのは無理です」
「夜まで持たなくていい」
ネフェルが言った。
「いつ置くかを、腕だけに決めさせなければよいのです」
サミルはうなずいた。
そのうなずきは、祭の中心へ向かわなかった。足元の丸石へ、低く落ちた。
使いは小さく笑った。笑うと、銀葉の小布が肩で少し揺れた。揺れた銀葉は、光を強く返さない。砂の白さの中で、少しだけ涼しい色を足した。
午後の光が傾き始めた頃、丘の上には、まだ始まっていない祭の形ができていた。
七つの低い席は六つだけ置かれ、ひとつはサミルの腕の中にある。星砂盤の周りには空の三皿が並び、白い布の左に星図薄板、右に法典片が置かれている。中央は空いたまま。月待ち布の筒は、その手前に置かれ、封筒は畳まれずに低い席へ斜めに寄りかかっている。
どこを見ても、まだ完了していない。
けれど、散らかっているのではない。
完了していないものたちが、それぞれの高さで待っている。
ネフェルは星砂盤の端へ、細い木片を一本置いた。
「夜になったら、月影を見ます」
その言葉で、丘の空気が少し変わった。
月影。
まだ見えていない。けれど、言葉になっただけで、手がそこへ向かい始める。サミルは七枚目の席を少し強く抱えた。ルミエールの使いは筒を見た。ククルーの鈴は鳴らないまま、首元で丸い影を小さくした。
旅人は白い布の中央を見た。
そこには何もない。
何もない場所に、夜になれば影が来るかもしれない。影が来れば、星図薄板は位置を測りたくなる。法典片は守る距離を照らしたくなる。その時、どちらかが先に答えにならないよう、今はまだ中央を空けておく。
「今夜、ずれますか」
サミルが言った。言ってから、自分の言葉に驚いたように口を閉じた。
ネフェルは責めなかった。
「ずれるかどうかを、先に待たないようにしましょう」
「はい」
サミルは七枚目の席を抱え直した。
ククルーは、その七枚目を見て言った。
「置く場所がないのではなく、置かないで見られる場所がある。今日は、そこまで見えているね」
旅人は浅い連絡袋を持ち上げた。袋の中の星砂の一粒は、底に座ったまま動かなかった。落ち着いたのではない。今は、動かなくても見失われない場所にいるだけだ。
丘の下から、夕方の最初の風が上がってきた。
風は月待ち布の筒を転がさなかった。法典片もめくらなかった。星砂盤の点も崩さなかった。ただ、白い布の中央を通り、そこに何も置かれていないことを、全員にもう一度見せた。
合同天体観測祭は、まだ始まっていない。
だからこそ、始まる前の手が、これほどよく見えた。




