第15巻 森と滝の連絡便 第7章 菌糸と水路の間
森へ戻る道は、来た時よりも静かだった。
静かなのに、音が少ないわけではない。浅い連絡袋の内側では、細い滝の涼しさが歩くたびにかすかに揺れている。ナナムが持ってきた水路図の布は、たたまれていても湿りの重みを残していた。ククルーの鈴は鳴らない。ただ、首元で小さく傾くたびに、今は鳴らないという形でそこにある。
シルヴァリスの霧が近づくと、胞子灯の明かりが一つずつ見えてきた。
胞子灯は、水音を迎えに来たようには光らなかった。遠くから見れば、いつもの帰り道を照らしているだけだった。けれど旅人が一歩近づくごとに、光の端がほんの少しだけ湿って見える。水に濡れたのではない。滝の音を持った者が通ると、胞子灯の方でも聞く姿勢を変えるのだと、旅人には思えた。
森へ戻る手前で、リリウムが待っていた。
待っていたと言っても、道をふさぐようには立っていない。胞子灯の少ない場所で、霧の濃さを見ている。彼女の足元には、浅い葉皿が二つ置かれていた。一つは乾いていて、一つは霧を含んでいる。どちらにも何も載っていない。
「水音を持って帰る時は、森の耳も少し支度します」
リリウムはそう言った。
ナナムは水路図の布を胸の前で抱え直した。水路側の湿りを、森へ押し込まないようにする手つきだった。
「森の耳、ですか」
「耳と呼びたくなる場所です。胞子灯は、音を聞くわけではありません。でも、音が近づくと光の置き方を変えます」
リリウムは乾いた葉皿を指した。
「こちらは、森が聞こえたことにしたくなる手を置く皿」
次に、霧を含んだ葉皿を指した。
「こちらは、聞こえなかったことにしたくなる手を置く皿だね」
ククルーは二つの皿を見比べた。
「どちらも忙しそうだね」
「うん。音を持ち帰ると、聞こえたと言いたくなるね。何も変わらないと、聞こえなかったと言いたくなる。どちらも早いから」
旅人は浅い連絡袋を少し開いた。袋の内側に残った涼しさが、霧へ触れる。乾いた葉皿の上で、胞子がひと粒だけ明るくなった。霧を含んだ葉皿では、水滴がひとつ暗くなった。明るくなったことも、暗くなったことも、返事ではない。けれど、森の聞き方が変わったことは見えた。
「同じ布へ行く前に、皿がいる」
旅人が言うと、リリウムはうなずいた。
「布は、近く見せる力があります。近く見せる前に、近く見たくなる手を置きます」
ナナムは水路図の布を少し低くした。
「水路側でも、布は強いです。広げると、流れが見える顔をします」
「森でも、広げると、根が見える顔をします」
ミルの声が霧の奥から届いた。彼女は低い棚の方から歩いてきて、まだ何も持っていない両手を見せた。
「だから、先に手を空にして待っていました」
旅人はその手を見て、安心した。森側は、滝の音を受け取る準備をしていたが、受け取り終える準備ではなかった。聞こえたことにする皿と、聞こえなかったことにする皿。両方を置いて、同じ布へ進む。
低い棚の前では、ミルが両手を布で拭いていた。
「戻ってきましたね」
ミルは笑ったが、すぐに視線を袋へ下げた。
「届いた答えを持ってきた顔では、ありませんね」
「答えではない」
旅人が言うと、ミルは少し安心したように肩を下ろした。
「よかった。答えだったら、ここに置く場所がなくて困るところでした」
ナナムはその言葉を聞いて、たたんだ水路図の布を胸元から少し離した。
「水路側でも、困ります。届いたかどうかを押したくなる印はあります。でも、混ざったかどうかを押す印はありません」
「混ざった印は、作らないでおこう」
ククルーが言った。
「一度作ると、手がそこへ行きたくなるからね」
ミルは低い棚の横へ、薄い布を広げた。布の半分には、シルヴァリスの菌糸を表す淡い線が刺してある。もう半分には、ナナムが持ってきた水路図の写しを置ける余白があった。ただし、線と線をつなぐ目印はない。道が寄る場所だけが、細く空いている。
「これ、まだ名前がないね」
ミルが言った。
「名前を付けると、役目が決まってしまいそうで」
布を広げる手順は、思ったより長かった。
ミルは布の四隅をいきなり押さえない。まず左手前だけを棚板へ触れさせ、菌糸の刺し線が光りすぎないかを見る。次に右奥を、ナナムの水路図の布から少し離したところへ置く。三つ目の角は、あえて浮かせたままにする。四つ目の角には、ククルーが前足を近づけかけて、すぐ引っ込めた。
「ククルーが押さえると、決める布になりますね」
ミルが真面目に言うと、ククルーは咳払いをした。
