第14巻 ここが旅の始点だった 第2章 消える映像の廊下
返事の入口は、くぐるものではなかった。
旅人が一歩近づくと、半円のくぼみの内側にできた小さな空きは、横へ少し広がった。人が通れるほどではない。声だけなら通れるかもしれない。手だけなら差し出せるかもしれない。けれど、体を通すには、まだ足りない。
ミャオリンは、入口前の返事場所に残した半円の返事を見た。
「先に返事だけ通したがってるね」
「先に?」
旅人が聞くと、ミャオリンは首をかしげた。
「塔がそうしたいのか、こっちの手がそう見ているのかは、まだ分からない」
リオは、低い順番灯を持ち上げなかった。灯りは入口前の白い布のそばで、足もとの影だけを照らしている。
「灯りを置いていくのですか」
旅人が聞くと、リオはうなずいた。
「持って入ると、先を照らしたくなります。ここでは、先よりも、戻る場所を照らしておきます」
白い布の端には、灯りの影が小さく折れていた。
折れた影は、矢印に見えそうだった。
ここへ戻る。
ここで待つ。
ここから入る。
三つの言い方が、同じ折れ目に集まりかける。
旅人は、折れた影から少し目を離した。
見つめすぎると、影はすぐ道具になる。
道具になると、使いたくなる。
「影にも、見つめすぎる場所があります」
旅人が言うと、ミャオリンは低く笑った。
「あるにゃ。影は便利そうな顔をするにゃ」
リオは、白い布の端に小さな重しを三つ置いた。
ひとつは丸い。
ひとつは細い。
ひとつは、欠けた半円だった。
「布が動かないようにするためですか」
旅人が聞くと、リオは少し考えた。
「それもあります。でも、本当は、影を一つの向きへ引っぱらないためです」
丸い重しの影は、戻る場所に見えた。
細い重しの影は、通れるすきまに見えた。
欠けた半円の影は、まだ閉じない返事に見えた。
三つがあると、どれかひとつに決めにくい。
決めにくいことが、ここでは助けになる。
旅人は、白い布の端へ札を置いた。
`影を一つにしない重し`
ククルーが、封筒の横からそれを見た。
「影を一つにしない重しなんだね。重くしすぎていない」
「重しなのに」
「うん。重しは、動きをなくすのではなく、見える速さにすることもあるんだ」
旅人は、足もとの影を見た。
入る前の影は、もう入口だけを指していなかった。
ククルーは、言わなかった言葉の封筒を石畳の上に残したまま、入口の空きを見ていた。
封筒を置いていく。
そのことに、旅人の胸が少しだけ騒いだ。
持っていかないのか。
聞けないままになるのか。
そう言いたい手が、白い布の端で動いた。
ククルーは、その手を見たように、旅人の方を向いた。
「封筒を置いていくことは、言葉を置いていくことじゃないよ」
「では、何を置いていくのですか」
「入口で言葉にしたくなる手だね」
ククルーは、封筒の口を前足で少しだけ押さえた。
「中身は、まだこちらを向いているね」
旅人はうなずいた。
完全には分からなかった。
でも、完全には分からないまま、うなずく場所ができていた。
入口の空きが、もう一度弱く光った。
今度は、人ひとりが横向きで通れるほどの幅になった。大きな門ではない。胸を張って入る場所でもない。抱えていたものを置き、少し身をかがめ、向こう側に返事を残したまま通るための隙間だった。
ミャオリンが先に入った。
次にリオが、灯りを持たずに入った。
旅人は、白い布の上の進みたい手箱を見た。
置いていく。
置いていくが、捨てるわけではない。
箱の重さを手のひらに残したまま、旅人は入口を通った。
内側は、思っていたより暗くなかった。
壁が光っているわけではない。天井に灯りがあるわけでもない。暗くないのは、どこかが明るいからではなく、暗さがこちらへ急いでこないからだった。
廊下は、細く、長い。
床は濡れていない。
けれど、足音は濡れた石を踏むように低く響いた。
一歩。
その音が、少し遅れてもう一度返る。
二歩。
返ってきた音は、最初の足音と同じではない。
どこかで、短い映像のようなものが揺れた。
旅人は足を止めた。
壁の左側に、光が浮かんでいた。
人影に見える。
小さな手が、何かを持っているように見える。
その手の向こうに、ネオン雨のような色が落ちている。
