第13巻 ネオン雨の情報屋 第7章 切り抜かれた声
最初に変わったのは、情報屋の外の音だった。
ネオン雨は、いつものように短く光っている。信号のように、雨のように、どちらとも言い切れないまま窓の外を流れている。
けれど、その中に一つ、短すぎる声が混ざった。
「……って」
それだけだった。
待って。
持って。
知って。
言って。
続きはいくつも思いつく。思いつくたび、声は別の顔を持ちそうになる。
ネジリが立ち上がった。
「今の、誰かが困っています」
ミャオリンはすぐには答えない。
ククルーも答えない。
窓の外で、ネオン雨が一度だけ白く光った。
その白さの中に、声の切れ端がもう一つ混ざる。
「……こ……」
今度は、それだけだった。
ここ。
向こう。
困る。
来ないで。
言葉は、またいくつも出てきそうになる。
ネジリは、立ったまま唇を結んだ。
すぐ走りたい手が、足元まで来ている。
旅人にも分かった。
走る前に、前後がいる。
でも、前後を待つことが、声を見捨てることのように思える。
旅人は、走る前の足板を引き寄せた。
足を乗せるための板ではない。
足が走り出す前に、走りたい手だけを置く板。
旅人は札を書く。
`走りたい手`
ネジリも、すぐに札を書く。
`助けたい手`
教授は、眉を寄せてから書いた。
`状況を説明したい手`
ククルーは、少し遅れて、何も書かない札を一枚出した。
白い札。
文字はない。
旅人が見ると、ククルーは言った。
「言葉が先に出ない手だね」
ミャオリンは、四枚の札を足板の上へ並べた。
「よし。走る前の足が見えた」
「それで、どうしますか」
ネジリの声は震えていた。
怒っているのではない。
待つのが苦しいのだ。
ミャオリンは、前後を待つ木枠を棚から出した。
木枠には、右と左に小さな溝がある。
真ん中は空いている。
「声を真ん中に入れない。真ん中に入れると、声が主役になりすぎる。今日は、前と後ろを待つ」
「前と後ろが来なかったら?」
「来なかったことを置く」
ミャオリンは、左の溝へ小札を差した。
`前`
右の溝へ、もう一枚。
`後`
真ん中には何も置かない。
そこへ、声を入れたくなる。
旅人は、真ん中を見ないようにして、耳だけを窓へ向けた。
また、声が来る。
「……って……こ……」
二つの切れ端が、少しだけ近づいた。
待って、ここ。
持ってこい。
知って、ここ。
言って、これ。
どれにも聞こえそうだった。
ネジリは足板の上の `助けたい手` を押さえた。
「いくつにも聞こえます」
「いくつにも聞こえる時は、いくつにも聞こえたと置く」
ミャオリンが言った。
旅人は札を書いた。
`いくつにも聞こえた`
それを、前後を待つ木枠の下へ置く。
教授は、続けて書く。
`一つにしたくなった`
その札は、旅人の札の隣へ置かれた。
ククルーの白い札は、まだ何も書かれていない。
でも、その白さがあることで、部屋の中の音が少し低くなった。
ミャオリンは、窓を開けない。
窓を閉じもしない。
半分だけ開けたまま、声が部屋へ入りすぎないよう、薄い布をかけた。
「聞こえた音の皿を出す」
皿は、小さい。
聞こえたものを全部置くには足りなさそうに見える。
だから、全部置かなくてよいのだと分かった。
旅人は、聞こえた音を三つだけ書いた。
`って`
`こ`
`間に雨音`
三つ目を書いた時、ククルーが少しだけ顔を上げた。
「間に雨音」
「聞こえた」
旅人が言うと、ククルーはうなずいた。
「それを入れてくれて、助かるよ」
声だけを聞くと、声が大きくなる。
雨音も聞くと、声が置かれていた場所が少し見える。
旅人は、そのことを説明しない。
ただ、聞こえた音の皿に三枚の札を置く。
皿はいっぱいにならなかった。
いっぱいにしないことが、今は大事だった。
情報屋の棚に置かれた白い皿と席を空ける布が、同じ部屋で静かに待っている。
旅人は、立ち上がりたい手を感じた。
走って外へ出たい。
声の続きが流れる場所へ行きたい。
