第14巻 ここが旅の始点だった 第1章 記憶塔の入口
道は、塔へ近づくほど細くならなかった。
むしろ、広がっていった。
雨見台を離れた時、足もとで光っていた低い順番灯は、ひとつの丸い灯りだった。歩き出してすぐ、その灯りの端から細い線が二本伸びた。少し進むと、三本になった。角を曲がるころには、灯りは七つの短い影を作っていた。
どれが正しい道かを示しているのではない。
歩き出した手が、どこへ先に行きたがるかを見せている。
旅人は、進みたい手箱を抱え直した。
箱の中はまだ空だ。
空なのに、手の中で少し重い。
箱の底には、布を一枚だけ敷いてある。
ミャオリンの店で余った、雨を吸いすぎない薄い布だ。
何かを入れるための布ではない。
何も入っていないことが、箱の底でまっすぐ見えすぎないようにする布だった。
旅人は指先で、その布の端をそっと押さえた。
布は沈まない。
押さえた指だけ、少し冷える。
「空なのに、底があります」
旅人が言うと、ククルーは耳を小さく動かした。
「空に底があると、少し持ちやすくなるね」
「底があると、何か入っているようにも見えるね」
「そうだね。だから、底も答えにしないで見ておこう」
ミャオリンが、後ろから箱をのぞき込もうとして、途中でやめた。
「のぞいたら、何もないことを確認したくなるにゃ」
「確認してはいけないのですか」
リオが聞く。
「してもいいにゃ。でも、確認したあと、空です、以上、って札を作りたくなるにゃ」
リオは、自分の筆を見て、少し笑った。
「作りたくなります」
旅人は、箱のふたを閉じなかった。
閉じると、大切なものを守っている形になる。
開けすぎると、何もないことを見せている形になる。
だから、ふたは斜めに立てた。
箱の中は見えすぎない。
でも、閉じてもいない。
ククルーが言った。
「その角度は、歩く時に少し面倒だね」
「はい」
「面倒な持ち方は、急ぎにくいね」
旅人は、箱を抱え直した。
たしかに、急げない。
少しでも走れば、斜めのふたが手に当たる。
当たれば、手が箱を思い出す。
思い出せば、進みたい手だけが先へ行きにくくなる。
「入口前の箱底布」
リオが小さく札を書いた。
札は箱の中へ入れない。
箱の外側、旅人の手が当たる場所へ貼った。
`入口前の箱底布`
箱の空は、少しだけ持ちやすくなった。
「重くなりましたか」
ククルーが、横を歩きながら聞いた。
「少し」
「それはいいことだね。軽すぎる箱は、つい振り回したくなるよ」
ミャオリンが後ろで笑った。
「案内役さん、箱を振り回したことがある口ぶりだね」
「詳しい説明は、今日は控えておくよ」
ククルーは、まじめな顔で言った。
旅人は少し笑ったが、足は止めなかった。止まらないまま、箱の重さを確かめる。止まることだけが手前線ではない。歩きながら、いつでも止まれる場所を持つことも、手前線の続きなのだと思った。
道の両側には、濡れた掲示板が低く並んでいた。
どの掲示板にも文字はない。
文字の代わりに、細い光が端から端へ流れ、途中で一度だけ弱くなる。弱くなった場所には、小さな丸が残る。返事を待つ席のような丸だった。
リオは、その丸を見てうなずいた。
「入口が近いです」
「文字では分からないのですか」
旅人が聞くと、リオは首を横に振った。
「記憶塔の入口に近づくと、文字は先に着きたがります。ですから、入口の近くでは文字を少し休ませます」
「文字を休ませる」
「はい。文字が先に着くと、あとから来る手が、もう席はないと思ってしまうので」
掲示板の下には、小さな雨粒受けの皿が並んでいた。
皿はどれも浅い。
水を溜めるには浅すぎる。
けれど、雨粒が落ちたかどうかを見るには十分だった。
旅人は、ひとつの皿をのぞいた。
そこには雨粒が一つだけ残っている。
丸い。
ただの水ではなく、ネオンの色を薄く含んでいる。
