第13巻 ネオン雨の情報屋 第6章 ククルーの濡れた沈黙
情報屋へ戻る道で、雨音が変わった。
強くなったわけではない。
細くなったわけでもない。
同じ雨の中に、ほんの少しだけ、音の縁が遅れている場所があった。
旅人は最初、それを外縁の信号の残りだと思った。さっき見た丸い灯りの青、白、桃色、緑の順番が、耳の奥でまだ回っているのだと思った。
でも、ククルーが立ち止まった。
それで、雨音ではないと分かった。
ククルーの鈴だった。
鈴は鳴っていない。
鳴っていないのに、雨粒が石へ当たったあと、鈴の形をした小さな空きだけが残る。音ではなく、音が出る前の場所。そこへ雨が触れて、濡れたように見える。
ネジリが口を開きかけた。
ミャオリンが、そっと片手を上げた。
「少し待って」
声は小さかった。
リオは低い台のそばに残っていた。そこから旅人たちの方を見たが、近づいてはこない。近づかないまま、信号札のついた髪を一つ押さえた。
ククルーは、道の真ん中ではなく、壁ぎわへ半歩寄った。
いつものククルーなら、旅人たちが歩きやすいように先に立つ。今日は先に立たない。横にも来ない。壁ぎわで、雨に濡れないはずの毛先を少しだけ濡れたように見せている。
旅人は、声をかけたかった。
大丈夫、と聞きたかった。
何を思い出したのか、と聞きたかった。
けれど、その問いは速い。
速い問いは、返事の場所を先に取る。
旅人は地面を見た。
外縁の低い台は後ろにある。情報屋の丸布は前にある。どちらにも、今すぐ戻れる。
でも、ククルーの足もとには、何もない。
旅人は小札を一枚出した。
`聞きたい手`
それを、ククルーへ差し出さず、自分の足もとに置く。
ミャオリンが、かすかに息を吐いた。
「いい場所」
ククルーは札を見た。
それから、旅人を見た。
「ありがとう」
声は、雨より少し低かった。
その低さが、旅人の胸に残る。
胸に残ったからといって、理由が分かったわけではない。
旅人はもう一枚札を書いた。
`理由はまだ聞かない`
ネジリが、それを見て両手を握った。
「でも、心配です」
「心配も置く」
旅人が言うと、ネジリは目を丸くした。
旅人自身も、自分の声に少し驚いた。
心配をしまうのではない。
心配を消すのでもない。
置く。
ネジリは小さな札を出し、少し迷ってから書いた。
`心配な手`
教授はその横に、別の札を置いた。
`説明したくなる手`
ミャオリンは三枚の札を見て、鞄から薄い灰色の布を出した。
布は雨を吸わない。けれど、雨の色だけを受けて、端が濡れているように光る。
「席を空ける布」
ミャオリンは言った。
「座るための席じゃない。今、言葉が座らないための席」
旅人はその布を、道の端に敷いた。
そこへ、三枚の札を置く。
`聞きたい手`
`心配な手`
`説明したくなる手`
布の上で、札はどれもククルーへ近づかなかった。
ククルーは、少しだけ肩を下ろした。
「ぼくは、ここで止まった方がよさそうです」
「止まる、ではなく」
ミャオリンが言いかけて、口を閉じた。
言い直そうとして、また閉じる。
旅人はミャオリンを見た。
ミャオリンの目は、ククルーではなく、自分の鞄の遅い封筒を見ていた。
「言いかけた手」
旅人が小さく言うと、ミャオリンは少し笑った。
「置いてくれる?」
旅人は札に書いた。
`ミャオリンが言いかけた手`
ミャオリンはその札を受け取らず、席を空ける布の端へ置かせた。
「あたしの手だから、あたしが持つべきかもしれない。でも、今持つと、言葉が出る」
「出してはいけない言葉ですか」
ネジリが聞いた。
ミャオリンは首を横に振った。
「いけない、じゃない。席がまだない」
ククルーの鈴が、今度は小さく鳴った。
鳴ったあと、雨音が遅れて鈴に追いついた。
先に鈴。
あとから雨。
さっきとは順番が逆だった。