誰の声か確かめたい。
どれも、速い。
旅人は丸布の手前に札を置いた。
`声へ走りたい手`
ネジリはその札を見て、胸の前で両手を握った。
「走りたいです」
「走りたい時は、走る前の足を見る」
ミャオリンは低い棚から小さな黒い足型の板を取り出した。板には文字がない。けれど、足の先だけが少し濡れたように光っている。
「走る前の足板」
「止める板ですか」
ネジリが聞く。
「止めるだけなら、足が怒る。これは、足がどこへ行きたがっているか見る板」
旅人は、足型の板の上に札を移した。
`声へ走りたい手`
板は光らない。
ただ、置かれた札の角だけが少し落ち着いた。
その時、外からまた声が流れた。
「……ここ……」
今度は、少し長い。
ここ。
ここに。
ここまで。
ここではない。
ミャオリンは、壁の棚から細い木枠を下ろした。
木枠の中には何もない。絵も、紙も、糸もない。ただ、四辺だけがあり、真ん中が空いている。
「前後を待つ棚を出す」
棚と言いながら、木枠は棚より窓に近い。
ミャオリンはそれを、白い皿と席を空ける布の間に立てかけた。
「声は、前だけでも後ろだけでも転ぶ。切り抜かれた声は、走る足を作りやすい」
教授がうなずいた。
「声が短いほど、助けたい手が速くなる」
「そう」
ミャオリンは教授を見た。
「助けたい手も置く」
教授は少しだけ驚いた顔をし、それから札を書いた。
`助けたい手`
ネジリもすぐ書く。
`誰かを探したい手`
旅人は、その横にもう一枚置いた。
`声の持ち主を決めたい手`
ククルーの鈴が、鳴らないまま少し揺れた。
旅人はそれを見る。
見るだけにする。
今、鈴のことを書くと、声と混ざる気がした。
外の声は、三度目に少し違う高さで流れた。
「……て、い……」
ミャオリンが目を細める。
リオの声が、外から低く届いた。
「外縁信号の端にも乗っている。まだ流さない方がいい」
「了解」
ミャオリンは返事をしたが、外へは出ない。
「出ないのですか」
ネジリが言う。
「出る前に、聞いたものを置く」
ミャオリンは木枠の下に、細い皿を三枚並べた。
一枚目には、`聞こえた音`。
二枚目には、`思いついた言葉`。
三枚目には、`まだない前後`。
「まず、分ける」
旅人は、聞こえた音の皿へ札を置いた。
`って`
`ここ`
`て、い`
思いついた言葉の皿へは、別の札を置く。
`待って、と思った`
`ここに、と思った`
`言って、と思った`
そして、まだない前後の皿へ、空の札を置いた。
何も書かない札。
空白ではなく、まだない場所としての札。
ククルーは、その三枚の皿をじっと見ていた。
「声は、短いほど、こちらの言葉で満ちやすいね」
声は案内役の声だった。
けれど、いつもの説明ではない。
自分へ言い聞かせているようにも聞こえた。
旅人は、その言葉をどこへ置くか迷った。
聞こえた音ではない。
思いついた言葉でもない。
まだない前後でもない。
ミャオリンが、そっと四枚目の小皿を出した。
`近くで聞いた人の言葉`
旅人はそこへ札を書いた。
`短いほど、こちらの言葉で満ちやすい、と聞いた`
ククルーは少し目を伏せた。
「それなら、そこへ置けるね」
外では、声がまた流れた。
「……ぼ……」
一音だけ。
ぼ。
ぼく。
ぼうし。
ぼんやり。
ぼ、という音は、ククルーのいつもの一人称に近すぎた。
ネジリがククルーを見そうになった。
旅人も見そうになった。
ククルーは、それに気づいた顔をした。
気づいたが、何も言わない。
旅人は、見る前の目を足型の板の横へ置くように、視線を下げた。
札を書く。
`ククルーを見そうになった`
ミャオリンは、その札を見て、うなずいた。
「大事。見そうになった、は、見たより前に置ける」
ネジリも小さな札を書いた。
`ククルーが答えを持っていると思いそうになった`
書いてから、慌てて顔を上げる。
「ごめんね」
ククルーは首を横に振った。
「謝らなくていいよ。思いそうになった手は、置けるからね」
