第13巻 ネオン雨の情報屋 第4章 反射ログの小路
反射ログの小路へ行く前に、ミャオリンは棚の薄布をもう一度めくった。
四つの木札は、さっきと同じ順番で並んでいる。
`知らせる`
`隠す`
`遅らせる`
`返事待ち`
ただし、その前の空皿は少し場所が変わっていた。四つの皿のさらに手前に、白い細長い皿が一枚、横向きに置かれている。
旅人はその皿を見た。
「増えた」
「増えたように見えるね」
ミャオリンは白い皿の横に、小さな札を立てた。
`見た手`
「反射ログを見る時は、これを先に置く。見たものを、知らせるにも隠すにも遅らせるにも入れない。返事待ちにも、まだ入れない。まず、見た手だけ置く」
ネジリが、白い皿をのぞきこんだ。
「見た手だけで足りますか」
「足りないよ」
ミャオリンはあっさり言った。
「でも、足りないって分かるために要る。足りないまま急ぐと、映像はすぐ、誰かの持ち物に見える」
ククルーの耳が少し下がった。
旅人は、ククルーの耳を見た。見たことだけ、心の中の白い皿へ置く。
「反射ログは、映像なのですか」
教授が聞いた。
「映像に見えるものもある。声に聞こえるものもある。文字のように流れるものもある。ネオン雨が街のいろんな面を通ったあとに、ほんの少し残るもの。残るけど、残ったから正しいとは限らない」
「残るのに、正しいとは限らない」
旅人は繰り返した。
ミャオリンはうなずく。
「雨粒は、通った場所を少し借りる。借りたものを返す時、形が重なる。だから、反射ログは、貸し借りのあとみたいなもの」
「返し忘れではないのですね」
ネジリが言う。
「返し忘れに見える時もある。でも、最初からそう決めると、ログが困る」
ミャオリンは戸口の方へ歩き出した。
「行こう。見た手皿を持って」
白い皿は、旅人が持つことになった。
薄くて軽い。けれど、持ってみると、空の重さがあった。
情報屋の外へ出ると、ネオン雨の音が近くなった。
雨見台の声は遠ざかり、かわりに、細い路地から紙をこするような音が聞こえてくる。ささ、ではなく、す、す、という音。濡れた掲示板を指でなぞる前の、ためらいに似ていた。
小路は、反射路地よりも狭かった。
壁は黒くない。鏡でもない。ただ、濡れた石が細かく光を抱いている。光は雨粒が落ちるたびに遅れて動く。足もとには細い水路があり、水路の底に、読めそうで読めない線が流れていた。
ミャオリンは、小路の入口に手をかざした。
「ここから先は、声を小さく」
「大きい声を出すと、ログが消えるのですか」
ネジリがひそひそ声で聞いた。
「消えない。混ざる」
ミャオリンも小さな声で答える。
「消えるより、混ざる方があとで読みにくい」
ククルーが、旅人の足もとを見た。
「足あと灯も、今日は小さめだね」
足あと灯は光っている。けれど、いつもより低い。旅人の足跡を示すというより、足跡が小路の光へ入り込みすぎないよう、縁だけを細くなぞっている。
旅人は小札を書いた。
`足あとも見えすぎない`
ミャオリンがそれを見て、口の端を上げる。
「いい。ここでは、見えやすさも時々休ませる」
小路の途中に、薄い鏡が立てかけられていた。
鏡というより、水を張った板に近い。板の上を、雨粒がゆっくり転がっている。転がるあいだだけ、板の奥に何かが映る。雨粒が落ち切ると、映ったものも消える。
「雨鏡」
ミャオリンが言った。
「雨が落ちている短い間だけ、通った光を見せる。長く見るものじゃない。長く見たい時ほど、見た手皿に置く」
教授は身を乗り出しかけ、すぐに戻った。
「長く見たい手が出ました」
「出るよ。出ない方が変だよ」
ミャオリンは、雨鏡の横に、丸い小石を置いた。
「これを押さえ石にする。見たくなった手が前へ出たら、小石を一つ動かす。映像は動かさない」
ネジリが、目を丸くした。
「手を動かして、映像を動かさない」
「そう」
旅人は、白い皿を雨鏡の下に置いた。
雨粒が一つ、鏡の上を転がった。
最初に見えたのは、青い線だった。
線は、路地の奥から手前へ走っている。走っているのに、音は遅い。次に、白い棚の角が映った。棚の前に、小さな影がある。影は旅人に似ているように見えた。
旅人は息を止めそうになった。
