第15巻 森と滝の連絡便 第10章 戻って聞ける水音
水音は、広場の奥からではなく、席の横から聞こえ始めた。
祝祭用の水鉢は、まだ本番の高さに置かれていない。石の台の上ではなく、祭り前の小灯と同じ低さにある。水鉢の縁には、ナナムが持ってきた浅い水皿が重ねられていた。水をすくうには浅すぎる皿だ。けれど音を聞くには、その浅さが必要だった。
深い皿にすると、水はすぐに答えのような顔をする。
浅い皿なら、音はすぐにこぼれそうで、こぼれそうだから手が急がない。
戻って聞ける水音は、一度で作れなかった。
ナナムは最初に、水鉢の縁を指で軽く叩いた。水を落とさない。器だけの音を聞くためだった。からん、と乾いた音がする。広場の石に触れて、すぐ消えた。席の布は揺れない。胞子灯も光を変えない。
「器の音です」
ナナムは言った。
次に、浅い水皿を水鉢の上へ置いたまま、何も入れずに少し傾けた。皿の縁が水鉢に触れ、さっきより薄い音がした。これは器と器が近づいた音だった。席の布の端が、ごくわずかに動いたように見えたが、風かもしれない。
「近づいた音」
ミルが言うと、ナナムはうなずいた。
「まだ水の音ではありません」
三度目に、ナナムは水を一滴だけ指先へ取り、皿の外側へ落とした。水は皿の中に入らず、縁を伝って石へ落ちる。ぽつ、という短い音。席の布は今度、確かに揺れた。けれど、影が戻ったわけではない。
「外側を通った音です」
「戻ってきた、ではなく」
旅人が言うと、ナナムはうなずいた。
「戻って聞けるかもしれない音の、手前だね」
ククルーは水鉢の向こうで、耳を片方だけ動かした。
「手順が多いね」
「多くしないと、一つの音に聞こえるね」
ナナムの声は静かだった。
旅人は、その多さをありがたく思った。水音は強い。一度きれいに鳴れば、そこに意味を乗せたくなる。だから、器の音、近づいた音、外側を通った音を分けて聞く。水が鳴る前に、水ではない音を聞いておく。そうすれば、水が鳴った時も、すぐ答えにしなくて済む。
ミルは胞子灯の小瓶を、水鉢の正面ではなく、少し斜めに置いた。小瓶の中で胞子灯が低く瞬く。灯りは水面に映ったが、きれいな丸にはならなかった。水面の揺れで、丸は何度もほどける。
「合わせると、答えに見えますね」
ミルが言った。
「見える時ほど、答えにしない」
旅人は言った。
ナナムは浅い水皿の縁へ指を置き、水を一滴だけ落とした。ぽつん、という音がした。水音は空いた席の足元へ届き、席のまま運ぶ布の端をほんの少し揺らした。閉じない便紐は揺れなかった。影も濃くならない。
「戻ってきませんね」
飾り係が小さく言った。
言ったあと、すぐに自分の口を押さえた。
「戻すためでは、ありませんでした」
「戻って聞くためです」
ナナムが静かに答えた。
水音は、何かを連れて帰ってくる音ではない。届かなかった一通を復元する音でも、席の持ち主を呼ぶ音でもない。けれど、ここへ戻ってもう一度聞くことはできる。そのための音だった。
ククルーは水鉢の周りを一周し、浅い水皿の反対側へ座った。
「聞き返しに近いね」
「返事を求める聞き返しかな」
ミルが聞く。
「いいえ。手の速さを戻す聞き返しです」
ククルーの言葉に、ミルは胞子灯の小瓶を持ち直した。小瓶の中の光は、水音に合わせて少し明るくなったように見えた。けれど次の瞬間には、もとの低さへ戻る。
「胞子灯の返事」
ミルはそう言いかけ、札を取ろうとして止まった。
「返事、と呼ぶと強いかな」
「呼びたくなることは、見えました」
旅人は答えた。
「でも、返事だと決める前に、どんなふうに返りたくなったかを見る」
ミルは札を取らず、小瓶の下へ小さな丸布を敷いた。丸布には何も書かれていない。胞子灯の光は、その布の上で一度だけ淡く広がり、すぐに小瓶の中へ戻った。
ナナムは水をもう一滴落とした。
今度の水音は、さっきより少し低かった。水鉢の底ではなく、浅い水皿の縁に当たった音だ。席の布は揺れない。代わりに、伏せた空席札の角がほんの少し浮いた。
飾り係の手が、札へ伸びかけた。
「見ますか」
旅人が聞くと、係は首を横に振った。
「見たいです。でも、見たら何か分かると言いたくなります」
「その手は、こちらへ」
ククルーが言い、係の前へ使わなかった葉を一枚押し出した。係は葉の上へ、自分の指をそっと置いた。
見たい手が消えたわけではない。