その声は少し濡れていた。
でも、前より揺れていない。
ミャオリンは遅い封筒に手をかけた。
また、すぐには使わない。
封筒の上に指を置いただけで、木枠を見た。
「この声を遅らせるか、まだ決めない」
「遅らせないのですか」
教授が聞く。
「遅らせると、守れることがある。遅らせると、探しにくくなることもある。だから先に、切り抜かれていることを見える場所へ置く」
ミャオリンは木枠の上へ、大きめの札を立てた。
`切り抜かれた声`
その札を立てた瞬間、外の声が少し遠くなった。
遠くなったというより、こちらの耳が前へ出すぎなくなった。
旅人は、その変化を感じた。
感じたが、すぐには安心にしない。
`少し遠くなったように聞こえた`
それだけを書いて、聞こえた音の皿ではなく、近くで聞いた人の言葉の隣へ置く。
リオが外から言った。
「声の端、外縁の低い台にも来てる。今は台が受けてる」
ミャオリンは小さく笑った。
「低い台、仕事してるね」
「商売にはならない」
リオの返事に、情報屋の中が少しだけゆるんだ。
ククルーも、ほんの少し笑った。
その笑いが戻ったからといって、動揺が消えたわけではない。
旅人は、それを知っている。
濡れた沈黙は、席を空ける布の上にまだある。
でも、そこへ切り抜かれた声が重なりすぎないように、木枠が間に立っている。
「次はどうしますか」
ネジリが聞いた。
声はまだ心配そうだが、走り出す前の足は板の上にある。
ミャオリンは三枚の皿を見た。
「今日は、持ち主を探さない。前後を集める前に、持ち主を決めると、声がその人のものになってしまう」
「声は、その人のものではないのですか」
「かもしれない。でも、切り抜かれた状態では、まだその人へ返せない」
ミャオリンは、まだない前後の皿に置かれた空の札を指した。
「ここがない」
旅人は、その空の札を見た。
そこには何も書かれていない。
でも、何もないわけではない。
これから戻ってくるかもしれない前。
これから聞けるかもしれない後。
その両方の席だった。
ククルーが、静かに言った。
「声を返すには、声だけでは足りない」
ミャオリンは、今度は何も言わなかった。
言わないまま、遅い封筒から手を離す。
旅人は札を書いた。
`声を返すには、声だけでは足りない、と聞いた`
その札を、前後を待つ木枠の下へ置く。
外の声は、最後にもう一度だけ流れた。
「……ここ……って……」
今までの音が少しつながった。
つながったように聞こえた。
けれど、つながったからといって、意味が決まるわけではない。
ネジリは、足型の板を見てから、ゆっくり息を吐いた。
「走らないで、聞こえました」
「うん」
ミャオリンは木枠を少しだけ低くした。
「走らないで聞こえたものは、助けないことじゃない。助ける前の場所を作っただけ」
旅人は、三枚の皿と四枚目の小皿を見た。
`聞こえた音`
`思いついた言葉`
`まだない前後`
`近くで聞いた人の言葉`
そこに、声は分けて置かれている。
誰の声かは、まだ分からない。
何を頼んでいるのかも、まだ分からない。
それでも、声は消えていない。
消えていないから、急がなくてもよい。
ミャオリンは前後を待つ木枠の上に薄い布をかけた。
「今日はここまで。次は、この棚の前で、知らせる、隠す、遅らせる、返事待ちをもう少しちゃんと分ける」
「遅らせる棚ですね」
教授が言う。
ミャオリンはうなずいた。
「そう。切り抜かれた声を、隠す棚へ入れないためにもね」
ククルーは、白い皿、席を空ける布、前後を待つ木枠を順に見た。
「部屋が、少し狭くなりました」
「狭い?」
ネジリが不安そうに聞く。
ククルーはやさしく笑った。
「はい。でも、急いで走り出さないくらいの狭さです」
ミャオリンは、満足そうにしっぽを揺らした。
「いい部屋だ」
外ではネオン雨が、切り抜かれた声の余韻を、すぐ遠くへ流さずに細く光らせていた。
情報屋の中では、走る前の足板が、まだ低いまま置かれていた。