旅人はそれを見た。聞いた。けれど、札にはしない。
札にすると、順番が答えになりそうだった。
ククルーは、壁に近い場所で目を閉じた。
「ネオン雨は、たくさん知っているね」
それだけ言った。
よく知っている。
その言葉の後ろに、たくさんの場所がありそうだった。
古い掲示板の匂い。
反射ログの小路。
白い皿。
サイバリアにつながっている外縁の信号。
どれも言葉の後ろへ集まりそうになる。
旅人は息を吸い、集まりそうなものを、一つずつ離した。
`たくさん知っているね、と聞いた`
その札だけを書く。
ククルーは目を開けた。
「そこまで見えているね」
「十分?」
ネジリが聞き返す。
「うん。そこまで見えているね」
ククルーはいつものように笑おうとした。
笑顔はできた。
でも、目の奥に雨が残っている。
濡れた沈黙。
旅人はその言葉を思いついた。
よく似合う言葉だった。
似合いすぎる言葉だった。
だから、すぐには書かない。
ミャオリンが遅い封筒を一本取り出した。
封筒の端は光っていない。けれど、紙の厚みが、さっきより少し増したように見える。
「これ、使う?」
旅人はククルーを見た。
ククルーは封筒を見て、それから旅人を見る。
「ぼくのために使うなら、今日は使わないでね」
はっきりした声だった。
そのはっきりさが、逆に静かだった。
ミャオリンは遅い封筒を下ろした。
「了解。使わない」
「使わないのですか」
ネジリが言う。
「使えるものを使わない時もある」
ミャオリンは封筒を鞄へ戻さず、席を空ける布の横に置いた。
「使わない封筒。今は、それで仕事をする」
教授がうなずいた。
「使わないことを見える場所へ置くのですね」
「そう。使わないことが見えないと、あとで、使えなかったことに変わる」
旅人は札を書いた。
`使わない封筒`
それを、遅い封筒の横へ置く。
ククルーは少しだけ笑った。
今度の笑顔は、さっきより軽い。
「使わない封筒も、ここに置けるんだね」
「商売にはならないけどね」
ミャオリンが言うと、ククルーは小さく首を振った。
「信頼にはなるかもしれないね」
それは、前にミャオリンが言った言葉に近かった。
ミャオリンは一瞬だけ目を伏せた。
それから、いつもの調子へ戻る。
「言ったこと、返ってきたね」
「返事ですか」
ネジリが聞く。
「返事に見える。返事とはまだ決めない」
旅人は少し笑った。
その笑いは、雨の中で小さく温かかった。
リオが遠くから、低い台を指でとん、と叩いた。
「戻れる外側は、まだ置いてあるよ」
ククルーはその音へ顔を向けた。
「ありがとう」
リオはそれ以上近づかない。
近づかないことも、席を空けることなのだと、旅人は思った。
情報屋へ戻るまでの道は、さっきよりゆっくりだった。
ミャオリンは先頭に立たない。ククルーも先頭に立たない。旅人も急がない。ネジリは何度も口を開きかけて、そのたび席を空ける布の上の札を見た。
情報屋の濡れた看板が見えた時、ククルーの鈴はもう鳴っていなかった。
鳴っていないが、消えたわけではない。
旅人はそれを、今度も札にしない。
情報屋の中へ戻ると、白い皿は丸布の中央に置かれたままだった。
切れた映像片の札も、三つの線の札も、動いていない。
旅人は、その横に席を空ける布を敷いた。
`聞きたい手`
`心配な手`
`説明したくなる手`
`ミャオリンが言いかけた手`
`たくさん知っているね、と聞いた`
`使わない封筒`
札は、白い皿の中身と混ざらなかった。
別々にある。
別々にあるから、同じ部屋に置ける。
ククルーは丸布の少し外側へ座った。
中心ではない。
でも、離れすぎてもいない。
旅人は、その隣に座らない。
少しだけ空けて、座る。
その空いたところに、雨音が入った。
濡れた沈黙は、まだそこにあった。
でも、ひとりで濡れている沈黙ではなくなっていた。