ただ、札より先に葉へ置かれた。
水音は三度目に、少し長く響いた。水鉢の中で回る前に、浅い皿の縁で止まり、そこから広場の石へ低く渡った。胞子灯は、その音に合わせて、今度は明るくならなかった。代わりに、小瓶の底で一つだけ、緑の点が遅れて光った。
ミルが息を吸った。
「返事に、見えます」
「返事と呼ぶ前の光ですね」
ナナムが言った。
ミルはうなずき、その光を水鉢へ近づけなかった。水音と胞子灯を近づければ、ひとつの合図にできそうだった。できそうだから、近づけない。
ミルは小瓶の底に、細い布を一枚差し込んだ。
布は光を遮らない。光が水面へまっすぐ落ちないよう、ほんの少しだけ角度を変える。水音の方も、ナナムが浅い皿の縁に小さな葉片を置いた。葉片は水を止めない。音がまっすぐ席へ行きすぎないよう、少しだけ横へ逃がす。
「返りたがる光と、戻りたがる音」
ミルが言った。
「どちらも、まっすぐにすると強くなります」
ナナムが続けた。
旅人は、まっすぐでない二つを見た。光は斜めに水面へ落ち、水音は葉片に触れて少し横へ流れる。すると、空いた席の布は強く揺れなかった。代わりに、布の縫い目の四本が順に淡く見えた。前、背、右、左。持ち上げたい手の場所が、音と光で急に一つへ集まらず、それぞれの位置に戻る。
「席の方も、聞いているように見えます」
飾り係が言った。
「見える、だね」
ククルーが言うと、係はすぐにうなずいた。
「見えます。聞いています、とは言いません」
水音は、席へ答えを届けていない。胞子灯も、席へ返事を送っていない。だが、席のまま運ぶ布の縫い目が見えることで、席の周りの手は少し落ち着いた。戻って聞けるとは、こういうことなのかもしれない。何かが戻るのではなく、聞くために戻った時、前には見えなかった手元が見える。
旅人は浅い連絡袋を開き、袋の口を水鉢の方ではなく、席の横へ向けた。袋の中に入っているものを取り出すためではない。袋もまた、聞く場所へ戻ってきたと知らせるためだった。
袋の内側が、少し涼しくなった。
カスカーダ細滝で受けた涼しさとは違う。もっと低く、もっと短い。水音が袋に入ったのではない。袋が、水音を聞ける高さへ戻ったのだ。
「これなら、何度でも聞きに来られますね」
ミルが言った。
「何度でも、という言葉も強いかもしれません」
旅人は言った。
ナナムが少し笑った。
「戻って聞ける日がある、くらいでしょうか」
「戻って聞ける日がある、くらいで持てるんだね」
ククルーが小さくうなずく。
広場の奥では、祝祭の準備が少しずつ進んでいる。葉飾りを結ぶ音、布を広げる音、水鉢を洗う音。どれも始まりに向かう音だ。けれど空いた席のまわりだけは、始まりへ急がない音が置かれていた。
戻って聞ける水音。
それは、答えを戻す音ではなかった。
届かなかったものを完全に回収する音でもなかった。
ただ、席が空いたままでも、同じ場所へ戻って聞き直せるようにする音だった。
旅人は浅い水皿を少し横へずらした。水皿の影が、胞子灯の小瓶の影と並んだ。重ならない。離れすぎもしない。
「この二つを、次は棚へ置けますか」
ミルが聞いた。
「棚にすると、返事を待たせられます」
ナナムが言った。
「待たせる、ではなく、急がせない」
旅人は言った。
ミルとナナムは同時にうなずいた。
胞子灯の小瓶は、返事だと決められないまま低く光っている。浅い水皿は、音をすくい切らないまま水鉢の縁にある。祭り前の小灯は、席を照らしすぎず、布の端だけを見せている。
三つを一つにすれば、きっと分かりやすい。
だから、三つのまま持っていく。
ククルーは席の足元に置かれた閉じない便紐を見て、ぽつりと言った。
「返事棚は、急がない棚になりそうだね」
「森と滝の返事棚」
ミルが言い、今度は札へ大きく書かなかった。小さな札を一枚取り、裏へ点を二つ置く。胞子灯の点と、水音の点。線は引かない。
ナナムは浅い水皿の縁を布で軽く拭き、拭いた布をたたまずに持った。
「水音を持って行くのではなく、水音へ戻れる形を持って行きます」
旅人はうなずき、浅い連絡袋を閉じないまま持った。
空いた席は、まだ空いている。
けれど、もう見失われるだけの席ではなかった。
水音と胞子灯が、答えにならないまま、その席のそばで低く並んでいる。次に必要なのは、その二つを返事に急がせない棚へ置くことだった。




