第13巻 ネオン雨の情報屋 第5章 サイバリアの根元ではない場所
白い皿を丸布の上に置いたまま、ミャオリンは戸口の方へ歩いた。
旅人は、皿を持っていかないのかと思った。
思っただけで、すぐには聞かない。
ミャオリンは振り返り、旅人の顔を見て笑った。
「持っていきたい?」
旅人はうなずいた。
「持っていくと、安心する気がする」
「するね。見たものを手元に置いておくと、忘れない気がする。でも、今日は置いていく」
ミャオリンは丸布の端を軽く押さえた。
「サイバリアの外縁へ行く時、見た手皿を持ったままだと、中心へ急ぎたくなる。中心へ行けば、この皿の中身を説明してもらえる気がするから」
ネジリが小さく息を吸った。
「説明してもらえる場所が、あるのですか」
「あるように見える場所は、たくさんある」
ミャオリンは、速い封筒と遅い封筒の間に指を置いた。
「だから、根元ではない場所へ行く」
ククルーのしっぽの先が、ほんの少しだけ動いた。
「根元ではない場所」
旅人が繰り返すと、ククルーはいつもの案内役の顔を作ろうとした。
「世界樹は、遠くから見ても世界樹だよ。近づきすぎないことで見えるものもあるんだ」
声は穏やかだった。
けれど、最後の「あるんだ」が、雨音のあとに半拍だけ遅れた。
旅人はその遅れを書きたいと思った。
でも、白い皿は丸布の上にある。
今ここで書くと、皿を持っていくことになる気がした。
旅人は書かずに、ククルーの隣へ立った。
情報屋の外へ出ると、ネオン雨は少し薄くなっていた。雨が弱まったのではない。光の線が高いところへ移り、低い路地には音だけが残っている。
ミャオリンは傘を差さない。
代わりに、鞄から細い銀色の輪を取り出し、手首に通した。輪は濡れた空気を受けて、青くも緑にも見えない淡い光を返す。
「案内輪。サイバリア外縁の信号に入りすぎないための輪」
ネジリがのぞきこんだ。
「入るための輪ではないのですか」
「入らないための輪。似てるけど違う」
ミャオリンは路地の先を指した。
そこには、高い塔も門もなかった。
ただ、壁と壁の間に、薄い光の根のような線がいくつも走っている。根に見えるが、地面から生えているわけではない。空から垂れているわけでもない。建物の角、掲示板の裏、雨どいの下、子どもたちの手の届かない高さを、細い線がゆっくり通っている。
「あれが、サイバリアですか」
教授が聞いた。
「あれも、サイバリアにつながっている外縁の信号」
ミャオリンはすぐに言い直した。
「あれがサイバリア、って言うと、見えた線を樹そのものにしたくなる」
旅人は札を書いた。
`サイバリアにつながっている外縁の信号`
それから、もう一枚。
`樹そのものとはまだ言わない`
ククルーはその札を見て、少し安心したように目を細めた。
道の先で、丸い灯りがゆっくり点滅していた。
順番灯とは少し違う。あちらは届く順番を見せる灯りだった。こちらの灯りは、同じ場所で光るのに、光る前と光ったあとで色が違う。青くなる前に白くなり、白くなる前に薄い桃色が通り、最後に緑の影が残る。
灯りの下に、一人の人がしゃがんでいた。
長い袖を肘までまくり、細い道具を三本、膝の上に並べている。髪には小さな信号札がいくつも差してあり、雨が当たるたびに札の端が鳴る。
ミャオリンが片手を上げた。
「リオ、まだ混ざってる?」
しゃがんでいた人が顔を上げた。
「混ざっている、という言い方が少し速い。まだ分ける前だよ」
声は明るいが、少し眠そうだった。
ミャオリンは肩をすくめた。
「ほら、こういう人」
「どういう人ですか」
ネジリが聞く。
「信号修理係」
リオと呼ばれた人は立ち上がり、旅人たちへ軽く頭を下げた。
「信号修理係のリオ。修理といっても、壊れたものを直すだけじゃない。消したい人、流したい人、遅らせたい人の手を、先に分ける仕事」
旅人は、三本の道具を見た。
一本は、柔らかい刷毛。
一本は、透明な管。
一本は、細い輪のついた棒。
「消す道具ですか」
