第16巻 星読みと月光卿 プロローグ 軽い便札の星砂
浅い連絡袋は、まだ閉じていなかった。
森と滝の湿りを受けた布の口は、風に撫でられるたび、少しだけ形を変える。中に何かがたくさん入っているわけではない。むしろ、袋の底はほとんど見えている。けれど、空ではなかった。軽い便札が一枚、口の外側へ斜めに差してある。札の端には、乾ききらない霧の色と、流れきらない水の色が、どちらとも言えない薄さで残っていた。
旅人は、その札を抜かなかった。
抜けば、読めるかもしれない。読めば、次に向かう理由を、少しだけきれいな言葉にできるかもしれない。けれど、きれいな言葉にした瞬間、森と滝で残してきた空いた席や閉じない便紐が、結果のように見えてしまう。届かなかった一通も、次へ進むための材料になってしまう。
それは違う。
届かなかったものは、届かなかったまま、戻って聞ける場所を少し増やした。軽い便札は、その場所を持ち去るためではなく、持ち去らずに歩けるかどうかを試すためにある。
ククルーは袋の横を歩いていた。首元の鈴は鳴らない。鳴らないことにも、もう慌てた様子はなかった。小さな鈴は、音になる前の丸い息を抱えたまま、毛並みの下で眠っている。
「軽いまま、ここまで来たんだね」
ククルーが言った。
旅人はうなずき、足元を見た。
足元の砂は、森の土とも滝の石畳とも違った。粒が細かく、踏むと沈む前にさらりと流れる。けれど、ただ乾いているのではない。夜明け前の空から落ちた光を、ほんの少しずつ含んでいる。粒の一つひとつが、星になる前の小さな点のように見えた。
アルカディアの外縁だった。
遠くには、まだ太陽の色を持たない丘が連なっている。その上に観測台の細い柱が立ち、柱の先では、布を畳む音がした。誰かが夜の観測を終えたのだろう。星を見た人々は、明け方に急いで結論を書かない。少なくとも、ここではそう教えられている。星の位置は測れても、その星を見た手が何を急いだのかは、朝になってからでなければ分からないことがある。
旅人は袋から軽い便札を少しだけ離した。抜くのではない。札が砂に触れないよう、指一本分だけ浮かせる。
その時、札の端に、銀色の細い線が見えた。
星砂ではない。
森の胞子でも、滝のしずくでもない。線は、光というより、光が来る前に紙の上を通る予感に近かった。細く、まっすぐで、けれど端で少しだけ曲がっている。見ようとすると消え、見ないでいると戻ってくる。
ククルーの耳が動いた。
「月光の線だね」
「もう見ていいものかな」
「見えたものは、見なかったことにしなくていいよ。ただ、見えたからといって、読んだことにはしない」
ククルーは砂の上に前足を置いた。足跡はすぐに崩れたが、崩れたあとにも、粒の向きだけが少し変わっていた。
「ほら。踏んだよ。けれど、道になったとはまだ言えないね」
旅人は、その足跡を見た。
道ではない。証拠でもない。けれど、何も起きなかったわけでもない。砂はククルーの足を受け、形を少し変え、すぐに戻ろうとしている。戻ろうとする動きの中に、足があった時間だけが薄く残った。
軽い便札の銀色の線も、それに似ていた。
見えた。けれど、まだ道ではない。
丘の向こうから、低い鐘のような音がした。アルカディアの鐘ではない。金属の響きは持っているが、砂の奥で一度休んでから届くような音だった。旅人は振り返らなかった。振り返れば、音を場所にしたくなる。場所にすれば、今度はそこへ急ぎたくなる。
ククルーは尻尾をゆっくり振った。
「ルミエールからの朝の合図かもしれないね」
「かもしれない」
「うん。かもしれない、でいい朝だね」
二人はしばらく、その音を追わずに立っていた。
空はまだ青くならない。星は消えかけているが、消えたと言うには早い。月は見えないが、月光の線だけが札の端に薄く残っている。測るには暗すぎる。照らすには明るすぎる。どちらにも少し足りない時間だった。
その足りなさが、旅人にはちょうどよかった。
森と滝では、届いたことにしたい手を何度も見た。届かないことを責めたくなる手も、空席を埋めたくなる手も見た。どれも、悪い手ではなかった。助けたい手、安心したい手、次へ進みたい手だった。
この砂の上では、別の手が待っている。
正しく測りたい手。
正しく照らしたい手。
どちらも、きっと必要な手だ。星を測らなければ、夜の位置は分からない。月光で照らさなければ、誰かが守りたい順番も見失う。けれど、測ったものをすぐに正しいと言い、照らしたものをすぐに守られたと言えば、その外にある小さな願いはどこへ行くのだろう。
旅人は、軽い便札を袋の口へ戻した。
戻す時、札の端から星砂が一粒だけ落ちた。砂は地面の砂へ混じらず、袋の縫い目の上で止まった。粒は小さく、名前をつけるほどでもない。けれど、朝の淡い光を受けて、ほんの一瞬だけ、銀にも金にも見えた。
