第15巻 森と滝の連絡便 第8章 届かなかった一通
朝の霧は、交差布の上だけ少し遅れて薄くなった。
低い棚の前には、夜のあいだ誰かが見張っていた跡がない。ミルの足あとも、ナナムの水滴も、ククルーの小さな爪あとも残っていなかった。見張らないと決めたからだ。見張れば、影はすぐに便として扱われる。逃げないか、濃くならないか、持ち主の形を見せないか。そういう目を向けた途端、置いたはずのものが、探されるものへ変わってしまう。
それでも、影は消えていなかった。
見張らない夜のために、いくつかの支度だけが残されていた。
棚の手前には、踏まないための小石が三つ置かれている。見張り番の印ではない。夜のあいだ誰かが心配になって近づいた時、足がそこで止まれるようにする石だった。棚の横には、乾いた葉皿と霧を含んだ葉皿が伏せてある。探したい手と、探せないと決めたい手を、朝まで皿の中へ閉じ込めるためではない。起きた時に、そういう手があったことをなかったことにしないためだった。
ククルーは小石を見て、首を少し傾けた。
「誰も見張らなかった、だけではないね」
「見張らないでいられるようにした」
旅人が言うと、ミルはうなずいた。
「夜に一度、来ました」
ナナムも小さく手を上げた。
「ナナムもです」
二人は互いを見て、少し笑った。笑いは明るいが、どこか恥ずかしい。見張らないと決めたのに来てしまった手を、責めないための笑いだった。
ミルは言った。
「棚の前まで来て、小石で止まりました。影を見たかったのではなく、見なかったことにしたくなかったのだと思います」
ナナムは続けた。
「水路側の湿りが変わっていないか、気になりました。でも、布へ近づくと、変わったことにしたくなると思って止まりました」
リリウムは二人を責めなかった。棚の小石を一つだけ少し横へ動かし、朝の位置に戻した。
「見張らないことも、支度がいります」
その言葉で、旅人は夜の棚を想像した。誰もいない低い棚。交差布の中央に休む薄い影。閉じない便紐。伏せた皿。近づきたくなった足を止める小石。見張らないという決まりだけでは、この場は守れない。見張りたい手を低く置く小さなものがあって、ようやく朝まで待てたのだ。
封筒に似た薄い形は、交差布の中央より少し手前にある。昨日よりも濃くなったようにも見えるし、霧の色が変わっただけにも見える。閉じない便紐は、影の周りを囲まず、手前で輪を保っていた。輪の片端は棚の低い釘に掛かり、もう片端は布の外へ逃がされている。閉じないまま、離れない。
ミルは布の手前に座り、膝の上で小さな札を何枚も裏返していた。
「書きたい言葉が、先に来ます」
ミルは言った。
「行き先、って」
ナナムは水路図の端に指を置いていた。水路係の指は、流れの向きを確かめる癖を持っている。けれど今日は、指先を動かさない。
「水路側でも同じです。どこへ向かったのか、と聞きたくなります」
「聞くこと自体は悪くないよ」
ククルーは棚の足元に座り、尻尾をきちんと丸めた。
「でも、聞く手が影より早く走る時は、札を先に低くしておこう」
旅人は、まだ読まない札の束から、何も書かれていない小札を一枚取った。白い木札は軽く、指の熱をすぐに受け取る。そこへ、ミルが書きかけた言葉を写すのではなく、言葉の手前だけを置いた。
行き先未満札。
文字にすると、行き先という言葉が強すぎる。だから旅人は、札の表には何も書かず、裏の角へ、まだ矢印にならない短い線を一本だけ引いた。
短い線を引く時も、手順が必要だった。
ミルは白い木札をそのまま渡さなかった。まず、札の表を棚板へ伏せ、裏の木目を旅人へ見せる。木目はまっすぐではない。少し曲がり、途中で薄くなり、端でまた濃くなっている。その木目の上に線を引けば、矢印に見えにくい。
「まっすぐな札だと、線が道になります」
ミルは言った。
ナナムは水路図の布から、使っていない端糸を一本抜き、筆の代わりに差し出した。端糸は水を含んでいない。墨もない。胞子の粉をほんの少しだけつけると、線は黒ではなく、薄い灰色になった。
「濃い線は、流れます」
ナナムが言った。
「薄すぎる線は、なかったことになります」