ネジリが言うと、リオは刷毛を持ち上げた。
「消すように見える刷毛。でも、これは消すためだけのものではない。にじみを薄くして、下の線が息をできるようにする道具」
「流す道具は、これですか」
教授が透明な管を指す。
「そう。流すように見える管。でも、遠くへ送るためだけではない。詰まっているところから、近くの皿へ移すこともある」
ミャオリンは、最後の棒を指した。
「これは?」
旅人は考えた。
輪のついた棒。
範囲輪に似ている。けれど、輪は小さく、先端でくるくる回っている。
「遅らせる道具に見える」
リオはうなずいた。
「遅らせるように見える棒。でも、止めるためではない。光が次の場所へ行く前に、返事の空きを見せるためのもの」
三本の道具は、どれも名前が一つに決まらない。
旅人は札に書いた。
`消すように見える刷毛`
`流すように見える管`
`遅らせるように見える棒`
リオは満足そうに笑った。
「ように見える、が入っている。いい札だ」
ミャオリンが、小さく鼻で笑う。
「この人、そういう札が好き」
「好きというより、ないと困る」
リオは、丸い灯りの下へ戻った。
「今見ているのは、反射ログの小路から来た信号の端だよ。端だけだから、誰のものかは分からない」
ククルーの耳が、ぴくりと動いた。
旅人はククルーを見る。
リオも見た。
けれど、リオはその反応を拾い上げなかった。
「端は、端として扱う。端を持って中心へ行くと、中心の顔をしてしまう」
「中心の顔」
旅人が言うと、リオは灯りを指した。
「ほら、見て」
丸い灯りの中央に、三つの線が浮いた。
さっき白い皿へ置いた三つの線に似ている。
そう思いかけて、旅人は口を閉じる。
ここでも、章の名前はない。
あるのは、白い皿へ置いてきた三つの線と、今ここで見た三つの線。
旅人は札に書いた。
`白い皿の三つの線に似ていると思った`
リオは、すぐに首を横へ振らなかった。否定もしない。
「それを、今はここの信号へ入れない」
「似ているのにですか」
ネジリが聞く。
「似ているからこそ。似ているものは、すぐつながる。すぐつながると、途中の返事が置けなくなる」
ミャオリンは、空を見上げた。
細い光の根のような線は、建物の角から角へ、ゆっくり伸びている。伸びるたび、遠くで別の灯りが短く返事をした。
返事に見える。
でも、誰への返事かは分からない。
旅人は、外縁の信号の下に立った。
中心へ行けば、分かるのではないか。
そういう手が、胸の中で少し伸びる。
伸びた手は、速い。
速いままにしておくと、白い皿の中身を持って走り出しそうだった。
旅人は、足もとへ小さな札を置いた。
`中心へ行きたい手`
ククルーが、その札を見た。
「中心へ行きたい手が、先にここへ置かれているね」
声は、今度は遅れなかった。
けれど、リオの髪の信号札が一枚、かすかに鳴った。雨音に混ざるほど小さい音だった。
リオはその札へ触れず、丸い灯りの横に低い台を出した。
「中心へ行きたい手は、ここへ」
台には、何も書いていない。
「名前はないのですか」
ネジリが聞く。
「名前をつけると、その名前の場所になるから」
リオは台の端を指でなぞった。
「今日は、低い台。中心ではない台。そこまで」
旅人は、`中心へ行きたい手` の札を台に置いた。
置くと、丸い灯りの中央が少し暗くなった。
暗くなったが、消えたわけではない。
青、白、桃色、緑の順に光っていた輪が、ゆっくり一拍休む。
その休みのあいだに、外縁の信号線の向こうで、小さな光が返った。
リオは透明な管を持ち上げた。
「今のは流したんじゃない。返ってくる場所が見えただけ」
「返ってくる場所」
旅人は言う。
「うん。外縁は、答えの外側じゃない。返事が置ける外側」
ミャオリンは、旅人の札を見てから、リオを見た。
「いい言い方をするね」
「言い方だけ速くなると困る」
リオは自分で札を書いた。
`外縁は返事が置ける外側、と言いたくなった`
ミャオリンが笑った。
