第13巻 ネオン雨の情報屋 第8章 遅らせる棚
前後を待つ木枠に薄い布をかけたまま、ミャオリンは奥の棚へ手を伸ばした。
棚の奥には、情報屋で初めて見た四枚の木札があった。
`知らせる`
`隠す`
`遅らせる`
`返事待ち`
四枚は、前に見た時より少し低い位置へ移されている。見上げる棚ではない。手を伸ばせば届くが、伸ばす前に一拍置きたくなる高さだった。
「今日は、名前だけじゃなくて、置く」
ミャオリンは四枚の前に、それぞれ浅い箱を置いた。
知らせる箱は、明るい木でできている。
隠す箱は、暗い色ではなかった。内側に薄い布がかかっていて、外から中身がすぐ見えないだけだった。
遅らせる箱は、底が二重になっている。紙を入れると、すぐ下へ落ちず、途中の段で一度止まる。
返事待ちの箱は、いちばん空いていた。箱というより、小さな席に近い。
ネジリが、隠す箱を見て眉を寄せた。
「隠す箱は、使うのが少し怖いです」
「怖くていい」
ミャオリンは言った。
「怖くない隠す箱は、たぶん便利すぎる。便利すぎると、何でもそこへ入れたくなる」
旅人は、切り抜かれた声の木枠を見た。
`って`
`ここ`
`て、い`
聞こえた音は短い。
短いから、知らせたくなる。誰かが困っているかもしれないから。
短いから、隠したくなる。間違って広がるかもしれないから。
短いから、遅らせたくなる。前後がまだないから。
短いから、返事を待ちたくなる。声を出した人が、まだ返せる場所を持っていないかもしれないから。
どの手も、少しずつ本当だった。
旅人はそう思った。
「どれか一つではない」
そう言うと、ミャオリンはうなずいた。
「そう。だけど、置く時は一枚ずつ置く。全部同じ箱へ入れると、あとで何を怖がったのか分からなくなる」
教授が、`助けたい手` の札を持ち上げた。
「これは、知らせる箱でしょうか」
「かもしれない。でも、助けたい手がすぐ知らせる箱へ入ると、声より先に助けたい人が届く」
教授は札を戻した。
「助けたい人が届く」
「うん。届くと、声の前後の席を取ることがある」
ミャオリンは返事待ちの箱を指した。
「だから、その札は一度ここ」
教授は、`助けたい手` を返事待ちの箱へ置いた。
箱の底は光らない。
ただ、札が斜めにならず、まっすぐ座った。
ネジリは、`誰かを探したい手` を持っている。
「これは、どこですか」
ミャオリンはすぐ答えない。
「自分では、どこへ入れたい?」
「知らせる箱です。探したいので」
「うん」
「でも、探す人を間違えたら、困ります」
「うん」
「隠したくはありません」
「うん」
「遅らせると、助けるのが遅くなります」
ネジリの声が小さくなる。
「それも、怖いです」
ミャオリンは、遅らせる箱の二重の底を指で軽く叩いた。
「遅らせる箱は、痛みがある。遅らせた分だけ、助けたい手がここで待つから」
ネジリは札を握ったまま、しばらく黙った。
旅人は、その黙りを急がせない。
ククルーも急がせなかった。
やがてネジリは、`誰かを探したい手` を遅らせる箱へ置いた。
「探したい手を、なくしたくないです」
「なくならない」
ミャオリンは言った。
「遅らせる箱は、なくす箱じゃない。待っている間に、返事の場所を作る箱」
ククルーの鈴が、かすかに鳴った。
今度は遅れない。
でも、鳴ったあとに短い沈黙が残る。
旅人はそれを聞いたが、秘密の音にはしない。
ミャオリンは、聞こえた音の皿から `ぼ` の札を持ち上げた。
「これは、どこへ置きたい?」
部屋が静かになった。
ネジリはククルーを見ないように、足型の板を見ている。
教授は、眼鏡の位置を直した。
旅人は、ククルーを見た。
見る前の目ではなく、今は見た。
ククルーは逃げなかった。
「ぼ、という音は、ぼくに似ています」
自分で言った。
その声はやさしいが、少し硬い。
「でも、ぼくのものとはまだ言えません」
ミャオリンはうなずいた。
「じゃあ、本人未満札を出す?」
ククルーは首を横に振った。
「今日は、まだ早いと思います」
旅人も同じだった。
本人未満札は強い。
強い札は、安心を作る。
今は、安心の前に、似ている音を似ている音のまま置く場所がいる。
旅人は札を書いた。
`ぼ、という音はククルーに似ていると思った`
それを、思いついた言葉の皿ではなく、返事待ちの箱の横へ置いた。
「横?」
ミャオリンが聞く。
「箱に入れる前」
「いい」
ミャオリンは、返事待ちの箱の横に小さな脇皿を出した。
「箱に入れる前の皿。必要だね」
その脇皿は、まだ名前がない。
名前を付けると便利になる。
便利になると、また早くなる。