見えた。
見えたと思った瞬間、光は消えた。
「消えた」
旅人は言った。
声が廊下の奥へ走りかけた時、ミャオリンがしっぽを横に伸ばした。
「消えた、で止めよう」
「消えたから、もう見えません」
「うん。そこまでで止める」
ミャオリンの声は低かった。
「消えたから、なくなった。消えたから、失敗した。消えたから、もう戻らない。そこまで先に行かせない」
旅人は、壁を見た。
光はない。
さっき人影に見えた場所には、何もない。
何もない場所は、すぐに何かを入れたくなる。
小さな手。
ネオン雨。
持っていたもの。
その先の名前。
思いついた言葉が、次々に入りたがった。
リオは、腰の小さな袋から、薄い灰色の布を取り出した。
「見えなかった布です」
「見えなかったところに掛けるのですか」
「少し違います」
リオは、布を壁へ直接かけなかった。
両手で広げ、光が消えた場所から少し離して持つ。
布は壁に触れていない。
触れていないのに、消えた場所の輪郭が少しやわらいだ。
「触れないのですか」
旅人が聞くと、リオはうなずいた。
「触れると、隠したみたいになります」
ミャオリンが、布の端を少し持った。
「離しすぎると、関係ない布になるにゃ」
「はい。だから、このくらいです」
布と壁の間には、指一本分の空きがある。
その空きに、廊下の低い足音が入っていく。
一歩。
布がほんの少し揺れる。
二歩。
揺れたあと、消えた光の場所に、何も戻らない。
何も戻らないのに、さっきより冷たくない。
旅人は、その空きを見た。
見えなかったところを、見えたものの穴にしない。
穴にしなければ、そこへ急いで何かを入れなくてもよい。
「見えなかった布には、すきまがあります」
旅人が言った。
リオは、布を持ったまま笑った。
「はい。ぴったり掛けない布です」
ミャオリンが札を出した。
`ぴったり掛けない布`
「これ、書いておくにゃ。あとで便利にゃ」
「便利にしすぎないように」
ククルーが言うと、ミャオリンは舌を少し出した。
「分かってるにゃ。便利にしすぎないために書くにゃ」
旅人は、ぴったり掛けない布を見た。
消えた映像を隠さない。
戻さない。
でも、見えなかったところが冷えすぎないよう、少し離れてそばにいる。
それは、言わなかった言葉の封筒にも似ていた。
似ている、と思っただけで止める。
同じ、とまでは言わない。
「見えなかったところを、見えたものの欠けにしないために掛けます」
リオは、壁の前に布を広げた。
布は壁に貼りつかなかった。空中に、ほんの少し浮いている。さっき光があった場所から、手のひら一枚ぶん離れている。
近すぎない。
遠すぎない。
旅人は、その距離を見た。
「そこに掛けると、さっきの映像を隠したように見えませんか」
「見えます」
リオはすぐ答えた。
「ですから、隠したくなる手も一緒に見ます」
ミャオリンが、布の下へ小さな札を置いた。
`消えたところ`
その横に、もう一枚置く。
`消したいところ`
二枚の札は似ていた。
似ているのに、違っていた。
旅人は、二枚の間へ指を置きそうになり、止めた。
「間にも札がいるかな」
ククルーが聞いた。
旅人は考えた。
消えたところ。
消したいところ。
その間には、何があるのか。
「見えなくなったあと、もう一度見たいところ」
旅人が言うと、ククルーはうなずいた。
「まだ困っている場所として、ここに残っているね」
リオは、新しい札を書く前に、灰色の布の端を少しだけ折った。
折ると言っても、しまうためではない。端を持ち上げて、布の下に小さな影を作るだけだった。
「見えなかったところの端にも、少し場所があるね」
「端ですか」
「はい。真ん中へ何かを置くと、すぐに補いたくなります。でも端なら、見えなかった場所を見えなかったまま持てます」
ミャオリンが細い布切れを差し出した。
「端布にゃ。広げすぎると、全部隠せる気がしちゃうにゃ」
リオはそれを受け取り、見えなかった布の下に、ほんの少しだけ重ねた。
`見えなかった場所の端布`
札を書いて置くと、壁の光のあとが少し静かになった。
消えた映像は戻らない。
でも、戻らないものの端に、手を置ける気がした。
旅人は、さっき自分が言った「もう一度見たいところ」を思い出した。