「今日は見守り布です」
「見守りも、強くなる時があります」
リリウムが静かに言った。
ククルーはさらに一歩下がった。
ナナムは水路図の写しを、交差布の余白へすぐ置かなかった。水路図の布を開く前に、受け取り台で使った影札を一枚取り出す。影札を交差布の外側へ置き、それから水路図を少しだけ広げた。
「水路図をいきなり置くと、水路側が強くなります」
「菌糸線も同じです」
ミルは言い、胞子便棚の下から細い菌糸の写しを一本だけ取り出した。写しは光っているが、森の根そのものではない。森を代表する線ではなく、森の側から見える手前の線だった。
旅人は布の中央にある細い空きを見た。そこには何もない。だが、何もない場所ほど、すぐ役目を入れたくなる。間の台。接続点。受け渡し口。そういう言葉が、まだ布に触れる前から頭に浮かぶ。
旅人は、その言葉を口にしなかった。
「まず、角を見る」
ミルが言った。
「角?」
「布は中央を見たくなります。でも、中央を見る前に、角が何をしたがっているか見ます」
左手前の角は、棚板へ沈みたがっていた。菌糸の光が近いからだ。右奥の角は、湿りへ寄りたがっている。三つ目の浮いた角は、まだどちらへも決めていない。四つ目の角は、ククルーの前足が近づいたことで、少しだけ笑っているように見えた。
「角にも手があるね」
ククルーが言った。
「うん。角の手を見ないまま中央を見ると、中央が偉くなるからね」
ナナムは、水路図の写しを布の右側へ近づけた。置く前に、影札を一度見た。影札が透けすぎていないことを確認してから、布へ触れさせる。水路の線は布へ移らない。湿りだけが、少しだけ布の織り目へ触れる。
ミルは菌糸の写しを左側へ置いた。こちらも刺し線と重ねない。少し離す。光が光へ重なると、森の道が強くなりすぎるからだ。
布の中央は、まだ空いている。
空いているから、二つをつなげたくなる。
旅人は布の端へ指を置いた。菌糸の刺し線は、指先の近くでふわりと光った。ナナムが水路図の写しを布の反対側へ置くと、湿りがゆっくり広がった。光と湿りは互いへ向かったが、中央で一つの模様にはならなかった。近づき、止まり、少し離れて、また同じ布の上に戻る。
「菌糸水路の交差布」
ナナムが小さく言った。
ミルはすぐに札へ書こうとして、手を止めた。
「交差。つながり、ではなく」
「はい。水路の言葉では、交差しても合流しない流れがあります。橋の下を通る水と、橋の上を通る水桶のように」
「森でも、近くにあっても同じ根にしない道があります」
ミルはそう言い、書きかけの札を裏返した。表に大きく書けば、決まってしまう。裏の隅へ、小さく印を置く。そのくらいなら、布の方がまだ考えられる。
旅人は浅い連絡袋から、細い滝で受けた涼しさを取り出すように、袋の口を低く開いた。見える水はない。けれど布の上で、菌糸の光が少し息をし、水路図の湿りが一度だけ丸く震えた。
その時、二つの音が聞こえた。
一つは、シルヴァリスの土の下を渡る、かすかな胞子の音だった。乾いた葉が裏返る前の、まだ葉でも風でもない小さな音に似ている。もう一つは、カスカーダ細滝から持ってきた、薄い水の音だった。水面に落ちる前のしずくが、自分の重さを確かめるような音だった。
二つは同時に聞こえた。
同時に聞こえたからといって、一つの音になったわけではない。
ミルの手が、布の中央へ伸びかけた。
ナナムの手も、水路図の端を少し押し出しかけた。
「つな……」
ミルが言いかけ、そこで息を止めた。
ナナムも同じ言葉を持っていたらしく、口元を閉じた。
旅人の手も、浅い連絡袋の紐を結びたくなっていた。袋を結べば、ここまでの道のりに形ができる。森と滝が出会った、と言える。届かなかった一通へも、近づいた気がする。
けれど、近づいた気がすることと、近づいたことは違う。
旅人は紐を結ばず、袋の口を布の手前へ置いた。
「今は、二つ聞こえる音」
そう言うと、ミルは中央へ伸ばしかけた手を、自分の膝の上へ戻した。ナナムも水路図を押さず、端に小さな重しを置いた。
ククルーは棚の下から、薄い木片を二枚出した。一枚には胞子が落ちても沈まないよう、細かい穴があいている。もう一枚には湿りがたまりすぎないよう、浅い溝がある。
「これを重ねると、何になると思いますか」
「台」
ミルとナナムがほとんど同時に答え、すぐに互いを見た。
「正解にするには早いですね」
ククルーは楽しそうに目を細めた。
「でも、台になりたがる形ではあるね」