似ている。
そう思った瞬間、影は棚の角に重なり、棚の影にも見えた。次の雨粒が落ちると、影は掲示板の文字の欠けにも見えた。
「見た?」
ミャオリンが聞いた。
旅人はうなずいた。
「言うなら、どこまで?」
旅人は少し考え、白い皿の横へ札を置いた。
`小さな影を見た`
それだけでは、まだ強すぎる気がした。
もう一枚。
`旅人に似ていると思った`
書いたあと、旅人は手を止めた。
ミャオリンは、その札を四つの木札のどれにも入れなかった。白い皿の上に、そっと乗せる。
「いい。似ていると思った、まで。似ていた、とはまだ言わない」
ククルーは、雨鏡を見ていなかった。
見ていないように見えた。
けれど、鈴は鳴らず、首元の毛だけが、雨音に合わせてほんの少し揺れた。
旅人は、ククルーへ声をかけようとして、やめた。
聞き返せる場所はある。
今は、見た手皿が先だった。
次の雨粒が落ちた。
雨鏡の中で、短い映像が切れた。
切れた、と思うより先に、切れているところだけが見えた。
白い階段の端。濡れた赤い布。誰かの手元。丸い灯り。短く開いた戸。そこへ、細い声が重なる。
「ま……」
声はそれだけだった。
待って。
また。
前へ。
真ん中。
言葉はいくつも続きそうで、どれにも決まらない。
ネジリが小石を一つ動かした。
「続きを見たい手が出ました」
「いい動かし方」
ミャオリンはほめるが、雨鏡には触れない。
教授も小石を一つ動かした。
「意味を一つにしたい手が出ました」
ククルーは、小石に触れなかった。
そのかわり、自分の鈴の下へ前足を添えた。
「ぼくは、音を先に覚えそうになりました」
声は静かだった。
ミャオリンは、ククルーの言葉をすぐには札にしない。旅人を見た。
旅人は白い皿の横に書いた。
`音を先に覚えそうになった、と聞いた`
ククルーは、その札を見て、小さく息を吐いた。
「ありがとう」
それ以上は言わない。
雨鏡の中では、切れた映像片がもう見えなくなっていた。
見えなくなったあとも、見た気持ちは残る。
見えないのに、残る。
だから、持ち帰りたくなる。
旅人は小石を一つ動かした。
「持ち帰りたい手」
自分でそう言うと、白い皿が少し重くなった気がした。
ミャオリンは、皿の端を指で押さえた。
「持ち帰ることも悪くない。でも、持ち帰り方を間違えると、映像が荷物じゃなくて証明書になる」
旅人はうなずいた。
「証明書にはしない」
「うん。今日はまだ、本人未満札も出さない」
ネジリが首をかしげた。
「出さないのですか。あるなら、使った方がよさそうです」
「よさそう、が速い」
ミャオリンは白い皿を持ち上げた。
「本人未満札は、強い札だよ。強い札は、早く出すと、それだけで安心を作る。今日は安心の前を見たい」
旅人は、まだ出さない札の場所を思い浮かべた。
あるのに出さない。
出さないから、なかったことにはならない。
小路の奥から、また紙をこするような音がした。
今度は、雨鏡ではなく、壁の濡れた石の一つが短く光った。光の中に、細い線が三つ見える。線は階段にも、棚にも、誰かの髪にも見える。
ミャオリンが白い皿を差し出す。
「ここへ」
旅人は札を書いた。
`三つの線を見た`
その下に、少し迷ってから書く。
`何に似ているかは、まだ分けない`
ミャオリンは満足そうにうなずいた。
「反射ログの小路は、答えをくれる場所じゃない。見た手が増える場所。見た手が増えると、急いで棚へ入れたくなる。だから、戻れる席がいる」
「情報屋へ戻るのですか」
教授が聞いた。
「戻る。全部は持たない。白い皿だけ持つ」
ネジリは雨鏡を振り返った。
「もう一度見たくなります」
「なる。ならない方が変だよ」
ミャオリンは同じ言い方をした。
「でも、もう一度見る前に、一度戻る。見たまま走らないって約束したから」
ククルーが、ようやく雨鏡を見た。
雨粒はもう落ちていない。鏡はただの濡れた板に戻っている。
「見ていない時にも、見たことは残りますね」
「残る」
ミャオリンは言った。
「だから、残ったものを一人の持ち物にしない場所がいる」
旅人は白い皿を持った。
皿の上には、札がいくつも乗っている。
`小さな影を見た`
`旅人に似ていると思った`