見ていると、その粒は文字になりそうだった。
入口。
記憶。
ここ。
そんな短い言葉が、粒の中で光りかける。
けれど、皿が浅いせいで、言葉になる前に粒はふるえた。
ふるえて、また粒に戻る。
「文字になりそうで、なりません」
旅人が言うと、リオはうなずいた。
「この皿は、そのための皿です」
「文字を止める皿ですか」
「いいえ。文字になる前の震えを見られる皿です」
ミャオリンが、皿を二つ指で軽くずらした。
「ひとつだけ見ると、何かの合図に見えるにゃ。並べると、まだ雨粒だって分かるにゃ」
ククルーは、皿の前で立ち止まった。
「記録は、文字になる前にも手があるね」
旅人は、浅い皿をもう一度見た。
文字になる前の震え。
それは、旅人の胸の中にもあった。
ここ、と言いたくなる前。
分かった、と言いたくなる前。
その前に、ほんの短い震えがある。
旅人は、その震えを急がせないように、皿の横へ札を置いた。
`文字になる前の雨粒皿`
札を置いても、皿は説明された顔をしなかった。
雨粒は、まだ雨粒のままだった。
ミャオリンは、半円の返事を包んだ布を持ち上げた。
「だから今日は、丸にしない。全部そろってから入る、という形にしない。半分で持つ」
旅人は、布の中の半円を見なかった。
見たい手がある。
見たい手は、すぐに中身を確かめたがる。
でも、半円の返事は、見れば完成するものではない。見ないまま持つから、まだ閉じていない形でいられる。
ククルーの背中では、言わなかった言葉の封筒が揺れていた。
封筒の口は開いている。
歩くたびに、口の端が少しだけ震える。
中の言葉が落ちそうで、落ちない。
旅人は、封筒を見すぎないように、低い順番灯へ目を戻した。
灯りの七つの影は、足もとの石に短く伸びている。影の一本だけが、他よりほんの少し遅れていた。
ククルーの歩幅が遅れたわけではない。
鈴も鳴っていない。
それでも、灯りは遅れた影を作った。
「見ましたか」
ミャオリンが低く言った。
旅人はうなずいた。
「でも、何の影かは決めません」
「うん。決めないで持てるなら、入口まで行ける」
リオが、濡れた掲示板の列の終わりで足を止めた。
そこから先には、雨が落ちていなかった。
雨がないのではない。
落ちる前に、空中で止まっている。
細い色の線が、塔の周りを囲むように浮き、地面へ届く直前で消えている。消えた場所には濡れた跡がない。ただ、薄い光の輪だけが残っていた。
記憶塔の入口は、その輪の内側にあった。
塔は高い。
高いのに、上を見上げる気持ちにならなかった。
入口が低かったからだ。
塔の足もとにある入口は、大きな門ではない。肩をすぼめなくても入れるくらいの高さだが、見上げて威圧されるほどではない。扉もない。あるのは、石の壁に開いた半円のくぼみと、その前に置かれた低い台だけだった。
台の上には、何も置かれていない。
何も置かれていない台ほど、置きたくなる。
旅人は、進みたい手箱を抱えたまま立ち止まった。
ここで置けば、入れる気がした。
箱を台に置き、半円の返事をその横に置き、封筒を開けば、入口はきっと開く。
そう思った瞬間、低い順番灯が弱くなった。
消えたのではない。
弱くなって、旅人の手だけを照らした。
「今、何を置こうとしましたか」
リオが聞いた。
責める声ではなかった。
確認する声でも、少し違った。
置きたくなった手に、席を一つ作る声だった。
旅人は、箱を見た。
「入るためのものとして、置こうとしました」
ククルーの耳が動いた。
ミャオリンは、布を胸の前で止めた。
リオはうなずき、何も置かれていない台の手前に、小さな白い布を敷いた。
「では、入るためのものとして置きたくなった手を、こちらへ」
旅人は、箱を台に置かなかった。
白い布の上に、箱を置いた。
台の上ではない。
入口の鍵としてではない。
