↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クイズクロニクル  作者: pj.masta


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
160/317

第13巻 ネオン雨の情報屋 第3章 黒猫の情報屋

黒猫のような看板は、近づくほど黒くなくなった。


濡れた板に、青と緑と白に近い桃色が何度も重なっている。重なった色が、遠くからは黒に見えていただけだった。端には、猫の耳のような角が二つある。耳に見える。けれど、耳ではなく、雨の線を逃がすための小さな切れ込みかもしれない。


旅人は看板の手前で止まった。


止まると、足あと灯が短く光る。光った足あとが、看板の下まで届きそうになり、途中でほどけた。


`黒猫のような看板`


さっき置いた札を、旅人はもう一度見た。


その横に、新しい札を置く。


`黒猫とはまだ決めない`


ククルーが、看板を見上げた。


「ぼくの耳より、少し鋭いね」


ネジリはククルーの耳と看板を見比べる。


「でも、少し似ています」


「似ている、は便利だね。便利だから、ときどき棚に置こう」


ククルーの声はいつもの調子だった。けれど、看板の下に刻まれた小さな文字を見た時だけ、しっぽの先が一度止まった。


旅人も、その文字を見た。


`Mi`


たった二つの文字だった。雨の線が通るたび、その後ろに何かが続きそうになる。続きそうになって、すぐ消える。


ミ。


ミャ。


ミャオ。


名前になりそうな音が、先に口へ来そうだった。


旅人は口を閉じ、小札へ書いた。


`Mi、と読めた`


その横に、もう一枚。


`名前にしたくなった`


看板の下の戸が、少しだけ開いた。


「名前にしたくなった、まで置けるなら、入ってもらってもよさそうだね」


声は、看板の奥からではなく、戸の上から降ってきた。


旅人たちは同時に顔を上げた。


透明な屋根の梁の上に、黒猫が座っていた。


いや、黒猫に見える人だった。


小柄な体。細いしっぽ。雨の色を吸い込むような黒い耳。目は金色に見えるが、角度が変わると薄い緑になる。肩から下げた小さな鞄には、細い封筒が何本も差してあった。


黒猫は、梁の上で前足ではなく手を振った。


「あたしはミャオリン。ここでは、そう呼ぶ人が多い」


ネジリがぱっと顔を上げる。


「情報屋さんですか」


「そう呼ぶ人も多い」


ミャオリンは梁から軽く降りた。降りたように見えたが、足音はしなかった。足音のかわりに、鞄の中の封筒が、ささ、と紙の音を立てた。


「でも、最初に言っておくよ。あたしは何でも知ってる黒猫じゃない。知ってるふりが上手に見える時があるだけ」


ククルーが少しだけひげを揺らした。


「それは、かなり正直な情報屋さんだね」


「正直というより、あとで困るのが苦手なんだよ」


ミャオリンは看板の下に降り立ち、戸を大きく開けた。内側から、濡れていないのに濡れたような木の匂いがした。古い掲示板を朝に拭いたような匂い。プロローグでククルーが言った匂いに似ている。