もう一度見たいと思うことは、悪くない。
けれど、もう一度見たい手をそのまま壁へ押しつけると、壁は答えを出す場所に変わってしまう。
ククルーが、小さな水皿を取り出した。
水は入っていない。
でも、皿の底に薄い青があり、見る手を少し冷ましてくれるように見えた。
「これは、手を休ませるだけだよ」
ククルーは言った。
「見たい手をなくすものじゃないよ」
リオが札を書いた。
`もう一度見たい手を休ませる水皿`
旅人は、指先を皿の縁に近づけ、触れる前で止めた。
触れなくても、指先の速さが落ちる。
見えなかった場所の端布。
もう一度見たい手を休ませる水皿。
どちらも、映像を戻さない。
どちらも、見たい気持ちを叱らない。
その二つが並ぶと、消える映像の廊下は、ただ怖い場所ではなくなった。
見えたものを追う場所でもない。
見えなかったことのそばで、手の高さを下げる場所になった。
リオは、水皿の横に薄い透明なふたを置いた。
ふたと言っても、皿を閉じる形ではない。皿の縁より少し小さく、斜めに置くと、半分だけ影ができる。
「見たい手の半分ふたです」
「閉じるんですか」
旅人が聞くと、リオは首を横に振った。
「半分だけです。全部閉じると、見たかったことまでなかったことにします」
ミャオリンが、ふたの影を見てうなずいた。
「半分残ると、あとで聞き返せるにゃ」
リオが札を書いた。
`見たい手の半分ふた`
ふたを置いても、水皿は水皿のままだった。
見たい手も、消えなかった。
ただ、壁へまっすぐ走る前に、皿の半分の影で一度曲がる。
旅人は、その曲がり方を覚えた。
真っすぐ見たい時ほど、少し曲がる場所がいる。
リオは、ふたの影が壁へ届かないことを確かめてから、布の端へもう一枚小さな紙を置いた。
紙にはまだ何も書かれていない。
けれど、紙の角だけが少し丸く切られていた。
「見たあとに戻れる角です」
「戻る角」
旅人が繰り返すと、リオはうなずいた。
「見たものを持って走ると、戻る場所がなくなります。見えなかったことを見えなかったまま置く時にも、あとで戻れる角がいると思います」
ミャオリンが、水皿のふたをしっぽで軽く叩いた。
「まっすぐ見たい手は、まっすぐ戻りたい手にもなるにゃ。でも戻り道までまっすぐだと、また壁にぶつかるにゃ」
旅人は、空の紙の丸い角を見た。
そこには、見たものの名前も、見えなかった理由も書かれていない。
ただ、あとで戻れるように角が丸い。
角が丸いだけで、手の力は少し弱くなった。
旅人は、さっき消えた三つの映像を思い出した。
小さな手。
丸い窓。
薄い輪。
どれも、追えば近づきそうだった。
でも、近づきすぎると、それぞれを一つの答えへ押し込んでしまう。
リオは、空の紙の端にようやく小さく書いた。
`見たあとに戻れる角`
札というより、紙そのものへの印だった。
旅人は、見えなかった場所の端布、もう一度見たい手を休ませる水皿、見たい手の半分ふた、見たあとに戻れる角を順に見た。
四つあっても、映像は戻らない。
戻らないまま、戻れる角だけができる。
それなら、見えなかったことのそばに、もう少し長くいられる気がした。
ミャオリンは三枚目の札を出した。
`もう一度見たいところ`
三枚の札が、壁の前に並んだ。
消えたところ。
消したいところ。
もう一度見たいところ。
どれも、映像そのものではない。
映像が消えたあとに、こちらの手がどこへ行きたがるかを置く札だった。
廊下の奥で、また光が揺れた。
今度は右側の壁だった。
旅人は、すぐにそちらを見なかった。
見たい手が動く。
動いた手を、まず見る。
それから、壁を見る。
光の中に、丸い窓のようなものが浮かんでいた。窓の向こうに、誰かが立っている。背丈は分からない。顔も分からない。けれど、その人は、何かをこちらへ差し出しているように見えた。
差し出す。
返す。
渡す。
置く。
言葉がいくつも浮かんだ。
そのどれかを選ぶ前に、映像は消えた。
旅人は息を吸った。
今度は、消えた、と言わなかった。
リオが、灰色の布をもう一枚出した。
ミャオリンが、三枚の札を持って移動した。
ククルーは、少し遅れて歩いた。
遅れている。
けれど、置いていかれているわけではない。
