第13巻 ネオン雨の情報屋 第3章 黒猫の情報屋
黒猫のような看板は、近づくほど黒くなくなった。
濡れた板に、青と緑と白に近い桃色が何度も重なっている。重なった色が、遠くからは黒に見えていただけだった。端には、猫の耳のような角が二つある。耳に見える。けれど、耳ではなく、雨の線を逃がすための小さな切れ込みかもしれない。
旅人は看板の手前で止まった。
止まると、足あと灯が短く光る。光った足あとが、看板の下まで届きそうになり、途中でほどけた。
`黒猫のような看板`
さっき置いた札を、旅人はもう一度見た。
その横に、新しい札を置く。
`黒猫とはまだ決めない`
ククルーが、看板を見上げた。
「ぼくの耳より、少し鋭いね」
ネジリはククルーの耳と看板を見比べる。
「でも、少し似ています」
「似ている、は便利だね。便利だから、ときどき棚に置こう」
ククルーの声はいつもの調子だった。けれど、看板の下に刻まれた小さな文字を見た時だけ、しっぽの先が一度止まった。
旅人も、その文字を見た。
`Mi`
たった二つの文字だった。雨の線が通るたび、その後ろに何かが続きそうになる。続きそうになって、すぐ消える。
ミ。
ミャ。
ミャオ。
名前になりそうな音が、先に口へ来そうだった。
旅人は口を閉じ、小札へ書いた。
`Mi、と読めた`
その横に、もう一枚。
`名前にしたくなった`
看板の下の戸が、少しだけ開いた。
「名前にしたくなった、まで置けるなら、入ってもらってもよさそうだね」
声は、看板の奥からではなく、戸の上から降ってきた。
旅人たちは同時に顔を上げた。
透明な屋根の梁の上に、黒猫が座っていた。
いや、黒猫に見える人だった。
小柄な体。細いしっぽ。雨の色を吸い込むような黒い耳。目は金色に見えるが、角度が変わると薄い緑になる。肩から下げた小さな鞄には、細い封筒が何本も差してあった。
黒猫は、梁の上で前足ではなく手を振った。
「あたしはミャオリン。ここでは、そう呼ぶ人が多い」
ネジリがぱっと顔を上げる。
「情報屋さんですか」
「そう呼ぶ人も多い」
ミャオリンは梁から軽く降りた。降りたように見えたが、足音はしなかった。足音のかわりに、鞄の中の封筒が、ささ、と紙の音を立てた。
「でも、最初に言っておくよ。あたしは何でも知ってる黒猫じゃない。知ってるふりが上手に見える時があるだけ」
ククルーが少しだけひげを揺らした。
「それは、かなり正直な情報屋さんだね」
「正直というより、あとで困るのが苦手なんだよ」
ミャオリンは看板の下に降り立ち、戸を大きく開けた。内側から、濡れていないのに濡れたような木の匂いがした。古い掲示板を朝に拭いたような匂い。プロローグでククルーが言った匂いに似ている。
旅人はククルーを見た。
ククルーは匂いに気づいた顔をしたが、何も言わない。旅人も、今は聞かない。
「入る前に、これ」
ミャオリンは鞄から封筒を二本取り出した。
一本は細く、端が青く光っている。
もう一本は同じ細さだが、端が光っていない。光っていないのに、封筒の紙が少し厚く見える。
「速い封筒と、遅い封筒」
ネジリがすぐ言った。
「どちらがよいのですか」
ミャオリンは、にっと笑った。
「早いね」
ネジリは口を押さえた。
「また速かったです」
「悪くないよ。速く聞かれると、あたしも速く答えたくなる。だから、先に置く」
ミャオリンは戸口の横に、低い棚を引き出した。棚は三段ある。上段には青い封筒、中段には光っていない封筒、下段には空の皿が置かれている。
「速い封筒は、すぐ届く。遅い封筒は、届く前に相手の返事の場所を整える。下の皿は、どっちにもまだしない手を置くところ」
旅人は下の皿を見た。
何もない。
何もないのに、いちばん見られている場所に思えた。
