第14巻 ここが旅の始点だった プロローグ 塔へ入る前の朝
ネオンシャの朝は、雨をやめなかった。
夜が明けても、細い色の線は空からまっすぐ落ちてこない。途中で横へ流れ、角を曲がり、濡れた看板の下で小さくほどける。水なら地面へ届くはずの場所で、信号は一度だけ止まり、誰かの返事を待つように明るさを弱めた。
旅人は、雨見台の低い縁に手を置いていた。
昨日の夜、ここから見えた記憶塔は、朝になっても同じ場所にあった。
同じ場所にある。
そのことだけで、まだ安心してはいけない。
ネオン雨の中では、同じ場所に見えるものほど、見た手が先に走る。塔がそこにあるなら、もう入ればいい。入れるなら、もう分かる。分かるなら、今まで言えなかったことも、きっと一つの言葉になる。
そう言いたくなる手を、旅人は `進みたい手箱` の中へ入れた。
箱は軽かった。
軽いからといって、手が弱いわけではない。
ミャオリンが、雨見台の下でしっぽを一度だけ振った。
「箱に入れたのに、ふたをしないんだね」
「ふたをすると、行かない手に見えそうだから」
旅人が答えると、ミャオリンは目を細めた。
「なるほどね。行きたい手を、行かない手にしない。いい置き方だ」
ククルーは、雨見台の反対側で、言わなかった言葉の封筒を前足で押さえていた。
封筒の口は開いている。
開いているのに、中の言葉は出てこない。
それを、旅人は急がせなかった。
昨日、記憶塔の手前に置いたものは、まだどれも片づいていない。始点未満の束。手前で聞き返す札。半円の返事。手前の棚(仮)。それらは、夜の濡れた光を少しだけ吸い、朝の下では昨日より低く見えた。
低く見えるものは、拾いやすい。
拾いやすいものほど、意味をつけやすい。
旅人は、束の結び目へ触れなかった。
「塔は、朝の方が近く見えるね」
ククルーが言った。
いつもの声だった。
けれど、いつもの声に戻った、と言ってはいけない。戻ったという言葉は、戻っていないところを隠すことがある。
旅人は、ククルーの鈴を見た。
鈴は鳴らなかった。
鳴らないことが答えではない。
鳴らないことを聞き落とさないだけでいい。
ミャオリンは、雨に濡れない低い紙を一枚出した。紙には、塔へ向かう道が描かれている。道はまっすぐではなかった。雨見台から記憶塔まで、何本もの細い線が伸び、途中で消え、また別の線に近づいている。
「道が多い」
旅人が言うと、ミャオリンは首を横に振った。
「多いんじゃない。多く見える朝なんだ」
「朝で変わるのですか」
「変わるよ。ネオンシャでは、夜に強く見えたものと、朝に残るものを分ける。昨日使った札があるだろう」
旅人は、 `夜が大きく見せたかもしれない札` を手前の棚(仮)から取り出した。
昨日の夜、塔は大きかった。
今朝も大きい。
でも、大きさが同じかどうかは、まだ分からない。
大きく見える理由が同じかどうかも、まだ分からない。
「塔へ行く前に、夜の塔と朝の塔を同じにしない」
旅人が言うと、ククルーは封筒から前足を離した。
「夜の塔と朝の塔を、同じにしないで見ているんだね。朝は、夜に見えたものを否定するためにあるわけじゃないよ」
「では、何のためにあるのですか」
ミャオリンが聞いた。
ククルーは、すぐには答えなかった。
その沈黙は、昨日の沈黙とは違っていた。昨日の沈黙は、雨に濡れて重くなっていた。今朝の沈黙は、まだ濡れているが、端が少し乾きはじめている。
「朝は、持っていける重さを量るためにあるんだ」
ククルーは言った。
ミャオリンが、ふうん、と小さく息を漏らした。
「案内役らしい言い方だね」
「案内役らしくない言い方もできるよ」
「聞こうじゃないか」
ククルーは、少しだけ胸を張った。
「朝は、荷物を持ったまま転ばないためにあるんだ」
ミャオリンは笑った。
旅人も、少し笑った。
笑えたことを、旅人は答えにしなかった。笑ったから、もう怖くない。そういうことではない。笑いは、怖さが消えた印ではなく、怖い手を床へ置くための短い場所になる。
雨見台の横で、リオが順番灯を低くした。
夜に使ったものより、さらに低い。
膝の高さにも届かない。足もとの石と同じくらいの場所で、灯りは丸く広がっている。
「塔へ行く道の灯りですか」
旅人が聞くと、リオは道の紙を見ずに首を振った。
「道の灯りではありません。道へ行く前の手の灯りです」
リオは、三つの道具を台の上へ並べた。
消すように見える刷毛。
流すように見える管。
遅らせるように見える棒。
そして、その横に、昨日から使わなかった刷毛を掛けたままの仮置きの金具があった。
「まだ使わないのですか」
旅人が聞くと、リオはうなずいた。
「使わなかったことを、使わなかったまま持っていきます。塔の前では、使えるものほど、使ったことにしたくなるので」
ミャオリンが、しっぽで金具の影を指した。
「塔の中へ入ったら、消したいものが出るかもしれない。流したいものも、遅らせたいものも、きっと出る。だから、入る前に、使わなかった道具の形を覚えておく」
「使わない形を」
旅人は、手を見た。
手は、もう塔へ向かいたがっている。
その手を責める必要はない。
塔へ向かいたいから、この朝まで来た。
ただ、向かいたい手があることと、すぐ入ることは同じではない。
旅人は、進みたい手箱を低い順番灯の横へ移した。
箱の中には、まだ何も書かれていない。
何も書かれていないのに、そこには確かに重さがあった。
「書かないのですか」
リオが聞いた。
「まだ」
旅人は答えた。
「書くとしたら、塔を見たあとではなく、塔へ入る前に書きます」
ククルーの耳が、小さく動いた。
ミャオリンは目を細めたまま、何も言わなかった。
その何も言わない場所へ、ネオン雨の音が入ってきた。雨ではない。信号でもない。まだその二つのどちらでもない音が、台の下を通り、手前線のところで一度だけ弱くなった。
手前線。
昨日は、そこで止まった。
今日は、そこから始まる。
止まれた場所を踏み越えるのではない。
止まれた場所を持って、進む。
旅人は、手前線の前に立った。
塔は、遠くにある。
遠いのに、朝の雨の中では、すぐそこに見える。
「行きます」
旅人は言った。
ククルーは、封筒をくわえなかった。前足で押さえもしなかった。ただ、封筒の口が開いたままであることを、旅人の見える場所へ置いた。
「はい」
ククルーは言った。
「行こう。入る前に、もう一度止まれるように」
ミャオリンが、道の紙をたたんだ。
たたまれた紙は、地図ではなくなった。
けれど、道が消えたわけではない。
リオは、低い順番灯を持ち上げず、足もとで光らせたまま歩き出した。灯りは先を照らさない。歩き出す手の影だけを、短く、見えるようにした。
旅人は、進みたい手箱を抱えた。
ククルーは、言わなかった言葉の封筒を背負った。
ミャオリンは、手前の棚(仮)から半円の返事だけを抜き取り、雨に濡れない布へ包んだ。
朝のネオン雨は、まだやまない。
やまないまま、道を開けた。