入口へ向かう前に、自分の手を見える場所へ出すために。
箱を置くと、塔の入口の半円は、何も変わらなかった。
開かない。
閉じない。
ただ、半円のくぼみの内側で、光が一度だけ弱くなった。
ミャオリンが、包んでいた半円の返事を取り出した。
「これは、どこへ置く」
旅人は、入口の半円を見た。
半円と半円。
合わせれば、円になる。
円になれば、入れる。
そんな考えが、先に届いた。
旅人は、その考えを急いで追い出さなかった。追い出すと、見えないところでまた速くなる。だから、見える場所へ置いた。
「合わせたい手があります」
「あるね」
ミャオリンが言った。
「合わせたい手を、消しますか」
「消しません」
「では、どこへ」
旅人は、白い布の右側を指した。
「箱の横。入口ではなく、入口へ行きたい手の横へ」
ミャオリンは、半円の返事を白い布へ置いた。
入口の半円とは、少し離れている。
離れているから、円にならない。
円にならないから、まだ入れない。
でも、入れないことが失敗ではない。
入る前の返事場所が、やっと見える形になった。
ククルーは、背中の封筒を下ろした。
旅人は、息を止めかけた。
封筒が開く。
言葉が出る。
そう思った手が、胸の内側で動いた。
ククルーは、封筒を白い布の上には置かなかった。
低い台のさらに手前、石畳の上に、そっと置いた。
「ここですか」
旅人が聞くと、ククルーはうなずいた。
「言わなかった言葉は、入口の返事と同じ場所に置くと、入口の言葉になってしまうね」
「入口の言葉」
「うん。入るために必要だった、と読めてしまう言葉だね」
ククルーは封筒の口を少しだけ広げた。
中は見えない。
「これは、入るための言葉じゃないよ」
旅人は、うなずいた。
うなずくまでに、少し時間がかかった。
時間がかかったことを、誰も急がせなかった。
低い順番灯は、白い布、半円の返事、進みたい手箱、石畳の封筒を、それぞれ別の小さな影にした。影は重ならなかった。どれも入口へ向かっているように見えるのに、入口の鍵には見えなかった。
リオが、小さな札を一枚出した。
`入口前の返事場所`
札の文字は、すぐには光らなかった。
少し遅れて、端だけが淡く光った。
その端の光を、旅人はしばらく見ていた。
入口前の返事場所は、場所と呼ぶには小さい。
白い布の上、半円の返事の横、進みたい手箱の少し手前、石畳に置いた封筒の影の端。
それだけの寄り合いだった。
でも、寄り合いだからこそ、どれか一つが入口の役を引き受けずに済んでいる。
ミャオリンが、低い順番灯の影を指でなぞった。
「影が七つあるのに、入口は一つに見えるにゃ」
「一つに見えると、どの影が正しいか探したくなります」
リオは、順番灯のそばに薄い小石を置いた。
小石は光らない。
ただ、影の先が入口へ急ぎすぎないよう、足もとに小さな止まり目を作った。
`入口前の影を急がせない小石`
札を書くと、七つの影は短くなったわけではない。
ただ、同じ入口へ競う線には見えにくくなった。
旅人は、進みたい手箱の空を見た。
空だから入れたい。
軽いから持ち上げたい。
入口が近いから、置いていくのを惜しくなる。
ククルーは、その箱の横へ小さな布を一枚敷いた。
「箱の空に、底の影が見えているね」
「底の影」
「空を空のまま置くための影だね」
リオが書いた。
`進みたい手箱の底影`
箱の中身は増えなかった。
でも、空の底が見えると、空っぽを失敗にしなくてよくなった。
旅人は、入口へ行く前に箱を満たさなくていいのだと思った。
「完成ですか」
旅人が聞くと、リオは首を横に振った。
「完成ではありません。今、名前をつけても壊れにくい場所になっただけです」
ミャオリンが、入口を見た。
「入るかい」
その問いは、軽かった。
軽いから、すぐ答えたくなる。
