第16巻 星読みと月光卿 第2章 月光卿から届く法典片
昼前の光は、砂の上で少しだけ白くなった。
朝の金色は、いつの間にか薄くなっている。星砂盤の点は消えていないが、夜ほどは目立たない。見ようとすれば見える。見ないでいれば、ただの砂の起伏に戻る。その中間で、ネフェルは刷毛を持たず、星砂盤の縁に手を置いていた。
サミルの筆箱は、まだ閉じたまま七つの低い席の横にある。
誰も、開けていない。開けていないことを褒めすぎてもいない。閉じた筆箱がそこにあるだけで、記録したい手は見える。見えるから、少し休める。
旅人は浅い連絡袋を膝の前に置いた。袋の縫い目の星砂は、今度は星砂盤の方ではなく、丘の入口の方を向いているように見えた。遠い銀の音が、また一度鳴ったからだ。
「来ますね」
ネフェルが言った。
サミルは反射的に筆箱へ手を伸ばし、すぐ止めた。手は筆箱の上で浮いたまま、行き場所を探す。ククルーがその手を見て、にこりとした。
「今の手は、とても見えやすかったよ」
「書いていません」
「だから見えました」
サミルは少し照れたように、手を筆箱の横へ置いた。筆箱の上ではない。横へ置くと、書きたい手と、書く道具が少し離れた。
丘の入口から、光が上がってきた。
人ではない。最初に見えたのは、封筒だった。銀色の葉を薄く重ねたような封筒が、風に乗っている。飛んでいるというより、月光の細い糸に引かれて、砂を急がせない速さで上ってくる。封筒の表には、文字がない。代わりに、封ろうがひとつ、薄く光っていた。
月光の封ろう。
丸く、静かで、押しつける力を持たない光だった。けれど、目を向けると、つい正しい姿勢を取りたくなる。背筋を伸ばし、言葉を整え、間違えないようにしたくなる。旅人は、その手を自分の中に見つけた。
正しく受け取りたい手。
正しく返事したい手。
それは悪い手ではない。けれど、封筒がまだ開いていないうちから正しさを用意すると、中にあるものを正しいものとしてしか読めなくなる。
旅人は、浅い連絡袋の口を少しだけ広げた。中へ入れるためではない。封筒を見る前に、自分の手がどちらへ寄るのかを見るためだった。
銀葉封筒は、星砂盤の前で止まった。
落ちない。浮き続けるのでもない。封筒は、低い席のひとつに触れ、そこへ寄りかかるように斜めになった。席は封筒を高く持ち上げなかった。月光の封ろうも、席を照らしすぎなかった。
ネフェルは封筒へ手を伸ばさなかった。
「こちらで開けるものではありません」
「では、誰が」
サミルが聞いた。
「誰が、ではなく、どこで開けるかを先に見ます」
ネフェルは七つの低い席を見た。金に近い席、白い席、灰に近い席。どれも封筒を置けそうに見える。置けそうに見えるから、すぐ決めたくなる。
ククルーは封筒の周りを一周した。封ろうの光を覗きこまず、銀葉の折り目を数えず、ただ封筒の影だけを見ている。
「影が薄いね」
「月光だからですか」
「月光だから、と言うと、もう分かった顔になるね。薄い影ができる置き方で来た、くらいにしておこう」
旅人は封筒の下を見た。確かに、影は薄い。だが、ないわけではない。席の端に、淡い灰色の線が一本だけ落ちている。線は星砂盤の方へ伸びず、筆箱の方へも伸びない。どちらにも触れないところで止まっていた。
「星図へ重ねないための影」
旅人が言うと、ネフェルは小さくうなずいた。
「それなら、ここで開ける前にできることがあります」
ネフェルは星砂盤の横から、薄い板を一枚取り出した。星図薄板だった。昨夜の点を写すための板だが、まだ何も写していない。透明に近く、光を受けると砂粒の輪郭だけが浮かび上がる。
「これへ置くのですか」
サミルが聞いた。
「置きたくなるでしょう」
「はい」
「では、置かないでおきます」
ネフェルは星図薄板を封筒の横に置いた。重ねない。下にも敷かない。横に置くだけだった。すると、銀葉封筒の光が薄板の端に少し映った。映ったが、封筒の形にはならない。法典片はまだ見えていない。星図にもなっていない。
ククルーはひげを揺らした。