二枚の木片は、ぴたりとは重ならなかった。穴と溝の位置が少しずれている。ずれを直そうとすれば、片方の役目が失われる。だから旅人は、間に薄い丸布を一枚置いた。丸布は何も描かれていない。胞子も水も、そこで少しだけ休める。
「間の台」
今度はミルも、すぐには札を取らなかった。
「台、と呼んでも、いいですか」
「まだ低い台なら」
旅人は答えた。
「高くしない。道にしない。ここを通れば届く、と言わない」
ナナムはうなずき、水路図の布から湿りを少しだけ丸布へ移した。ミルは胞子便棚の下から、細い菌糸の写しを一筋だけ取って、丸布の端へ置いた。二つは丸布の上で出会わない。出会わないまま、同じ台に置かれている。
「これなら、森側で聞こえたことを水路側の答えにしなくてすむ」
ミルが言った。
「水路側で流れたことを、森側の読めたことにもしなくてすみます」
ナナムが続けた。
旅人は、交差布の中央を見た。そこには、何も書かれていない。何も書かれていないから、二つの音は同じ場所で聞こえても、それぞれの高さを保っている。
「届かなかった一通は」
ナナムが言いかけ、言葉を選び直した。
「ここで、探せますか」
ミルの表情が少し硬くなった。探せる、と言えば、布は追う道になる。探せない、と言えば、置いた意味が消えてしまう。どちらも早い。
リリウムは、布の外側へ乾いた葉皿を置いた。
「探したい手はこちらへ」
次に、霧を含んだ葉皿を置く。
「探せないと決めたくなる手はこちらへ」
二つの皿は、交差布から少し離れている。離れているから、布の上の影へ直接触れない。けれど、皿があることで、問いの両側が見える。探したい。探せないと決めたい。どちらも、影より先に走る手だった。
ナナムは乾いた葉皿へ指先を置いた。
「探したいです」
ミルは霧を含んだ葉皿を見た。
「探せないと言って、棚を守りたくもあります」
ククルーは二つの皿の間へ座った。
「ぼくは、両方にコメントしたくなるね」
「コメント皿はないよ」
リリウムが言うと、ククルーは口を閉じた。
旅人は交差布を見た。布の中央はまだ空いている。探したい手、探せないと決めたい手、説明したい手。それらを外側へ置くと、中央に残る空きが少し静かになった。静かになったから、影が来られる場所という言葉が高くなりすぎずに済む。
旅人は交差布の端へ、責めない皿から持ってきた白い小石を置いた。
「探す前に、影が来られる場所にはできる」
その言葉のあと、しばらく誰も動かなかった。
胞子の音と水の音が、低い棚の前で並んでいた。ククルーの鈴は、まだ鳴らない。鳴らないまま、二つの音を聞いているように見えた。
やがて、交差布の空いている中央に、細い影が差した。
外から来た影ではない。胞子灯の向きが変わったわけでも、水路図の湿りが濃くなったわけでもない。布そのものの織り目の奥から、封筒の端に似た薄い形が、少しだけ浮いた。
ミルが息を吸った。
ナナムの手が、水路図の端を押さえた。
旅人は、浅い連絡袋の紐へ指をかけた。閉じれば、影を守れる気がした。結べば、これが一通だと言える気もした。
けれど、影はまだ一通に似ているだけだった。
行き先も、持ち主も、届かなかった理由も、布の上には出ていない。
旅人は紐を結ばなかった。代わりに、棚の端にあった細い便紐を取った。結び目を作らず、交差布の手前へ輪だけ置く。閉じない便紐は、風で少し揺れたが、影を囲わなかった。
「閉じないんですか」
ミルが聞いた。
「閉じると、便になってしまう」
旅人は答えた。
「でも、離すと見失う」
ナナムは言い、閉じない便紐の片端をそっと布の外へ逃がした。ミルはもう片端を棚の低い釘へ掛けた。紐は結ばれていない。けれど、そこにあるものを、なかったことにはしない。
ククルーは、ようやく小さく鈴を鳴らした。
一度だけだった。
音は胞子にも水にも似ていない。けれど二つの音の間を通って、どちらも押しのけなかった。
「今日のところは、二つを押しのけない音なんだね」
ククルーが言った。
「答え、ではなく」
「うん。答えにしない置き方なんだね」
ミルは交差布の札を、裏返しのまま棚の端へ差した。ナナムは水路図の布をたたまず、湿りが逃げない低さへ広げたままにした。旅人は浅い連絡袋を閉じず、袋の口が交差布の方を向くように置いた。
森と滝は、つながったわけではない。
けれど、二つの道が同じ場所で聞こえる間はできた。
その間に、封筒に似た薄い影がひとつ、まだ便になる前の姿で休んでいる。閉じない便紐は、その影の手前で揺れながら、次に見るべきものを急がせずに示していた。