旅人は、白い布の上の箱を見た。半円の返事を見た。石畳の封筒を見た。低い順番灯の影を見た。
そして、入口を見た。
入口は、まだ開いていない。
でも、閉じてもいない。
「入ります」
旅人は言った。
その声は、入るための鍵ではなかった。
白い布の上に置いた手が、入口へ向かうと決めた声だった。
ククルーは封筒を拾わなかった。
ミャオリンも半円の返事を包み直さなかった。
リオは順番灯を持ち上げなかった。
三つとも、入口前の返事場所に残った。
残したまま、進む。
旅人は、手ぶらになったわけではない。
箱を置いた手には、箱の重さがまだ残っている。半円を置いた目には、合わせたい形がまだ残っている。封筒を見た胸には、聞きたい言葉がまだ残っている。
残っているものを持ったまま、入口へ近づいた。
半円のくぼみの内側で、光がもう一度弱くなった。
今度は、弱くなった場所に、小さな空きができた。
入れるほど大きくはない。
でも、返事を置けるほどには、確かに空いていた。
旅人は、その空きを見た。
塔へ入る前に、塔が最初に作ったものは、答えの入口ではなかった。
返事の入口だった。
返事の入口、と言うと、それだけで少し安心したくなる。
答えの入口ではないなら、急いで入っても危なくない。
そう思いかけて、旅人は足を止めた。
安心も、時々、手を速くする。
リオは、入口前の返事場所に残した白い布の端を見た。
布の上には、進みたい手箱の重さの跡が少しだけ残っている。箱そのものは空なのに、置かれていた時間だけが布を低くしていた。
「跡も、入口になりたがります」
リオはそう言って、布の跡の横へ小さな針を置いた。
針と言っても、とがっていない。丸い先で布の目を押さえるだけの、やわらかい針だった。
`入口になりたがる跡を休ませる針`
針を置くと、箱の跡は消えなかった。
でも、入口の形には見えにくくなった。
ククルーが封筒を見て、少しだけ息を整えた。
「置いた跡は、置いたものより強く見えることがあるね」
旅人はうなずいた。
置いたものは、まだ見える。
でも、置いた跡は、何が置かれていたかを忘れたあとにも残る。
だから、跡ほど気をつけて見る必要がある。
ミャオリンは、半円の返事のくぼみへ雨粒が入りかけているのを見て、しっぽでそっと風を送った。
「雨粒がぴったり入ると、半円の意味が決まっちゃうにゃ」
リオはもう一枚、短い札を書いた。
`ぴったり入らない雨粒の縁`
雨粒は、くぼみの中へ落ちなかった。
縁で止まり、半円を満たさずに光った。
旅人は、その小さな光を見て、入口へ進むためには、満たさないものも必要なのだと思った。
その入口の足もとに、雨粒が一つだけ残っていた。
塔の中に入る前の雨粒なのに、石畳の上でまだ乾いていない。
旅人がかがむと、雨粒の中に白い布と半円の返事と封筒の角が、別々の小さな光として映っていた。
一つの像にはならない。
それぞれが、入口へ近づいた手のまま残っている。
リオは札を出しかけて、少し迷った。
「入口の記録、ですか」
「記録にすると、入る理由になりそうにゃ」
ミャオリンが言う。
ククルーは封筒を見たまま、低く続けた。
「雨粒なら、乾くまで待てるよ」
リオはうなずき、札に小さく書いた。
`入口前で乾ききらない雨粒`
札を雨粒のそばへ置くと、雨粒は光らなかった。
乾きもしない。
ただ、入口へ入る前の手が、すぐ過去にならないように残った。
旅人は、その雨粒を持っていかないことにした。
持っていかない。
でも、置き去りではない。
入口前に残るものがあるから、塔の中で見たものを入口の鍵にしなくてすむ。
「残して進むんですね」
旅人が言うと、ククルーは少し笑った。
「うん。置いたまま進む練習は、入口から始まっているね」
その言い方は、塔の中でずっと続いていく低い作法の、最初の音のようだった。