「横に置く手が、少しずつ軽くなってきたね」
「森と滝で、何度も見てきた」
旅人が答えると、サミルは浅い連絡袋を見た。
「それは、連絡の袋ですか」
「連絡になりすぎないための袋です」
サミルは少し考えた。すぐには分からない顔だった。だが、分からない顔を隠さなかった。
「では、この封筒も、法典になりすぎないために置くのですか」
その言葉に、ネフェルの目がやわらかくなった。
「よい問いです」
銀葉封筒が、風もないのに少し揺れた。封ろうの光が、弱まったのではなく、丸さを変えたように見えた。遠くで、また銀の音が鳴る。今度は鐘ではなく、薄い皿を指先で軽く触れたような音だった。
ククルーの鈴は鳴らなかった。
鳴らなかったが、旅人は首元の丸い影が、ほんの少し封筒の方を向いたように感じた。感じただけだ。感じたことを、意味にしない。第1章の星砂盤で見た「測りたい手を戻した跡」と同じように、意味へ向かう手を少し戻す。
ネフェルは封筒の前に、白い布を一枚敷いた。
布には何も書かれていない。裁くための白さではない。間違いを目立たせるための白さでもない。封筒が開く前に、見ている手を置くための白さだった。
「開けます」
ネフェルはそう言ったが、封ろうへ触れたのはサミルだった。
サミルの指先は、震えていない。けれど、急いでいないとも言い切れない。正しく開けたい手が、指の形を少し硬くしている。サミルはそれに気づいたのか、いったん指を戻し、自分の筆箱の横へ置いた。
「開けたい手を、一度置きます」
「はい」
ネフェルがうなずいた。
サミルはもう一度、封ろうへ触れた。
月光の封ろうは割れなかった。溶けもしなかった。ただ、丸い光の端が少しほどけ、銀葉封筒の口が細く開いた。中から出てきたのは、厚い法典ではない。紙片一枚だった。
法典片。
それは、想像していたより小さかった。掌に乗るほどの大きさで、端に銀葉の模様がある。文字は少ない。けれど、少ないから軽いとは限らない。少ない文字ほど、重く読まれやすいことがある。
サミルは息を止めた。
ネフェルはまだ読まない。
ククルーも読まない。
旅人は、文字より先に、紙片の置かれ方を見た。法典片は白い布の上で、少し斜めになっている。まっすぐ置けば正しく見えるのに、斜めのまま止まっている。その斜めさが、命令書ではないことを示しているようだった。
ネフェルは、法典片を星図薄板へ近づけなかった。
「読み上げますか」
サミルが聞いた。
「まだ」
「読まないのですか」
「読まないのではありません。読む前に、何が読みたくなっているかを見ます」
ネフェルは法典片の横へ、星図薄板を少し遠ざけて置き直した。近すぎると、どうしても重ねたくなる。遠すぎると、関係ないものにしたくなる。その間の距離を探すように、何度もほんの少しずつ動かした。
サミルの目が、その動きを追った。
「これが、距離ですか」
「今日の距離です」
ネフェルは答えた。
「明日も同じとは限りません」
その言葉を聞いて、旅人は森と滝の返事棚を思い出した。棚は高くならなかった。同じ棚に置いても、森の湿りと滝の湿りは同じにならなかった。ここでも、星図薄板と法典片は同じ布の上にあるが、同じ読みにはならない。
法典片の文字が、光の角度で少し見えた。
守るためには、照らしすぎないこと。
それだけが読めた。
サミルが顔を上げる。ネフェルも息を止める。ククルーは目を細めた。
旅人は、すぐにその言葉を受け取らなかった。
守るためには、照らしすぎないこと。
優しい言葉に見える。だが、優しい言葉ほど、すぐ使いたくなる。照らしすぎない、と言えば、月光側はもう分かっているように見える。星図側はまだ分かっていないようにも見える。そう読めば、ここに裁かれる側と裁く側ができてしまう。
旅人は、法典片の横に指を置いた。
「これは、こちらを裁く言葉ではない」
ネフェルはうなずいた。
「まだ、そう読まない」
ククルーが続けた。
「そして、ルミエールが全部分かっている言葉にも、しない」
サミルは法典片を見つめた。
「では、何として置きますか」
