第15巻 森と滝の連絡便 第9章 招待されなかった席
祝祭の広場は、まだ飾りの半分しか起きていなかった。
ヴェルデガイアの葉飾りは朝露を含み、シルヴァリスから届いた胞子灯の小瓶は、低い棚の上で眠るように光っている。誰かが歌い出すには早く、誰かが席へ座るにも早い。けれど広場の中心には、すでに小さな席が並べられていた。
祝祭前の準備は、祝祭そのものよりも手が多かった。
水鉢を運ぶ手。葉飾りをほどく手。胞子灯の小瓶を数えないように並べる手。濡れた布を絞りすぎないよう、ひねる手を途中で止める手。どの手も、始まりへ向かっている。始まりへ向かっているから、空いた場所を見つけると、すぐ埋めたくなる。
広場の隅では、ヴェルデガイアの子どもが小さな葉冠を作っていた。輪を閉じる直前で、彼女は手を止めた。輪の端が少しだけ開いている。そこへ別の子が葉を一枚足そうとして、隣の年配の飾り係にそっと止められた。
「まだ開けておく輪です」
飾り係はそう言った。
子どもは不思議そうに輪を見た。
「閉じないのに、冠ですか」
「冠になりたがる葉です」
その言葉を聞いて、旅人は閉じない便紐を思い出した。結ばない紐。囲わない輪。冠になりたがる葉。祝祭の準備の中にも、完成へ向かう手を少し待たせる作法があった。
シルヴァリスから来た小瓶係もいた。小瓶係は、胞子灯を数えずに置くため、瓶の下へ形の違う小石を敷いている。丸い小石、平たい小石、少し欠けた小石。数で並べれば早い。だが数で並べると、足りない瓶を探したくなる。形で置くと、瓶が一つずつ違う高さに休める。
「祝祭は、そろえたくなる場です」
ミルが小さく言った。
「だから、そろえない準備がいる」
ナナムは水鉢の方を見ながら答えた。水鉢も、同じ大きさではなかった。大きいもの、小さいもの、縁が欠けたもの。音をそろえるのではなく、音が違うまま始まれるように、低い順に置かれている。
ククルーは広場の端を歩き、使われていない布の山を見た。
「使わない布が多いね」
飾り係がうなずいた。
「足りないと不安だね。でも、全部使うと飾りすぎるよ」
「なるほど。不安の布です」
「使う前の布だね」
飾り係が訂正すると、ククルーはひげを小さく揺らした。
旅人は、その準備の手元を見ながら、空いた席へ向かう足を少し遅くした。祝祭前の広場は、何かを始めるためだけの場所ではなかった。始めたい手、飾りたい手、そろえたい手、足りないものを足したい手を、始まりの前に見えるようにする場所でもあった。
席は、数えやすい。
だから危ない。
旅人は広場の入口で足を止めた。ミルは伏せた空席札を薄い布に乗せて持ち、ナナムは閉じない便紐の片端を指に掛けている。ククルーは二人の間を歩き、時々、布の高さを見上げた。
「あそこだね」
ミルが小さく言った。
広場の端に、ひとつだけ飾りを付けていない席があった。周りの席には、まだ名前を書かないための白い札が置かれている。けれどその席だけ、札も飾りもなく、背もたれの上に薄い霧が乗っていた。
招待されなかった席。
そう呼びたくなる形をしていた。
けれど呼んだ途端に、その席は誰かの欠落になる。誰かが忘れられた席になる。誰かが悪かった席になる。あるいは、あとで温かな話にされてしまう席になる。
旅人は、言葉を胸の手前で止めた。
「席です」
それだけを言うと、ナナムがうなずいた。
「空いている席、でもまだ強いですね」
ミルは伏せた空席札を抱え直した。
「では、まだ座らせない席」
ククルーが首を傾ける。
「座らせない、と言うと、少し拒む音が出るね」
ミルは困った顔をした。
「席のまま、見る場所」
旅人が言うと、ミルの表情が少し緩んだ。
ナナムは閉じない便紐を、その席の背へ掛けようとして、手を止めた。掛ければ、影と席が結ばれる。結べば、席が影のものになる。
「結ばない方がいいですね」
「でも、離すと見失う」
ミルが昨日と同じ言葉を言った。
ナナムはうなずき、紐を席の背ではなく、足元の外側へ置いた。紐は席を囲わない。影を引っ張らない。ただ、席の近くに、閉じたい手があることを示す。
広場の飾り係が、離れたところから近づいてきた。ヴェルデガイアの若い係で、腕に葉飾りの束を抱えている。ミルとナナムを見ると、少しだけ声を落とした。
「その席、飾っておきましょうか」
親切な声だった。
親切だからこそ、旅人はすぐに答えなかった。
飾れば、目立たなくなる。空いていることを、祝祭の形が包んでくれる。誰も責めずにすむかもしれない。けれど包みすぎると、空いていることそのものが見えなくなる。
ククルーが葉飾りの束を見上げた。
「飾りは、席を責めないためにも使えるね。でも、席を席でなくすることにも使えるよ」
飾り係は腕の中の葉を見た。
「では、どうすれば」
「飾る前に、灯りを低くしてください」
旅人は言った。
広場の端には、祭り前の小灯がいくつも用意されていた。祝祭が始まれば高く掲げる灯りだが、今は足元の確認に使う小さなものだ。ミルがそのうち一つを持ってきて、席の正面ではなく、少し横へ置いた。
灯りは席を明るくしすぎなかった。