だから名前はまだ付けない。
外から、切り抜かれた声の余韻がまた流れた。
「……ここ……って……」
前よりは静かだった。
でも、聞こえる。
ミャオリンは遅い封筒を一本取り出し、遅らせる箱の上に置いた。
「この声は、今すぐ広げない。隠さない。消さない。遅らせる」
ネジリが息をのむ。
ミャオリンは続けた。
「ただし、遅らせるだけだと、閉じる。だから返事待ち回線を開ける」
棚の下から、細い糸のような線が出てきた。
糸は光っていない。けれど、手を近づけると、置く場所があると分かる。声を出した誰かが、あとで聞き返せるようにするための、空の線。
「返事待ち回線」
教授が言う。
ミャオリンはうなずいた。
「完成した回線じゃない。今日は入口だけ」
旅人は、切り抜かれた声の木枠から、`まだない前後` の空の札を持ち上げた。
空の札を、返事待ち回線の入口へ置く。
声の前後が戻ってきたら、ここへ置けるように。
戻ってこなくても、戻ってこないことをここへ置けるように。
ククルーが、小さく言った。
「戻ってこない時にも、席があるのは助かるよ」
その言葉は、誰かへ向けたものではなかった。
それでも、部屋の中の全員に届いた。
旅人は札を書いた。
`戻ってこない時にも席がある、と聞いた`
その札を、返事待ちの箱へ置く。
箱は、ほんの少しだけ低く沈んだ。
沈んだのではなく、座ったのかもしれない。
ミャオリンは、遅い封筒を閉じなかった。
封筒の口を開けたまま、遅らせる箱の上に置く。
「閉じないのですか」
ネジリが聞く。
「閉じると、もう中だと思う。今日は、入れたけど閉じない。前後が戻る場所と、返事を待つ場所が見えるように」
遅らせる痛みは、まだそこにある。
助けたい手は待っている。
探したい手も待っている。
でも、それらは隠されていない。
隠す箱は、今も使われていない。
使われていないが、棚から消えてはいない。
旅人は隠す箱を見た。
「隠す箱は、今日は使わない?」
ミャオリンは少し考えた。
「使わない。だけど、置いておく。隠したい手がなかったことになると、あとで棚の裏に回る」
旅人は札を書いた。
`隠したい手も、棚に見える`
それを、隠す箱の前へ置く。
ミャオリンは、その札を見て、ほんの少し目を伏せた。
「それ、いいね」
声が軽くなかった。
旅人は、ミャオリンが何か古いことを思ったのだと感じた。
感じたが、過去とは書かない。
`ミャオリンが少し重く言った`
それだけを書く。
ミャオリンは札を見て、笑わなかった。
「それでいい」
遅らせる棚は、部屋を暗くしなかった。
むしろ、部屋の中にいくつもの低い場所を作った。知らせる箱、隠す箱、遅らせる箱、返事待ちの箱。走る前の足板。前後を待つ木枠。白い皿。席を空ける布。
低い場所が増えるほど、声は高いところへ飛びにくくなった。
旅人は、切り抜かれた声をもう一度聞いた。
「……ここ……って……」
今度は、助けを求める声にも、案内の声にも、間違って切れた掲示の声にも聞こえた。
どれにも決まらない。
決まらないまま、置ける。
ミャオリンは、返事待ち回線の入口に小さな輪を掛けた。
「次は、これを持って過去らしき映像を見る。声だけでは足りなかった前後が、映像に混ざって見えるかもしれない」
「映像で分かるのですか」
ネジリが聞く。
「分かるかもしれない、は速い」
ミャオリンはいつもの調子で言った。
「映像も、同じように置く。見えたものは、証明じゃない。声の前後かもしれないし、別の反射かもしれない」
ククルーは、返事待ち回線を見ていた。
「それでも、見に行くんだね」
「行く」
ミャオリンは言った。
「遅らせるのは、行かないことじゃない。行く前に、返ってこられる場所を作ること」
旅人は、その言葉を札にした。
`行く前に、返ってこられる場所を作る`
その札を、遅らせる箱と返事待ちの箱の間へ置く。
そこに置くと、二つの箱は少しだけ同じ方向を向いたように見えた。
外のネオン雨は、まだ声の端を細く光らせている。
情報屋の中では、閉じない遅い封筒が、声を隠さないまま、次の映像を待っていた。
ミャオリンは、まだ歩き出さなかった。
返事待ち回線の入口に掛けた小さな輪を、指先でそっと回す。
輪は、くるくるとは回らない。
半分だけ回って、戻る。
また半分だけ回って、戻る。
「壊れているのですか」
ネジリが聞いた。
「壊れてない。これは半返事輪」
ミャオリンは、輪の端を見せた。
端には小さな切れ目があった。切れ目は欠けではない。そこから糸を通すような細さで、返事の前の息が抜ける。