旅人は端糸を受け取った。線を引く前に、行き先という言葉が頭の中で何度も立ち上がる。どこへ。誰へ。どの席へ。どの水路へ。問いは悪くない。けれど、問いが札より先に走ると、影はその後ろを追わされる。
旅人は、木目の曲がりに沿わず、逆らいもせず、ほんの短い線を置いた。
線は矢印にならなかった。道にもならなかった。けれど、何も書いていない札ではなくなった。書かれていない表と、短い線だけを持つ裏。その二つがあることで、札は行き先を示すのではなく、行き先と言いたくなる手を見せるものになった。
「これで足りますか」
ミルが聞いた。
「足りないから、いい」
旅人は答えた。
「足りる札にすると、影より札が先に届く」
ナナムは少し息を吐いた。
「水路図でも、足りる線は強いです。強い線は、流れていない水まで流れたことにします」
交差布の上で、影がほんの少し震えた。水の震えにも、胞子の息にも見える。けれど、どちらか一方ではない。昨日の二つ聞こえる音は、まだこの場所に残っている。残っているから、影はどちらの道にもなりきらない。
ミルが行き先未満札を、影の上ではなく、閉じない便紐の外側へ置いた。
「近すぎますか」
「影に読ませる札じゃないよ」
ククルーが言った。
「読むのは、こちらの手だね」
ミルは札を少し手前へ戻した。ナナムも、札が水路図の線に重ならないよう、湿りの端を布で押さえた。押さえると言っても、止めるのではない。広がりすぎない高さへ置く。
その時、棚の奥から、低い音がした。
胞子便棚の奥にある空き皿が、かすかに鳴ったのだ。皿の上には何も乗っていない。けれど、昨日まで流れない招待札を置いていた皿に似た冷たさが、棚の木目から上がってきた。
ミルの目が皿へ向いた。
「あの招待札と、同じものですか」
「同じと言うと、急ぎすぎる」
旅人は言った。
「別だと言っても、離しすぎる」
ナナムは閉じない便紐の外へ、責めない皿から持ってきた白い小石を一つ置いた。
「では、同じにしたい手と、別にしたい手を、ここへ置きます」
白い小石は、行き先未満札の隣で止まった。影は濃くならない。薄くもならない。ただ、封筒に似た端が、少しだけ角度を変えた。
旅人は、その角度を読みたくなった。
右を向いたのか。水路側へ傾いたのか。胞子灯の方へ戻ろうとしているのか。招待の文字を隠しているのか。考えれば、いくつも線が引ける。線はすぐに道になる。道はすぐに追跡になる。
旅人は手を止めた。
「今日は、追わない」
声に出すと、ミルの肩が少し下がった。ナナムの指も、水路図の上で一度だけ休んだ。
「見ない、とは違いますね」
ナナムが言った。
「見ます。でも、追いません」
ミルはその言葉を繰り返さず、閉じない便紐の輪を少し広げた。輪は影を囲わないまま、影が棚の外へ落ちたように見えない幅になった。
閉じない便紐を広げるにも、三人の手が必要だった。
ミルは棚の低い釘に掛かった端を少しゆるめる。ゆるめすぎると、紐はただの置き忘れに見える。ナナムは布の外へ逃がした端を、水路図から離す。近すぎると、水路へ引くための紐に見える。旅人は輪の手前を指で押さえず、影との間に指一本分の空きを残した。
その空きが、いちばん難しかった。
指一本分は、狭い。狭いから、守っているように見える。だが、触れていない。影を囲わず、影から離れすぎず、便紐が自分の役目を強く言いすぎない距離。ククルーはその空きを見て、ひげを少し動かした。
「ここに札を差したくなるね」
「差さないよ」
ミルとナナムが同時に言った。二人の声が重なったが、一つの声にはならなかった。重なったことに気づいて、二人は少し笑った。
旅人は、笑いもまた閉じない便紐の外側へ置いた。笑うと、怖さが少しやわらぐ。やわらぐことは悪くない。けれど、やわらげすぎると、影が軽いものに見えてしまう。届かなかったかもしれないものを、扱いやすい小物にしてはいけない。
リリウムは、棚の後ろから細い霧布を持ってきた。
「証拠にしたくなる手を拭く布です」
その名前は強かった。リリウム自身もそれに気づいたのか、すぐに首を横へ振った。
