第16巻 星読みと月光卿 第1章 星読みの観測丘
観測丘へ上がる道は、砂でできているのに、流れていなかった。
足を置けば粒は動く。風が吹けば細い筋も変わる。けれど、道全体は同じ高さを保っている。誰かが毎朝ならしているのだろう。平らにするためではない。昨日の足跡を消してしまうためでもない。上がる人の足が、今日の砂をどれくらい急がせるのか、分かるようにしているのだ。
旅人は、浅い連絡袋を胸の前に持ち直した。
袋の口は開いている。星砂の一粒は、まだ縫い目の上に乗っていた。歩くたびに揺れるが、落ちない。落ちないから守られているのではない。まだ、どちらへ落ちるかを決めていないだけに見えた。
ククルーは少し前を歩き、時々振り返った。尻尾の先が、砂の上に細い弧を描く。弧はすぐに崩れる。崩れても、砂の粒が向いた方向は少し残る。
「ここでは、足跡も観測のうちだね」
ククルーが言った。
「足跡を読むのかな」
「読む前に、どれくらい読みたくなったかを見るんだ」
道の途中に、小さな台があった。台の上には、まだ何も置かれていない。木でも石でもない、固めた砂のような材質で、触れれば崩れそうなのに、朝風を受けても形を保っている。台の横には、短い札が刺してあった。
測る前の席。
旅人は札を見た。読みやすい字だった。けれど、読みやすい字ほど、すぐに分かった気になりやすい。旅人は声に出さず、台の低さだけを目で測った。
「座る席ではないんだね」
「うん。座ってしまうと、そこにいたことになる。ここは、座る前に足を止める場所だね」
ククルーは台の端へ前足を置かず、すぐ横の砂に足を置いた。砂は少し沈む。台は沈まない。その違いだけが、朝の光の中に残った。
丘の上が近づくにつれ、布を畳む音がはっきりしてきた。ぱたん、ではない。布の中に砂が少し残っていて、それをこぼさないように折る、低い音だった。時々、細い金属が触れる音もする。観測器具だろう。けれど、その音にも急ぎはなかった。
観測丘の頂には、広い円形の場所があった。
中央には大きな星砂盤が置かれている。盤と言っても、硬い板ではない。浅い皿のような縁の中に、細かな星砂が敷かれている。砂の上には、昨夜の星の位置を示す小さな点が並んでいた。点はまっすぐでも、きれいな絵でもない。近い点もあれば、ずいぶん離れた点もある。線は引かれていない。
そのそばに、ネフェルがいた。
白い布を肩へかけ、片手に小さな刷毛を持っている。以前と同じように、静かな目だった。けれど、その静けさは何も迷っていない人のものではない。迷いを急いで片づけない人の静けさだった。
「来ましたね」
ネフェルはそう言い、星砂盤から目を離した。旅人の袋を見ても、すぐには中を尋ねなかった。ククルーの鈴を見ても、鳴ったかどうかを聞かなかった。
「軽いものを持っているようです」
旅人は袋を少し持ち上げた。
「軽いまま来ました」
「それは、難しい持ち方です」
ネフェルは刷毛を星砂盤の縁へ置いた。刷毛の毛先には、星砂が三粒だけ残っている。ネフェルはそれを払わなかった。
「重いものは、重いと分かる。空のものは、空だと分かる。軽いものは、分かった顔をするとすぐ重くなります」
ククルーがうなずいた。
「ぼくの机にも、軽いはずだった紙が山ほどあるよ」
「それは片づけるものでは」
ネフェルが真面目に言ったので、ククルーは何も聞こえなかった顔をした。旅人は、袋の縫い目の星砂を見た。粒はまだ落ちない。
ネフェルは星砂盤の前に、小さな丸布を三枚並べた。ひとつは金色に近く、ひとつは白く、ひとつは色を決めにくい薄い灰だった。
「昨夜、三つの点が測れませんでした」
ネフェルはそう言った。
「見えなかったのですか」
「見えました。だから、測れませんでした」
その言い方は、謎のようだった。けれど、ネフェルは謎に見せようとしているのではなかった。言葉が先に答えの形を取らないよう、ゆっくり置いている。
ネフェルは金色の布へ指を置いた。
「見えなければ、見えなかったと記録できます。雲、砂、器具の影。理由を急がずに置ける。けれど、見えたものは、すぐ測りたくなる。測れば、位置が出ます。位置が出れば、星図へ入れたくなる」
次に白い布へ指を置いた。
「星図へ入れれば、そこにあったことになります」
最後に灰色の布へ指を置く。
「でも、そこにあったと言うには、見た手が少し早かった」
旅人は星砂盤を見た。測れなかった三つの点は、どこかに印として残っているわけではない。だが、盤の端に、砂の流れが少しだけ不自然な場所があった。穴ではない。欠けでもない。そこへ点を置きたかった手が、一度近づいて、戻ったような跡だった。