「返事は、来るか来ないかだけじゃない。半分だけ来ることがある。途中で止まることもある。言葉になる前の息だけ来ることもある」
ククルーの耳が動いた。
旅人は、それを見た。
見たが、札にしなかった。
ミャオリンは、輪を回しながら続ける。
「その時、こっちが全部にしてしまうと、返事を奪う。半分だけ来たものは、半分のまま置ける場所がいる」
教授が、低い声で言った。
「未完了を未完了として保存する」
「そう。でも保存と言うと、少し固い」
ミャオリンは、半返事輪を返事待ち回線の入口へ戻した。
「ここでは、乾かさない。濡れたまま置く」
旅人は、札を書いた。
`半分だけ来た返事`
もう一枚。
`濡れたまま置く`
その二枚を、返事待ちの箱の手前へ置く。
ネジリが、少し困った顔をした。
「半分だけ来た返事は、待てば全部になりますか」
ミャオリンは首を横に振った。
「なる時もある。ならない時もある。ならないまま、大事な時もある」
「大事なのに、全部ではないのですか」
「大事だから、全部にしない」
その言葉で、部屋の空気が少し静かになった。
旅人は、ククルーの方を見そうになって、やめた。
見たい手を、手元に置く。
`見たい手`
その札を、半分だけ来た返事の横へ置く。
ククルーは、見られていないのに気づいたように、旅人の手元を見た。
「見たい手を置いてくれて、ありがとう」
声は小さかった。
でも、返事として全部ではない。
旅人は、その声を全部にしない。
`ありがとう、と聞いた`
それだけを書く。
ミャオリンは、知らせる箱の上に置いていた木札を少しだけ後ろへ下げた。
「知らせる箱も、今日は休ませる。知らせることは悪くない。でも、知らせる箱が前へ出すぎると、ほかの箱が仕事をしにくい」
リオは順番灯を低くした。
「箱にも順番がある?」
「あるように見える時がある。でも、順番を決めると、また速くなる」
ミャオリンは、四つの箱の間に、細い雨色の糸を一本置いた。
糸は、どの箱にも結ばれていない。
ただ、箱と箱の間に置かれている。
「間糸。知らせる、隠す、遅らせる、返事待ち。その間にある手を落とさないための糸」
旅人は、間糸を見て、さっきの声を思い出した。
「……ここ……って……」
それは知らせる声かもしれない。
隠れた声かもしれない。
遅れて届いた声かもしれない。
返事を待っている声かもしれない。
どれか一つに入れれば、少し楽になる。
でも、その楽さが、声の席を奪うかもしれない。
旅人は札を書いた。
`どれか一つに入れたい手`
それを間糸のそばへ置く。
ミャオリンは、ふっと笑った。
「いいね。箱より先に、間が増えた」
「間が増えると、迷いませんか」
ネジリが聞いた。
「迷う」
ミャオリンはあっさり答えた。
「でも、迷ったことをなかったことにして届く情報より、迷ったまま置ける情報の方が、あとで誰かが入りやすい」
ククルーは、半返事輪を見ていた。
鈴は鳴らない。
鳴らないことを、旅人は沈黙にしない。
沈黙という言葉も、時々速い。
ただ、鈴のそばの雨粒が一つ、長く残ったことだけを見る。
ミャオリンは、遅い封筒の口をもう一度確かめた。
「次の映像を見に行く前に、ここへ戻る手順を決める」
「手順?」
「戻れなくなってから戻る場所を探すのは、少し遅い。だから先に置く」
ミャオリンは、小さな紙を三枚出した。
一枚目。
`見たら戻る`
二枚目。
`似ていたら戻る`
三枚目。
`分かった気がしたら戻る`
旅人は、三枚目を長く見た。
分かった気がしたら戻る。
それは、分からなくなったら戻る、より難しい。
分かった気がする時、足は前へ行きたがる。
ミャオリンは言った。
「一番危ないのは、分からない時じゃない。分かった気がした時」
教授が静かにうなずいた。
「仮説が快い時ですね」
旅人は、飛空艇で通った仮説の空を思い出した。
快い仮説。
見晴らしのいい言葉。
上からなら全部分かると言いたくなる手。
ここでも、同じ手が動く。
旅人は三枚の紙の下へ、自分の札を置いた。
`分かった気がしたら戻る`
同じ言葉を写しただけだ。
でも、自分の字で書くと、少し重くなった。
その重さが、歩く時の足もとになる。
ミャオリンは、ようやくうなずいた。
「これで行ける」
「やっと行けるのですね」
ネジリはほっとしたように言った。
「うん。遅いだろう」
「遅いです。でも、置く場所が増えました」
「それなら十分」
ミャオリンは、返事待ち回線の入口をそっと持ち上げた。
情報屋の中には、半返事輪、間糸、三枚の戻る紙が残った。
閉じない遅い封筒は、まだ声を隠さない。
ただ、声のまわりに、急いで分かったことにしない場所が増えていた。