背もたれの霧も、足元の影も、どちらも残っている。伏せた空席札の縁だけが、淡く浮かんだ。
「ここに置くと、誰も座っていないことが見えます」
飾り係が言った。
「誰も座っていないことだけ、見えます」
ナナムが続けた。
その時、ミルが持っていた伏せた空席札の下で、薄い布がかすかに震えた。交差布で見た一通の影と同じ形ではない。けれど似た冷たさがある。似ていると言いたい手が、また動き出す。
旅人は、その手を見た。
「似ている」
ミルが言った。
「でも、同じとは書かない」
ナナムが言った。
旅人はうなずき、薄い布を席の上へ掛けた。
席のまま運ぶ布。
布は席を覆い隠さない。座面の形に沿って、端だけが低く垂れる。名前を書く場所も、飾りを付ける場所も、まだ空いている。ただ、席を持ち上げたい手、別の席で埋めたい手、誰かの席だと言いたい手が、布の端で少し休む。
布には、細い縫い目が四本あった。
一本は座面の前を通り、一本は背もたれの根元へ沿い、残りの二本は左右の脚の少し外側をゆるく囲んでいる。囲んでいるように見えるが、どの縫い目も閉じていない。端はすべて布の裏へ逃がされ、結び目になっていなかった。
ミルは縫い目を指でなぞりかけ、すぐに手を止めた。
「なぞると、運ぶ道に見えます」
「道ではなく、手を止める縫い目です」
飾り係が答えた。
「席を持ち上げる時、どこを持ちたくなるかが見えます。前を持つ手、背を持つ手、脚を持つ手。見えれば、持ち上げる前に止まれます」
ナナムは閉じない便紐を足元へ置いたまま、布の右端を見た。
「水路で運ぶ時も、持ちやすい場所が先に決まると、流れも決まった顔をします」
「森では、持ちやすい場所から読める場所になりやすいです」
ミルも言った。
旅人は、布の縫い目が席を守るためではなく、手の入り口を見せるためのものだと分かった。席を席のままにしておくとは、触れないことだけではない。触れたくなる場所を見えるようにして、触れる前の手を戻せるようにすることだった。
ククルーは布の端へ鼻を近づけた。
「まだ使われていない匂いがするね」
「匂いですか」
飾り係が驚くと、ククルーはうなずいた。
「使われなかった布と、使いたかった手の匂いがするよ」
旅人は少し笑った。だが、その言い方は思ったより正確だった。布からは、乾いた葉と水気と、まだ誰にも座られていない木の匂いがした。そこに、飾りたい手、運びたい手、守りたい手が少しずつ混じっている。
布は、席を美しい話にしなかった。
空いた席をかわいそうな席にもしなかった。
ただ、席の形を残し、その周りに集まる手の匂いまで、低く見えるようにしていた。
「運ぶんですか」
飾り係が聞いた。
「今は、運びません」
旅人は答えた。
「席を席のままにしておくための布です」
ミルは、空席札を布の上に置こうとして止まった。
「札を置くと、席になりますか」
「もう席だね」
ククルーが言った。
「札は、こちらの手のために置くんだ」
ミルは札を座面ではなく、布の端に差した。表は伏せたまま。名前も、理由も、場所も書かれていない。
広場の奥で、祝祭の水音が試しに鳴った。まだ本番の合図ではない。水鉢へ小さく水を落とし、音の高さを確かめるためのものだった。水音は、席の横に置いた祭り前の小灯と一緒に、ほんの少し揺れた。
ナナムが耳を澄ませた。
「水音が、席の影を消していません」
「胞子灯も、消していません」
ミルは小瓶の低い光を見た。
旅人は、二つを同時に見た。水音と胞子灯。どちらも、席を満たさない。どちらも、席を空のままにしている。けれど、空だから見捨てるのではない。空の形が急がされないよう、横で低く見ている。
飾り係は、抱えていた葉飾りの中から一番小さな葉を一枚選んだ。
「これは、飾りではなく、目印として置いてもいいですか」
「目印も強くなります」
旅人が言うと、係は葉を持ったまま考えた。
「では、今日使わない葉として、こちらへ」
係は席の上ではなく、祭り前の小灯のさらに外側へ葉を置いた。使わない葉。飾りたい手があったことだけを見えるようにする葉だった。
ククルーはひげを小さく揺らした。
「祝祭にも、使わなかったものの置き場があるんだね」
広場の空気が、少しだけ軽くなった。
席は埋まっていない。理由も分からない。影が誰のものかも、どこから来たのかも分からない。けれど席は、失敗として片づけられず、美しい話として飾られず、代わりの誰かで埋められもしなかった。
旅人は閉じない便紐の端を持ち上げ、席の足元から少し離した。紐はまだ結ばれていない。けれど、席の方へ向いている。交差布の影と、この席との間に、道はない。ただ、戻って聞けるかもしれない低い音が、まだ生まれる前の水面にある。
「次は、水音ですね」
ナナムが言った。
「でも、戻すためではありません」
ミルが続けた。
「戻って聞くために」
旅人は祭り前の小灯を見た。小さな灯りは、席の影を消さず、布の端を低く照らしている。その横で、試しの水音がもう一度、短く鳴った。
席は、まだ空いている。
空いているまま、聞ける場所へ向かう準備ができていた。