旅人はククルーを見た。


ククルーは匂いに気づいた顔をしたが、何も言わない。旅人も、今は聞かない。


「入る前に、これ」


ミャオリンは鞄から封筒を二本取り出した。


一本は細く、端が青く光っている。


もう一本は同じ細さだが、端が光っていない。光っていないのに、封筒の紙が少し厚く見える。


「速い封筒と、遅い封筒」


ネジリがすぐ言った。


「どちらがよいのですか」


ミャオリンは、にっと笑った。


「早いね」


ネジリは口を押さえた。


「また速かったです」


「悪くないよ。速く聞かれると、あたしも速く答えたくなる。だから、先に置く」


ミャオリンは戸口の横に、低い棚を引き出した。棚は三段ある。上段には青い封筒、中段には光っていない封筒、下段には空の皿が置かれている。


「速い封筒は、すぐ届く。遅い封筒は、届く前に相手の返事の場所を整える。下の皿は、どっちにもまだしない手を置くところ」


旅人は下の皿を見た。


何もない。


何もないのに、いちばん見られている場所に思えた。


「空の皿が、いちばん低い」


旅人が言うと、ミャオリンは目を細めた。


「よく見るね。低いところに置かないと、みんな封筒ばかり見ちゃうから」


教授がうなずいた。


「さっき見た雨見台の真ん中に近い」


ミャオリンは教授を見た。


「真ん中を見たんだ。じゃあ、雨見の子たち、少しゆっくり笑った?」


「はい」


ネジリが答える。


「親切が座りました」


ミャオリンは一瞬まばたきし、それから声を出して笑った。


「そりゃいい。親切が座れるなら、封筒も座れる」


ククルーが小さく言う。


「お茶も出せるよ」


「出せるよ。情報屋だからね」


ミャオリンは戸の内側へ手を伸ばし、小さな湯のみを四つ、棚の横へ並べた。湯気はない。代わりに、湯のみの縁が雨の色を受けて、短く光る。


「飲まなくていいお茶。手が急いでる時、湯のみを見て一拍置くためのやつ」


ネジリは真剣に湯のみを見た。


「飲まないのに、お茶ですか」


「そう呼ぶ人が多い」


ミャオリンは同じ言い方で答えた。


旅人は、低い棚の下段へ、持ってきた札を置いた。


`使う前の遅らせる札`


ミャオリンの耳が、わずかに動いた。


「それをここまで持ってきたんだ」


「使う前を見たかった」


「いいね。遅らせる札は、使うとちょっと気持ちがよくなる時がある。速い知らせを止めた気がするから」


「止めた気がする」


旅人は繰り返した。


ミャオリンは、遅い封筒を棚の中段に戻した。


「でも、遅らせるのは止めることじゃない。相手の返事の場所を先に作ること。そこを間違えると、遅い封筒は隠す封筒に見える」


ククルーの鈴は鳴らなかった。


鳴らなかったのに、旅人には、雨音の中に一拍の間があるように感じた。


ミャオリンはククルーを見た。


見たが、何も言わない。


その何も言わない手つきが、情報屋らしく見えた。見えたが、それもまだ札にしない。


「入って」


ミャオリンは戸口の内側を指した。


「ただし、入口で一つだけ。ここで見たものを、ぜんぶ説明にしない。説明はよく飛ぶ。飛ぶと、先に着いて、あとから来る気持ちの席を取る」


「席を取るのは困ります」


ネジリが言う。


「椅子取り競争になります」


ククルーが旅人を見て、少し笑った。


ミャオリンは、棚の下段にもう一枚札を置いた。


`説明が先に席を取る`


その横に、旅人が置く。


`戻れる席を棚にも作る`


情報屋の中は、思ったより明るかった。


壁一面に棚がある。封筒の棚、札の棚、空白の棚、まだ名札のない棚。棚と棚の間には、細い紙帯がゆるく渡してあり、ネオン雨が外を通るたび、紙帯の端が小さく光る。


棚の中央には、椅子ではなく低い丸布が敷かれていた。


「戻れる席」


旅人は言った。


ミャオリンは、少しだけ驚いた顔をした。


「ああ、そこまで持ってきてるんだね」


「席そのものは持っていません」


ネジリが説明した。


「手順を持っています」


「いいね、手順持ち。じゃあ、この丸布は、戻れる席のまねごと。見た情報をすぐ棚へ入れず、一回座らせる」


旅人は丸布の前に立った。


座るためのものではなく、情報を座らせるための場所。


そう聞くと、布の真ん中が少し低く見えた。


「ここに、何を置く?」


ミャオリンが聞いた。


旅人は、すぐには答えない。


速い封筒。


遅い封筒。


使う前の遅らせる札。


説明が先に席を取る。


黒猫のような看板。


ミャオリン。


どれも置きたい。どれも、置くと何かが進みそうに見える。


旅人は、まず短い知らせ札を置いた。


`情報屋に入った`


それだけでは短すぎる。


その下に、聞き返し札を置く。


`何を見たかは、これから分ける`


ミャオリンは、満足そうにしっぽを揺らした。


「よし。入ったことだけ先に送る。中身はまだ送らない。いい線だ」