「いえ。証拠、という言葉も強いですね。確かめたことにしたくなる手を、少し冷ます布です」
霧布は影に触れない。閉じない便紐にも触れない。行き先未満札と白い小石の間に、斜めに置かれた。斜めだから、どちらの道具にも属さない。置かれたことで、見えた、分かった、つかんだ、という言葉が少しだけ遠くなった。
「確かめたいです」
ミルが言った。
「確かめたいですね」
ナナムも言った。
旅人もうなずいた。
確かめたい。影が何なのか。招待なのか。便なのか。誰かが待っているのか。どこかへ向かっていたのか。確かめたい手は、三人の中にある。ククルーにもあるのだろう。鈴は鳴らないが、首元の丸い影が少しだけ前へ出ている。
「確かめたいことを、ここに置く」
旅人は霧布の外側へ、短い木片を三つ並べた。ミルの木片、ナナムの木片、旅人の木片。ククルーは自分の分として、丸い小石を一つ置いた。
「ぼくは木片より丸い方が落ち着くね」
「転がらないでください」
ミルが言うと、ククルーは小石を前足で押さえた。
四つの小さなものが、霧布の外側に並んだ。それだけで、影の方へ集まっていた視線が少し分散した。影は見える。けれど、見る側の手も見える。見られるものだけが重くならずに済む。
「閉じない便紐は、便利です」
ミルがつぶやいた。
ククルーの耳がぴくりと動いた。
ミルはすぐに言い直した。
「便利にしたくなる紐だね」
「便利にする手前へ戻れたんだね」
ククルーは小さくうなずいた。
閉じない便紐は、便利な道具ではない。便を閉じないための紐でも、影を捕まえるための紐でもない。閉じたい手を見える場所へ置くための、細い輪だった。
やがて、交差布の影がゆっくり動いた。
動いたと言っても、布の上を滑ったわけではない。封筒に似た端の外側に、もう一つ薄い縁が見えた。縁は、招待札の角にも、席札の折り目にも見える。行き先未満札の短い線が、少しだけその方を向いたように見えた。
ミルが息を止める。
ナナムは水路図の端を押さえず、手を膝に戻した。
旅人は、棚の下に置かれていた小さな空席札を見つけた。まだ使われていない祝祭用の札で、名前を書くところは空いている。空いているから、すぐに書きたくなる。誰の席か、どの席か、招かれなかったのか、届かなかったのか。空きは、言葉を呼ぶ。
旅人は空席札へ何も書かなかった。
代わりに、行き先未満札の隣へ、空席札を裏返して置いた。表を伏せると、席の形だけが残る。名前も、理由も、場所もない。けれど、席として見られる高さはある。
影の端が、その伏せた札の方へわずかに淡く伸びた。
ミルは言った。
「祝祭の席へ、持って行くんですか」
「持って行く、というより」
旅人は閉じない便紐を見た。
「席の方からも、見える高さへ置く」
ナナムはうなずいた。
「水路で運ぶと、着いたことにしたくなります。胞子便で運ぶと、読めたことにしたくなるかもしれません。なら、席を先に見に行く」
「影を連れて行くのではなく、席が影を急がせないか見る」
ミルはそう言って、空席札の下に薄い布を差し込んだ。布は席のまま運ぶ布にはまだならない。ただ、札を持ち上げる前に、札の冷たさを手へ移しすぎないための布だった。
ククルーは立ち上がり、閉じない便紐の端を鼻先でそっと押した。紐は結ばれない。ほどけもしない。ただ、低い棚から少しだけ祝祭の方を向いた。
「じゃあ、今日は席を見に行こう」
ククルーが言った。
「誰の席かを決めに行くわけじゃないよ」
ミルが続けた。
「席が空いていることを、失敗にしないために」
ナナムも言った。
旅人は、交差布の上の影をもう一度見た。封筒に似た形は、まだ便ではない。届かなかった一通と呼びたくなるが、その言葉もまだ強い。だから旅人は、声に出さず、行き先未満札と閉じない便紐と伏せた空席札の三つを、浅い連絡袋の近くへ低く並べた。
影は動かなかった。
けれど、見失われてもいなかった。
低い棚の前で、森の音と滝の音が小さく並んでいる。その間に、まだ便になる前の影が休み、閉じない便紐が揺れ、伏せた空席札が祝祭の方を向いている。
次に見るのは、影の中身ではない。
その影が急がされずに置かれるための、空いた席だった。