`音を先に覚えそうになった、と聞いた`
`三つの線を見た`
`何に似ているかは、まだ分けない`
どれも、答えではない。
けれど、なかったことでもない。
小路を出る時、足あと灯がもう一度細く光った。
行きの足あととは、少しだけ違う線だった。
同じ道を戻っているのに、同じではない。
旅人は、その線も札にしたくなった。
でも、白い皿の上はもう十分重い。
旅人は札を書かず、ただ手の中で皿を水平に保った。
情報屋の濡れた看板が見えてくる。
黒猫のような看板は、やはり黒くない。
雨の色が重なって、黒く見えるだけだった。
ミャオリンは戸を開け、棚の中央の丸布を指した。
「戻ろう。見た手を、まず座らせる」
旅人は白い皿を丸布の中央へ置いた。
置いた瞬間、速い封筒が少し光った。
遅い封筒も、少し光った。
四つの木札も、布の下で待っている。
でも、ミャオリンはどれにも手を伸ばさなかった。
「今日は、見た手皿のまま」
ミャオリンはそれから、白い皿の横へ、細い黒い布を一枚置いた。
黒いといっても、光を飲む黒ではない。
周りの色を少し休ませる、やわらかい暗さだった。
「抜け間布」
「抜け間?」
ネジリが聞く。
「見えなかった場所を置く布。見えたものだけを並べると、見えなかったところが勝手に埋まる」
ミャオリンは、白い皿の札を一枚ずつ指した。
`小さな影を見た`
`旅人に似ていると思った`
`音を先に覚えそうになった、と聞いた`
`三つの線を見た`
`何に似ているかは、まだ分けない`
「この札と札の間に、見えていない場所がある。そこを急いで結ぶと、話になる。話になると持ちやすい。でも、持ちやすい話は、見えなかった場所を踏む」
旅人は、雨鏡で見た白い階段の端を思い出した。
濡れた赤い布。
誰かの手元。
丸い灯り。
短く開いた戸。
それらの間には、見えなかった場所がたくさんあった。
見えたものをつなぎたくなる。
つなぐと、意味ができる。
意味ができると、安心できる。
けれど、その安心は速い。
旅人は札を書いた。
`見えなかった場所`
もう一枚。
`つなぎたい手`
それを抜け間布の上へ置いた。
ククルーは、その布を長く見た。
「見えなかった場所を、急いで埋めない」
声は、講義のようでもあり、独り言のようでもあった。
旅人は札を取ろうとして、止めた。
ククルーの言葉をすぐ札にすると、ククルーが答えを出したように見える。
だから、旅人は自分の言葉で書いた。
`埋めたくなった`
ククルーは、その札を見て、少しだけ目を細めた。
「埋めたくなった、までなら持って歩けるね」
教授は、写し前の板を出しかけて、またしまった。
「記録したい手が出ました。けれど、今記録すると、見えなかった場所まで記録した気になりそうです」
ミャオリンはうなずいた。
「教授、だいぶ情報屋向きになってきたね」
「研究者としては、褒められているのか迷います」
「迷っていい」
ミャオリンは、抜け間布の端を押さえた。
「次に見るものが、ここを埋めるためだけのものになると困る。だから、この布は棚に置く」
「情報屋の棚へ?」
「うん。見えなかった場所のための棚がないと、見えたものの棚が強くなる」
旅人は、白い皿と抜け間布を別々に見た。
皿の重さと、布の軽さは違う。
違うから、同じ袋へ入れない。
ネジリが、それを見て言った。
「見えたものと見えなかったものは、同じくらい大事ですか」
ミャオリンは少し考えた。
「同じくらい、も速い。大事の形が違う」
旅人はうなずいた。
`大事の形が違う`
その札を、白い皿と抜け間布の間へ置いた。
その言葉で、旅人の肩から少し力が抜けた。
反射ログの小路で見たものは、まだどこにも送られない。
まだ誰かのものにならない。
まだ意味の一つに閉じない。
ククルーは丸布の前に座り、白い皿を見た。
「言わないものも置ける皿なんだね」
ミャオリンは、少しだけ笑った。
「使うには、けっこう勇気がいるけどね」
さっき情報屋の棚で聞いた言葉と、よく似ていた。
旅人は、今度はすぐ札にしない。
似ている言葉も、同じ言葉ではない。
白い皿の上で、切れた映像片は静かだった。
静かなまま、次の場所を急がせなかった。