縫い目の上は、場所として頼りなかった。
布と布の合わせ目で、少し盛り上がっている。歩けば揺れる。風が入れば、粒は内側へ落ちるかもしれない。外側へ転がるかもしれない。けれど、そこは袋の内でも外でもなかった。入ったものではない。落ちたものでもない。ちょうど、森と滝の間で、届いたとも届かなかったとも言い切れなかった一通に似ていた。
旅人は、指で押さえなかった。
押さえれば、守ったことになる。守ったことにすれば、粒は守るべきものになる。払えば、ただの砂になる。拾えば、持ち物になる。どの手も自然で、どの手も少し早い。
ククルーは袋の横からのぞきこみ、鼻先を近づけすぎないところで止めた。
「くしゃみをしたら、かなり困るね」
「しないでください」
「もちろんだよ。けれど、しないと決めた鼻も、少し緊張するね」
旅人は小さく息を吐いた。息も粒を動かすかもしれない。声も、手も、鼻先も、全部が小さな星砂へ関わってしまう。その関わりを、なかったことにはできない。
「関わった手を、先に見る」
そう言うと、ククルーは小さくうなずいた。
「うん。第十五巻で見てきた手が、もう砂粒に化けたね」
化けた、という言葉は軽かった。軽いから、そこで止まった。星砂の一粒は、何かの正体ではない。ただ、持ち越した手元が、別の砂の上で見えたのだった。
「どちらかな」
ククルーが聞いた。
旅人はすぐに答えなかった。
銀と言えば、月光へ寄る。金と言えば、星砂へ寄る。どちらでもあると言えば、一つにまとめたくなる。どちらでもないと言えば、見えた色をなかったことにしてしまう。
だから、旅人は粒の横に指を置いた。
「まだ、隣に置く」
ククルーは目を細めた。
「測る前に、隣に置いたんだね。照らす前にも、隣に置ける」
丘の上で、畳まれていた布が一枚、朝風に広がった。布の上には、いくつもの点が刺繍されている。星座に見える。けれど、まだ星座とは呼ばれていない。点をつなぐ線がないからだ。線を引けば、物語ができる。物語ができれば、見落とした点にも役が与えられるかもしれない。だが、線を引く前に、点がどう置かれているかを見なければならない。
遠い鐘が、もう一度鳴った。
今度は少しだけ、銀の響きが強かった。月光の合図かもしれない。法典を運ぶ封筒の音かもしれない。あるいは、ただ朝の器具をしまう音かもしれない。
旅人は、どれにも決めなかった。
浅い連絡袋の口は開いたままだった。軽い便札は、その口の外側で、星砂の粒と月光の線を同じ中身にしないよう、斜めに差さっている。袋の内側には、まだ何も書かれていない白いところがある。白いから書くのではない。白いところがあると分かるために、口を閉じないでいる。
ククルーは、その白いところをのぞきこまなかった。
袋の縫い目は、内側と外側を分ける線にしては弱かった。縫い糸は細く、ところどころで布の目に沈み、ところどころで朝の光を受けて浮いている。強い縫い目なら、軽い便札を中へ入れるか、外へ出すかをはっきり決めただろう。だが、この縫い目は、札の端を少しだけ受け、星砂の一粒を少しだけ留める。決めるためではなく、決めたくなる手を見えるところへ置くための弱さだった。
旅人は指先を縫い目へ近づけ、触れる前に止めた。
触れれば、星砂は落ちるかもしれない。落ちなければ、落ちないことを安心にしたくなるかもしれない。縫い目の上で揺れている一粒は、袋の中身でも、外の砂でもない。その中間にあるから、軽い便札も、照らす前に測り直す便札の端も、急いで役目を持たずにいられる。
「その糸、ほどけかけているね」
ククルーは言ったが、直そうとはしなかった。
「ほどけているかな」
「ほどけきってはいないね。ほどけかけている、って言うのがいちばん忙しくならない言い方かな」
旅人はうなずいた。ほどけかけているものは、直せる。だが、すぐ直さなくても落ちないことがある。落ちないから放っておくのではない。落ちる前に、どう支えたくなるかを見られる。
その弱い縫い目が、あとで何かを支えるかもしれないとは、旅人は考えなかった。考えれば、今の縫い目が予告になる。予告になれば、星砂の一粒も軽い便札も、これから来る役目のために置かれているように見えてしまう。
今は、ただ縫い目を見た。
袋の外で揺れるものを、袋の中へ急がせないために。
「行こうか」
「どこへ」
「観測丘へ。読むためじゃないよ。まず、測る前の場所を見に」
旅人はうなずいた。
歩き出すと、袋の縫い目に乗っていた星砂の一粒が、小さく揺れた。落ちそうで落ちない。銀にも金にも決まらないまま、朝の中で軽く光っている。
その軽さを、旅人は急いで言葉にしなかった。
星を読むには、まだ少し明るすぎる。
月を照らすには、まだ少し暗すぎる。
だからこそ、歩き出すにはちょうどよかった。