「うちの棚に置けそう」
「置いて。中心の言葉になりそうだから」
中心の言葉。
旅人は、その響きが少し怖いと思った。
よい言葉ほど、真ん中へ行きたがる。
よい言葉ほど、みんなの答えに見えやすい。
リオは細い輪の棒を灯りへ近づけた。
輪は光に触れない。触れない距離で回り、丸い灯りの端に小さな余白を作る。
「遅らせる時は、この余白を見る。光を止めたと思うと、手が強くなる。返事の余白を作ったと思うと、少し弱く持てる」
ククルーが、低い台の横へ座った。
「弱く持つ」
その声は、とても小さかった。
旅人は今度、札を書いた。
`弱く持つ、と聞いた`
ククルーはそれを見て、目を細める。
「弱く持つ、と聞いたところで止められたね」
ミャオリンは何も言わない。
リオも何も言わない。
信号の外縁だけが、ゆっくり色を変えた。
しばらくして、丸い灯りの中央に、白い皿で見た小さな影に似たものが現れた。
旅人の胸が少し跳ねる。
今度こそ、何かが分かるのではないか。
でも、影はすぐ、灯りの輪の縁にほどけた。人影ではなく、信号が重なった隙間にも見える。掲示板の欠けにも見える。雨どいから落ちた光の端にも見える。
リオは刷毛を手に取った。
「薄くする?」
旅人は聞かれていると分かった。
消すように見える刷毛。
薄くすると、見えなくなるかもしれない。
薄くしないと、見えすぎるかもしれない。
旅人は白い皿を思い出した。
`小さな影を見た`
`旅人に似ていると思った`
見たことは、まだ丸布の上に座っている。
ここで同じ札を増やす必要はない。
旅人は首を横に振った。
「今日は薄くしない」
リオは刷毛を置いた。
「じゃあ、流す?」
旅人は透明な管を見る。
流せば、どこか近くの皿へ移せる。
でも、移す先を決めるには、まだ早い。
「流さない」
「遅らせる?」
細い輪の棒が、光の端で静かに回っている。
遅らせると、返事の余白はできる。
でも、今は返事を求めている相手も決めていない。
旅人は少し考えた。
「今日は、低い台に置く」
リオは大きくうなずいた。
「いい。道具を使わない修理もある」
ネジリがぱっと顔を上げる。
「修理しない修理ですか」
「近い。直す前に、直したい手を置く修理」
リオは、低い台に小さな布を敷いた。布には何も書かれていない。ただ、端に雨の色が一滴だけ染みている。
旅人は、`中心へ行きたい手` の札の横に、もう一枚置いた。
`道具を使いたい手`
それから、もう一枚。
`今日は低い台に置く`
丸い灯りは、少しだけ落ち着いたように見えた。
落ち着いた、とはまだ言い切らない。
旅人は札に書かず、目だけで見る。
ミャオリンが小さく言った。
「外縁まで来た。中心へ行かなかった。今日はそれで十分」
「十分が、少し増えました」
ネジリが言う。
ミャオリンは笑った。
「増えたように見えるね」
リオは、丸い灯りの横の低い台を指した。
「この台は、しばらくここに置いておく。信号がまた急いだら、ここへ戻れる」
ククルーが、外縁の信号線を見上げた。
「戻れる外側」
その言葉は、鈴の音より先に出た。
鈴は、あとから小さく鳴った。
鳴ったが、旅人はそれを秘密の音にしない。
`鈴があとから小さく鳴った`
そう書きたい手だけを、胸の中の低い台へ置いた。
リオは、旅人を見て少しだけ首を傾けた。
「書かない?」
旅人はうなずいた。
「今は、書かない」
「いいね」
リオは信号札のついた髪を揺らした。
「書かないことも、消したこととは違う」
その言葉を、旅人は覚えておきたいと思った。
でも、覚える前に、情報屋の丸布へ戻る道がある。
外縁の信号は、まだ中心へ続いているように見えた。
けれど、続いているように見えることと、今そこへ行くことは違う。
旅人たちは、低い台に三枚の札を残した。
`中心へ行きたい手`
`道具を使いたい手`
`今日は低い台に置く`
リオは、その三枚の札の横に、工具を一つも置かなかった。
「道具は置かないのですか」
教授が聞く。