「空の皿が、いちばん低い」
旅人が言うと、ミャオリンは目を細めた。
「よく見るね。低いところに置かないと、みんな封筒ばかり見ちゃうから」
教授がうなずいた。
「さっき見た雨見台の真ん中に近い」
ミャオリンは教授を見た。
「真ん中を見たんだ。じゃあ、雨見の子たち、少しゆっくり笑った?」
「はい」
ネジリが答える。
「親切が座りました」
ミャオリンは一瞬まばたきし、それから声を出して笑った。
「そりゃいい。親切が座れるなら、封筒も座れる」
ククルーが小さく言う。
「お茶も出せるよ」
「出せるよ。情報屋だからね」
ミャオリンは戸の内側へ手を伸ばし、小さな湯のみを四つ、棚の横へ並べた。湯気はない。代わりに、湯のみの縁が雨の色を受けて、短く光る。
「飲まなくていいお茶。手が急いでる時、湯のみを見て一拍置くためのやつ」
ネジリは真剣に湯のみを見た。
「飲まないのに、お茶ですか」
「そう呼ぶ人が多い」
ミャオリンは同じ言い方で答えた。
旅人は、低い棚の下段へ、持ってきた札を置いた。
`使う前の遅らせる札`
ミャオリンの耳が、わずかに動いた。
「それをここまで持ってきたんだ」
「使う前を見たかった」
「いいね。遅らせる札は、使うとちょっと気持ちがよくなる時がある。速い知らせを止めた気がするから」
「止めた気がする」
旅人は繰り返した。
ミャオリンは、遅い封筒を棚の中段に戻した。
「でも、遅らせるのは止めることじゃない。相手の返事の場所を先に作ること。そこを間違えると、遅い封筒は隠す封筒に見える」
ククルーの鈴は鳴らなかった。
鳴らなかったのに、旅人には、雨音の中に一拍の間があるように感じた。
ミャオリンはククルーを見た。
見たが、何も言わない。
その何も言わない手つきが、情報屋らしく見えた。見えたが、それもまだ札にしない。
「入って」
ミャオリンは戸口の内側を指した。
「ただし、入口で一つだけ。ここで見たものを、ぜんぶ説明にしない。説明はよく飛ぶ。飛ぶと、先に着いて、あとから来る気持ちの席を取る」
「席を取るのは困ります」
ネジリが言う。
「椅子取り競争になります」
ククルーが旅人を見て、少し笑った。
ミャオリンは、棚の下段にもう一枚札を置いた。
`説明が先に席を取る`
その横に、旅人が置く。
`戻れる席を棚にも作る`
情報屋の中は、思ったより明るかった。
壁一面に棚がある。封筒の棚、札の棚、空白の棚、まだ名札のない棚。棚と棚の間には、細い紙帯がゆるく渡してあり、ネオン雨が外を通るたび、紙帯の端が小さく光る。
棚の中央には、椅子ではなく低い丸布が敷かれていた。
「戻れる席」
旅人は言った。
ミャオリンは、少しだけ驚いた顔をした。
「ああ、そこまで持ってきてるんだね」
「席そのものは持っていません」
ネジリが説明した。
「手順を持っています」
「いいね、手順持ち。じゃあ、この丸布は、戻れる席のまねごと。見た情報をすぐ棚へ入れず、一回座らせる」
旅人は丸布の前に立った。
座るためのものではなく、情報を座らせるための場所。
そう聞くと、布の真ん中が少し低く見えた。
「ここに、何を置く?」
ミャオリンが聞いた。
旅人は、すぐには答えない。
速い封筒。
遅い封筒。
使う前の遅らせる札。
説明が先に席を取る。
黒猫のような看板。
ミャオリン。
どれも置きたい。どれも、置くと何かが進みそうに見える。
旅人は、まず短い知らせ札を置いた。
`情報屋に入った`
それだけでは短すぎる。
その下に、聞き返し札を置く。
`何を見たかは、これから分ける`
ミャオリンは、満足そうにしっぽを揺らした。
「よし。入ったことだけ先に送る。中身はまだ送らない。いい線だ」
「線ですか」
ネジリが聞く。