旅人は、星図薄板と法典片の間の白い布を見た。何も書かれていない。その何も書かれていない部分が、今いちばんよく見える。
「届いた遠い手」
そう言うと、銀葉封筒の端が、わずかに低くなった。
届いた遠い手。
法典片は命令ではない。答えでもない。けれど、ただの手紙でもない。遠い大陸が、同じ空を見ようとして差し出した手だ。差し出した手を、すぐ握れば一つになりすぎる。払いのければ遠くなりすぎる。まずは、間に白い布を置く。
ネフェルは星図薄板を布の左へ、法典片を右へ置いた。中央には何も置かない。
「ここを、空けておきます」
「何のために」
サミルが聞く。
ネフェルは答えなかった。代わりに、ククルーが白い布の中央へ近づき、そこを踏まないように半歩だけよけた。
「何のためかを、先に決めないためだね」
サミルは筆箱を見た。書きたい手が、また動いた。今度は筆箱を開けなかった。ただ、筆箱の向きを少し変えた。筆箱の閉じ目が、白い布の中央ではなく、星図薄板と法典片の間の空いたところへ向く。
「記録したいです」
「よいです」
ネフェルが言った。
サミルは驚いた顔をした。
「書いていいのですか」
「まだ書かない記録として、筆箱の向きを変えたんだね。それは、もう記録の手前だよ」
サミルは筆箱の閉じ目を見直した。
閉じ目は、白い布の中央へまっすぐ向いているようで、ほんの少しずれている。星図薄板にも、法典片にも寄りすぎない。けれど、完全に外れてもいない。筆箱は何も書いていないのに、今にも書き始めそうな姿勢を持っていた。
「向きだけで、記録になりますか」
「記録にはなりません」
ネフェルは答えた。
「でも、記録したい手は見えます」
ククルーが筆箱の横に座ろうとして、やめた。
「ここへ座ると、ぼくが記録係になってしまうね」
サミルは少し笑った。
「ククルーの記録は、長くなりそうです」
「かなり長くて、しかも脱線するよ」
その軽いやり取りの間も、法典片は白い布の上で斜めのままだった。星図薄板も横にある。二つの間の空きは、笑いで埋まらない。むしろ、笑ったことで、空いたままでも場が壊れないと分かった。
旅人は浅い連絡袋を少し引き寄せた。
袋の縫い目に乗っていた星砂の一粒は、まだ落ちていない。法典片の銀葉模様と、袋の星砂と、星図薄板の透明な端。三つは、どれも光を受ける。けれど、同じ光ではない。
「光るものを、一つの光にしない」
旅人が言うと、サミルは筆箱へ伸ばしかけた手を止めた。
「それも、記録の手前ですか」
「たぶん」
ククルーがひげを揺らした。
「たぶん、を残せると、記録はずいぶん優しくなるね」
サミルは、ほっとしたように笑った。筆箱は閉じたままだが、その向きだけが変わっている。閉じているものにも、向きがある。書かれていないものにも、手前がある。
旅人は浅い連絡袋を持ち上げた。
袋の縫い目に乗っていた星砂の一粒が、今度は落ちた。
地面には落ちない。白い布にも、星図薄板にも、法典片にも落ちない。粒は袋の内側へ戻った。戻ったというより、袋の浅い底に、そっと座った。
ククルーがそれを見て、静かに笑った。
「今日は、袋の中かな」
旅人はうなずいた。
「まだ、持っていても重くならない」
法典片が届いた。けれど、命令にはならない。星図薄板がある。けれど、重ねない。白い布の中央は空いたまま、筆箱は閉じたまま向きを変えた。
丘の上に、昼前の風が通った。
風は法典片をめくらなかった。星砂盤の点も動かさなかった。ただ、銀葉封筒の口を少しだけ震わせた。封筒の中には、もう何もないように見える。けれど、空になった封筒にも、来た道の薄い光が残っていた。
ネフェルは封筒を畳まなかった。
「午後、月を待つ布を敷きます」
サミルが、今度は筆箱を見ずにうなずいた。
「合同観測祭の準備ですか」
「準備の準備だね」
ククルーが言った。
「準備には、準備の前があるんだね」
旅人は白い布の中央を見た。
そこにはまだ何もない。
何もないからこそ、星図薄板と法典片は、まだ互いを裁かずにいられた。