「線ですか」


ネジリが聞く。


「いい線、と言いたくなっただけ。線そのものじゃないよ」


ミャオリンはすぐに自分で札を書いた。


`いい線、と言いたくなった`


「自分の言いたくなったも置くんですね」


教授が言うと、ミャオリンは肩をすくめた。


「情報屋が置かないと、誰かがあたしの言葉を正解札にしちゃう」


その言い方は軽かった。


でも、少しだけ苦さがあった。


速く言ったことが、正解のように届く。


それをミャオリンは、何度も見てきたのだろう。


旅人は、そう思った。思ったが、本人の過去として確定しない。


`何度も見てきたように感じた`


札には、それだけ書いた。


ミャオリンはその札を見て、目を細めた。


「感じた、で止めるんだ」


「まだ聞いていない」


「うん。聞かれても、今は言わないけどね」


「言わないのですか」


ネジリが聞く。


「言わない。だって、今のあたしの古い話は、君たちの手元を速くしすぎる」


ミャオリンは、遅い封筒を一本取り出した。


「古い話は、遅い封筒に入れる。届くまでに、返事の場所がいるから」


ククルーが、ほんの少しだけ顔を伏せた。


旅人は見た。


ミャオリンも見た。


それでも、ミャオリンはククルーへ話を振らなかった。遅い封筒を棚へ戻し、空の皿を前へ出す。


「さて。今日はここまでで十分、って言うのは簡単だけど、情報屋としては一つ仕事をする」


「仕事?」


「棚を分ける」


ミャオリンは壁の棚から四枚の木札を取り出した。


`知らせる`


`隠す`


`遅らせる`


`返事待ち`


四枚を床に並べる。


「本番はまだ先。今日は名前だけ。名前だけでも、並べると手が動きたくなる。だから、手も置く」


彼女は四枚の前に、小さな空皿を四つ置いた。


「知らせたい手。隠したい手。遅らせたい手。返事を待つのが怖い手」


ネジリは、四枚を見て息をのんだ。


「隠したい手も、置くのですか」


「置く。置かないと、棚の裏に隠れる」


ミャオリンは、隠す札を軽く指で叩いた。


「ただし、隠すを悪にしない。隠したくなる時はある。守りたい、恥ずかしい、まだ言葉になってない、相手が席を持ってない。いろいろある」


旅人は、四枚の木札を見た。


遅らせるだけではない。


知らせるだけでもない。


隠すと、返事待ちもある。


四つを一つの正解にしないために、四つの皿がある。


ククルーは、返事待ちの皿を見ていた。


その目は、少しだけ遠い。


旅人は、ククルーの隣に空白札を置いた。


`返事待ちを見た`


それ以上は書かない。


ミャオリンは、四枚の木札の上に薄い布をかけた。


「今日は見せすぎた。見せすぎると、ぜんぶ分かった気になる」


「分かっていません」


ネジリが言った。


「うん。それを分かってるのは、いい状態」


ミャオリンは戸口の方を見た。外の雨見台の声が、かすかに届いている。


「次は、反射ログの小路に行く前に、この棚へ戻る。戻れる席があるなら、見たあと戻れる。見たまま走らない」


「反射ログ」


旅人は、その言葉を繰り返しそうになり、止めた。


ミャオリンはにやりとする。


「言いたくなった?」


旅人はうなずき、札に書いた。


`反射ログ、と言いたくなった`


「よし。まだ小路には行かない」


ミャオリンは黒猫のような耳を少し伏せた。


「今日は、情報屋に入った。封筒を見た。棚の名前を見た。戻れる席を棚にも作った。それで十分」


十分。


その言葉は、今度は急がせなかった。


旅人は、丸布の中央に置いた短い知らせ札を見た。


`情報屋に入った`


その下の聞き返し札。


`何を見たかは、これから分ける`


ここまでなら、送ってもよい。


そう思った。


ミャオリンは、速い封筒を指で示した。


「送る?」


旅人は首を横に振った。


次に、遅い封筒を示す。


「こっち?」


旅人は少し考えた。


遅い封筒に入れるほど、まだ相手がいるわけではない。


返事を待つ場所はある。


でも、届け先を急いで決めたくない。


旅人は、空の皿を選んだ。


ミャオリンは、うれしそうに笑った。


「そう。今日は、封筒に入れないで皿に置く。情報屋としては、少し商売にならないけど、いい判断だ」


「商売にならないのですか」


ネジリが心配そうに聞く。


「なる時もある。ならない時もある。ならない方が、あとで信頼になる時もある」


ミャオリンは、空の皿を丸布の中央へ移した。


「ようこそ、黒猫の情報屋へ。ここでは、知らないことも棚に置ける」


旅人は、その言葉をすぐ書きたくなった。


よい言葉だから。


覚えておきたいから。


でも、よい言葉ほど速く届く。


旅人は少し待ち、それから小札に書いた。


`知らないことも棚に置ける、と聞いた`


ククルーが、その札を見て、静かに目を細めた。