ククルーの遅れは、廊下の足音と同じように、あとから返るための間に見えた。
「今度は、何が見えましたか」
リオが聞いた。
旅人は、すぐに答えなかった。
顔。
誰か。
差し出したもの。
そう言いたい手を、白い布の代わりに、廊下の空気へ置いた。
「差し出しているように見えました」
「何を?」
ミャオリンが聞いた。
「分かりません」
「誰が?」
「分かりません」
「それでも、差し出しているように見えた?」
「はい」
ミャオリンは満足そうにうなずいた。
「なら、今日はそこまででいい」
旅人は、右側の壁の前に置かれた札を見た。
消えたところ。
消したいところ。
もう一度見たいところ。
その三枚では、足りない気がした。
「もう一枚、置きたいです」
「どんな札」
「差し出されたように見えたところ」
リオは、札を作らなかった。
代わりに、空の小さな台を置いた。
「札にすると、差し出されたものがあったように見えるね。今日は、台だけにするよ」
空の台。
置かれていないものを、置かれていないまま見えるようにする台。
旅人は、その台を見て、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
見たい。
知りたい。
でも、見えなかったところへ言葉を置きすぎると、見えなかったものが置いた言葉の形になってしまう。
ククルーが、廊下の奥を見ていた。
「ククルー」
旅人が呼ぶと、ククルーは振り向いた。
「うん」
「今の映像を、知っていますか」
聞いてから、旅人は自分の声を見た。
急いでいた。
けれど、責めるほどではない。
知りたい手が、廊下の中で動いたのだ。
ククルーは、少しだけ目を細めた。
「知っている、と言いたくなる場所があるね」
旅人は息を止めた。
ククルーは、続けた。
「でも、知っている、と言うには、今の映像は短すぎるね」
「知らないのかな」
「知らない、と言うには、今の沈黙は重すぎるね」
ミャオリンが、何も言わずにしっぽを床へ置いた。
リオも札を出さなかった。
旅人は、ククルーの言葉を廊下の壁へ押しつけなかった。
知っていると言いたくなる場所。
知らないと言うには重すぎる沈黙。
その二つを、同じ答えにしない。
廊下の奥で、三度目の光が浮かんだ。
今度の光は、すぐには形にならなかった。線が集まり、ほどけ、また集まる。ネオン雨に似ている。サイバリアの外縁の信号にも似ている。けれど、どちらとも言い切れない。
旅人は、足を止めた。
光は、人影にも、窓にもならなかった。
ただ、短い空白を形にしたような、薄い輪だけが浮かんだ。
輪の内側に、何かがある気がした。
でも、何も見えない。
何も見えないまま、輪は消えた。
消えたあと、廊下は少し明るくなった。
「今のは」
旅人は言いかけて、止めた。
今のは何だったのか。
その問いを、すぐに答えへ向けない。
ミャオリンが、廊下の床へ小さな糸を置いた。
「返事待ちの糸」
「返事待ち」
「うん。消えた映像を、戻ってくる映像として待つんじゃない。こちらが何を返せるか、あとで分かるように糸だけ残す」
リオは、三か所の布と札を見直した。
左の壁。
右の壁。
奥の床。
どこにも、映像は残っていない。
残っているのは、見た手と、消したい手と、もう一度見たい手と、差し出されたように見えた空の台と、返事待ちの糸だけだった。
映像は消えた。
消えたものを、映像の持ち主へ返すことはできない。
でも、消えたあとに動いた手なら、ここへ置ける。
旅人は、廊下の奥を見た。
そこには扉があった。
入口のような半円ではない。まっすぐな四角い扉でもない。細い光が何本も重なり、すきまだけで扉の形を作っている。
扉の向こうに何があるかは、見えない。
見えないのに、次の声が聞こえたような気がした。
低い声。
命令ではない。
案内とも、まだ言い切れない。
「ここまで」
ククルーが言った。
旅人は、扉の前で止まった。
止まった足もとに、返事待ちの糸が一筋伸びていた。糸は廊下の奥へ進まず、三つの消えた映像の場所へ戻っている。
戻っている。
それが、この廊下で最初に残った道だった。
消える映像の廊下は、映像を残さなかった。
かわりに、戻って返せる場所を残した。