ミャオリンは遅い封筒を指で軽く叩いた。
「後で、言えることができたら言う。言えないままなら、言えないまま置く」
ククルーはうなずいた。
「ぼくも、そうします」
旅人は、聞きたい手をもう一度見た。
手は、まだある。
なくならない。
でも、今はククルーへ伸びていない。
それで十分だった。
外ではネオン雨が、信号のように短く光った。
情報屋の中では、白い皿と席を空ける布が、別々の低さで静かに置かれていた。
しばらく、誰も席を立たなかった。
白い皿のそばで、席を空ける布の端だけが、ネオン雨の色を受けて淡く光っている。
その光は、皿の中身へ入らない。
布の上の札へも、強くは触れない。
ただ、札と札の間に残った小さな距離を照らしていた。
ネジリは、その距離を見ていた。
「距離があると、さみしい時があります」
誰に向けた言葉でもなかった。
ククルーは、その言葉へすぐ返事をしなかった。
ミャオリンも、遅い封筒へ手を伸ばさない。
旅人は、ネジリの言葉を席を空ける布の横へ置く。
`距離があると、さみしい時がある`
教授が、少し迷ってから小札を出した。
`近づけばよいと言いたくなる手`
その札を置くと、ネジリが小さく笑った。
「教授も、言いたくなったのですか」
「なりました。近づけば解決する、という仮説が出ました」
「仮説なら、置けます」
ネジリはそう言って、自分の札の横に教授の札を並べた。
ククルーは、その二枚を見ていた。
「近づいてもらうと、助かる時があるね」
ゆっくり言った。
「でも、近づかれる前に、近づいてもらえる場所を作ってもらえると、もっと助かる時もあるよ」
旅人は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
よい言葉だ。
大事な言葉だ。
だから、すぐには大きくしない。
旅人は小さく書く。
`近づいてもらえる場所`
ミャオリンが、席を空ける布の下へもう一枚、細い帯を差し入れた。
帯には、雨の色で小さな線が引かれている。
「近づき線」
「線?」
「越えるための線じゃない。近づき方を見えるようにする線」
ミャオリンは帯の端を少し折った。
「今日は、ここまで近づける。今日は、ここから先は聞かない。今日は、隣には座らないけど、同じ部屋にいる。そういう線」
ククルーは、近づき線を見て、長く息を吐いた。
「それは、助かるよ」
旅人は、ククルーの横へ座りたい手を感じた。
感じたが、動かない。
代わりに札を書く。
`隣へ行きたい手`
その札を、近づき線の手前へ置く。
ククルーは、札を見て、少しだけ目を細めた。
「今は、そこがいいです」
それだけで、旅人の足は落ち着いた。
近づけないのではない。
近づく場所を、いっしょに作っている。
ネジリも、席を少し動かそうとして止めた。
`近づきたい手`
そう書いて、近づき線の別の端へ置く。
教授は、自分の札を見て、さらに一枚足した。
`説明より先に場所`
ミャオリンは、その札を見てうなずいた。
「いい。説明より先に場所。情報屋の棚にも書いておく」
「商売になりますか」
ククルーが聞く。
ミャオリンは、少しだけ肩をすくめた。
「ならないね。でも、信頼にはなるかもしれない」
同じ言葉が、もう一度部屋に戻ってきた。
今度は、誰のものにもならず、近づき線の上で低く止まった。
旅人は、濡れた沈黙という言葉をもう一度思い出した。
まだ書かない。
でも、その言葉が前より少し軽くなったことは分かった。
沈黙に、席ができた。
沈黙に、近づき線ができた。
沈黙に、あとで聞ける場所ができた。
ククルーは中心ではない場所に座ったまま、白い皿を一度だけ見た。
そして、席を空ける布を見た。
「別々にあるのは、助かるよ」
旅人はうなずいた。
別々にある。
同じ部屋にある。
混ざっていない。
それだけで、次の音を待てる。