「知らないことも置ける棚なんだね」


ミャオリンは、ククルーを見た。


「よい棚だよ。使うには、ちょっと勇気がいるけどね」


ククルーは答えなかった。


答えないまま、返事待ちの皿をもう一度見た。


旅人は、それ以上聞かなかった。


聞き返せる場所はある。


今、聞き返さないことも、場所をなくすことではない。


情報屋の濡れた看板の外で、ネオン雨が短く鳴った。雨音のように、信号音のように。


ミャオリンの棚の中では、速い封筒と遅い封筒が、同じ高さではなく、別々の高さで静かに光っていた。


その光が落ち着くまで、ミャオリンは誰も帰そうとしなかった。


「もう一つだけ、情報屋らしくない仕事をする」


ネジリが、少し身構えた。


「らしくないのですか」


「らしくない。情報屋は、ふつうは情報を渡すところだと思われている。でも、渡さない練習をする場所でもある」


ミャオリンは、棚の下から小さな木箱を引き出した。


木箱には、ふたがない。


中には、なにも入っていない。


ただ、底に薄い線が何本も彫られていた。線はまっすぐではなく、途中で止まったり、少し戻ったり、隣の線に寄り添ったりしている。


「これは?」


旅人が聞く。


「未送信箱」


ミャオリンは、さらりと言った。


「送らなかった知らせを入れる箱。もちろん、本当に入れるわけじゃない。送らなかった手をここへ置く」


ネジリは、速い封筒を見た。


「送らなかったことも、記録するのですか」


「記録する。送らなかったことを忘れると、あとで自分がやさしかった気になるから」


ミャオリンの声は軽かった。


けれど、軽いままでは通り過ぎられない言葉だった。


旅人は、未送信箱の底の線を見た。


送らなかった知らせ。


それは、隠したことと同じではない。


遅らせたこととも、返事待ちにしたこととも違う。


今は送らない。


その手が、あとで自分を正しい人に見せるかもしれない。


旅人は札を書いた。


`送らなかった手も棚に置く`


ミャオリンは満足そうにうなずいた。


「そう。棚に置く。胸の奥の、いちばん見えないところへしまわない」


ククルーが、未送信箱を見た。


「送らなかったことを、えらいことにしないためだね」


「うん。さすがククルー」


ミャオリンは言ったあと、すぐに手を振った。


「今のは速かった。ほめ言葉も、速い時がある」


ククルーは少し目を丸くした。


「ほめ言葉も?」


「ほめ言葉は、相手の席を埋めることがある。だから、ここではほめたくなった手も置く」


ミャオリンは、未送信箱の横にもう一つ、丸い小皿を置いた。


皿の縁には、金色でも銀色でもない、雨の色の線が引かれている。


「ほめたい皿」


ネジリが、ぱっと笑った。


「それは、いい皿です」


「いい皿って言いたくなった手も、置ける」


ミャオリンが返すと、ネジリは口を押さえた。


旅人は少し笑った。


けれど、その笑いも、すぐに札へはしない。


笑ったことを送る必要はない。


ここにいる人たちには、もう届いている。


ミャオリンは、ほめたい皿へ細い布を敷いた。


「情報は、困った知らせだけじゃない。ほめる、安心させる、だいじょうぶと言う、すごいと言う。そういう言葉も、速いと相手の返事をつぶす」


教授は、腕を組んで聞いていた。


「肯定も、検証の前に結論になり得る」


「教授の言い方だと、急に研究室になるね」


ククルーが小さく言う。


教授は、申し訳なさそうに笑った。


「でも、近いね」


旅人は、ほめたい皿の前に札を置いた。


`よいと言いたくなった手`


それから、未送信箱の前にも札を置く。


`送らないと決めた手ではない`


ミャオリンは、その札を見て、耳をぴくりと動かした。


「いい。送らないと決めるのも速い。今は、送る前の手を見ただけ」


旅人は、情報屋の棚全体を見た。


速い封筒。


遅い封筒。


四つの木札。


四つの空皿。


未送信箱。


ほめたい皿。


戻れる席。


知らないことを置ける棚。


こんなにたくさん置き場所があるのに、まだ何も分かっていない。


それが、少し安心だった。


分かっていないことが、床に落ちて踏まれるのではなく、棚に置かれている。


旅人は、最後にもう一枚だけ札を書いた。


`分からないまま置けると、少し息ができる`


ククルーが、その札を見て、深く息を吸った。


吸っただけで、何も言わなかった。


旅人も聞かなかった。


ミャオリンは、棚の薄布を下ろした。


「今度こそ、今日はここまで」


外の雨音が、店の中へ細く入ってくる。


情報屋の濡れた看板は、まだ光っている。


でも旅人は、その光を知らせとして送らなかった。


未送信箱の底に彫られた線が、送られなかった言葉のために、低く残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。