「置くと、直す場所に見える」
リオは腰の袋から、小さな布だけを出した。
布には、細い点が七つ並んでいる。点の間はつながっていない。どの点も、ほかの点へ行きたそうにしていない。
「これは、点検布。信号を直す前に、信号を見た人の手を点検する」
ネジリが身を乗り出した。
「信号じゃなくて、手を点検するのですか」
「うん。信号の方が先に直されると、人の手があとで言い訳になるから」
リオは、七つの点を一つずつ指した。
「消したい手」
一つ目の点。
「流したい手」
二つ目の点。
「遅らせたい手」
三つ目の点。
「見なかったことにしたい手」
四つ目。
「見たことにしたい手」
五つ目。
「中心へ持っていきたい手」
六つ目。
最後の点で、リオは少し止まった。
「誰かに決めてもらいたい手」
旅人は、最後の点を見た。
それは、いちばん小さな点だった。
小さいのに、目を離しにくい。
旅人の中にも、その手はあった。
サイバリアの中心へ行けば、さっきの影が何か分かるかもしれない。
誰かに決めてもらえれば、見た手を持ち続けなくてよくなるかもしれない。
旅人は札を書いた。
`誰かに決めてもらいたい手`
書いたあと、胸の奥が少し冷えた。
恥ずかしいと思った。
すると、ミャオリンがすぐに言った。
「恥ずかしい箱へ入れない」
旅人は顔を上げる。
「今の手は、だめな手じゃない。重い手だ。重い手は、低い台がいる」
リオは点検布の下へ、小さな石を二つ置いた。
布が風で動かないようにするための石だ。
「これ、手重し」
「重し」
ククルーが繰り返した。
「手を押さえつけるのではなく、手が飛ばされないようにする重し」
リオはそう言い、旅人の札の横へ手重しを一つ置いた。
石は、信号の光をほとんど反射しない。
ただ、雨の匂いだけを少し持っていた。
旅人は、手重しを見ているうちに、決めてもらいたい手が消えていないことに気づいた。
消えていない。
でも、さっきより飛びそうではない。
教授が、写し前の板を取り出しかけて、止めた。
「記録しないのですか」
ネジリが聞く。
教授は首を横に振った。
「記録したい手が、少し速かったようです」
そう言って、自分用の小札へ書いた。
`記録したい手`
リオはにこりとした。
「教授にも点検布、いるね」
教授はまじめにうなずいた。
「必要です」
ククルーが、七つの点を見ながら言った。
「見たことにしたい手と、見なかったことにしたい手が、隣ではないんだね」
リオは、少し驚いた顔をした。
「そこ、気づくんだ」
「隣だと、すぐ行ったり来たりしてしまいそうだね」
ククルーの声は穏やかだった。
けれど、旅人は、その穏やかさの奥に、いつもより深い場所があると感じた。
感じただけにする。
旅人は、ククルーの言葉を、信号の答えにしない。
代わりに、自分の札の横へもう一枚置いた。
`隣にしない方がいい手もある`
ミャオリンが、その札を見てうなずいた。
「それは、うちの棚にも欲しい」
「持っていっていいよ」
リオが言う。
「でも、中心の言葉にしないで」
「もちろん。棚の端に置く」
二人のやりとりを聞いて、ネジリが目を輝かせた。
「情報屋と修理係が、札を交換するのですね」
「交換じゃない」
ミャオリンとリオが、ほとんど同時に言った。
二人は顔を見合わせる。
ミャオリンが先に笑った。
「持ち帰って、同じ棚にしない」
リオが続ける。
「同じ道具にしない」
旅人は、その言い方が好きだった。
好きだったが、すぐには書かない。
今は、低い台に置かれた三枚の札と、点検布と、手重しを見る。
サイバリアの外縁は、まだ中心へ続いている。
けれど中心へ続く線の横に、戻れる外側が少し増えた。
そこには、直す前の手が置ける。
記録する前の手も置ける。
決めてもらいたい手も、重すぎると言わずに置ける。
サイバリアの根元ではない場所で、信号は消えず、流れず、遅れすぎもしなかった。
ただ、返事が置ける外側を、雨の中に少しだけ広げていた。