「測らなかった跡ですか」
「測れなかった跡、ではなく」
ネフェルは言い直した。
「測りたい手を戻した跡です」
ククルーの鈴が、鳴りそうで鳴らなかった。音にはならない。ただ、鈴の丸い影が首元で一度だけ揺れた。
旅人は、その影を見た。影を意味にしない。意味にすれば、また重くなる。
丘の端では、若い記録係が布を抱えて立っていた。まだ名乗らない。目だけが、星砂盤とネフェルの手を行き来している。記録したいのだろう。けれど、筆は出していない。出していないことを、誇ってもいない。
ネフェルはその記録係へうなずいた。
「サミル。七つの低い席を出してください」
サミルと呼ばれた記録係は、ほっとしたように息を吐き、丘の奥へ走らず歩いて行った。急がない歩き方を、何度も練習した人の足だった。
やがて、薄い座布団のようなものが七枚運ばれてきた。座るには低すぎる。置物を飾るには広すぎる。サミルはそれを、星砂盤の周りへ円にしないで並べた。少しずつ高さが違う。向きも違う。七つあるのに、七つを強く主張しない並びだった。
七枚の席は、近くで見ると同じ材料でもなかった。乾いた草を編んだもの、細い木片を横に渡したもの、星砂が入りこまないよう縁だけ固めたもの、銀葉の糸が一筋だけ通されたもの。座るための席なら、座り心地をそろえただろう。けれど、これは座る人を待つものではない。置きたい手が、自分の高さを知るための席だった。
サミルは一枚目を置くたびに、指先を少しだけ払った。砂が付いていたわけではない。むしろ、砂はほとんど付いていなかった。それでも、置く前の指と、置いたあとの指は違うらしい。置いたものに合わせて、次の手が急ぎそうになる。その急ぎを指先から落とすように、サミルは小さく払っていた。
ネフェルは、その仕草を止めなかった。
「払うのは、席ではありません」
サミルは、はっとして自分の指を見た。
「手の方ですか」
「はい。席をそろえたくなる手の方です」
旅人は、七枚の間にできた細い隙間を見た。隙間は均等ではない。広すぎる場所も、近すぎる場所もある。けれど、どの隙間にも、あとで何かを押しこめそうな余白はなかった。余白はあるが、詰めるための余白ではない。通り過ぎる足が、そこに何かを置きたくなった時、いったん止まれる幅だった。
ククルーは、いちばん低い席の横に座りそうになり、やめた。しっぽの先だけを席へ向け、体は砂の上に残す。
「ここへ座ると、猫の席になるからね」
サミルが少し笑った。
「猫の席ではないのですか」
「猫が座れば、いい猫の席になるね。けれど、今日は、猫が座りたい手も横に置くよ」
その冗談で、七枚の席は少しだけ軽く見えた。軽くなったからといって、役が消えたわけではない。むしろ、役を重くしすぎずに見られるようになった。
旅人は、その低い席を見た。
第15巻の返事灯を思い出しそうになった。けれど、思い出しただけで、同じものにはしなかった。森と滝で見た灯りは、返事を急がせないための低さだった。ここにある席は、測る前に足を止めるための低さだ。似ている。だが、同じではない。
「ここへ何を置くのですか」
旅人が聞くと、ネフェルは星砂盤の縁に置いた刷毛を見た。
「まずは、置きたいものを置かないでおく手だね」
サミルが小さくうなずいた。
「それを記録してもいいですか」
「今日は、記録したい手を一枚目に置きます」
ネフェルは七枚のうち、いちばん低い席を指した。
サミルは筆を出しかけ、止めた。そして、筆ではなく筆箱をその席の横へ置いた。筆箱は閉じたまま。閉じているから、書けない。けれど、持ってきたことは見える。
ククルーが小さく笑った。
「閉じたまま、ここに来た筆箱なんだね」
「書いていません」
サミルが少し不安そうに言った。
「はい。だから、今見えています」
その言葉に、サミルはもう一度うなずいた。
旅人は浅い連絡袋を見た。袋の縫い目の星砂が、今度はほんの少しだけ動いた。落ちるのではなく、縫い目の上で向きを変えた。金にも銀にも決まらない粒が、星砂盤の方を向いたように見えた。
丘の向こうから、遠い銀の音がした。
ネフェルはそちらを見たが、すぐに星砂盤へ目を戻した。
「ルミエールからの封筒は、昼前に届くでしょう」
ククルーは旅人を見上げた。
「まだ、封筒を読む時間ではありませんね」
旅人はうなずいた。
読む前に、測る前の席を見る。
測る前の席には、筆箱がひとつ、閉じたまま置かれている。星砂盤の端には、測りたい手を戻した跡がある。浅い連絡袋の縫い目には、銀にも金にもならない粒がある。
どれも、答えではない。
けれど、答えではないものが増えたぶん、次の便は重くならずに済んだ。