「いい線、と言いたくなっただけ。線そのものじゃないよ」
ミャオリンはすぐに自分で札を書いた。
`いい線、と言いたくなった`
「自分の言いたくなったも置くんですね」
教授が言うと、ミャオリンは肩をすくめた。
「情報屋が置かないと、誰かがあたしの言葉を正解札にしちゃう」
その言い方は軽かった。
でも、少しだけ苦さがあった。
速く言ったことが、正解のように届く。
それをミャオリンは、何度も見てきたのだろう。
旅人は、そう思った。思ったが、本人の過去として確定しない。
`何度も見てきたように感じた`
札には、それだけ書いた。
ミャオリンはその札を見て、目を細めた。
「感じた、で止めるんだ」
「まだ聞いていない」
「うん。聞かれても、今は言わないけどね」
「言わないのですか」
ネジリが聞く。
「言わない。だって、今のあたしの古い話は、君たちの手元を速くしすぎる」
ミャオリンは、遅い封筒を一本取り出した。
「古い話は、遅い封筒に入れる。届くまでに、返事の場所がいるから」
ククルーが、ほんの少しだけ顔を伏せた。
旅人は見た。
ミャオリンも見た。
それでも、ミャオリンはククルーへ話を振らなかった。遅い封筒を棚へ戻し、空の皿を前へ出す。
「さて。今日はここまでで十分、って言うのは簡単だけど、情報屋としては一つ仕事をする」
「仕事?」
「棚を分ける」
ミャオリンは壁の棚から四枚の木札を取り出した。
`知らせる`
`隠す`
`遅らせる`
`返事待ち`
四枚を床に並べる。
「本番はまだ先。今日は名前だけ。名前だけでも、並べると手が動きたくなる。だから、手も置く」
彼女は四枚の前に、小さな空皿を四つ置いた。
「知らせたい手。隠したい手。遅らせたい手。返事を待つのが怖い手」
ネジリは、四枚を見て息をのんだ。
「隠したい手も、置くのですか」
「置く。置かないと、棚の裏に隠れる」
ミャオリンは、隠す札を軽く指で叩いた。
「ただし、隠すを悪にしない。隠したくなる時はある。守りたい、恥ずかしい、まだ言葉になってない、相手が席を持ってない。いろいろある」
旅人は、四枚の木札を見た。
遅らせるだけではない。
知らせるだけでもない。
隠すと、返事待ちもある。
四つを一つの正解にしないために、四つの皿がある。
ククルーは、返事待ちの皿を見ていた。
その目は、少しだけ遠い。
旅人は、ククルーの隣に空白札を置いた。
`返事待ちを見た`
それ以上は書かない。
ミャオリンは、四枚の木札の上に薄い布をかけた。
「今日は見せすぎた。見せすぎると、ぜんぶ分かった気になる」
「分かっていません」
ネジリが言った。
「うん。それを分かってるのは、いい状態」
ミャオリンは戸口の方を見た。外の雨見台の声が、かすかに届いている。
「次は、反射ログの小路に行く前に、この棚へ戻る。戻れる席があるなら、見たあと戻れる。見たまま走らない」
「反射ログ」
旅人は、その言葉を繰り返しそうになり、止めた。
ミャオリンはにやりとする。
「言いたくなった?」
旅人はうなずき、札に書いた。
`反射ログ、と言いたくなった`
「よし。まだ小路には行かない」
ミャオリンは黒猫のような耳を少し伏せた。
「今日は、情報屋に入った。封筒を見た。棚の名前を見た。戻れる席を棚にも作った。それで十分」
十分。
その言葉は、今度は急がせなかった。
旅人は、丸布の中央に置いた短い知らせ札を見た。
`情報屋に入った`
その下の聞き返し札。
`何を見たかは、これから分ける`
ここまでなら、送ってもよい。
そう思った。
ミャオリンは、速い封筒を指で示した。
「送る?」
旅人は首を横に振った。
次に、遅い封筒を示す。
「こっち?」
旅人は少し考えた。
遅い封筒に入れるほど、まだ相手がいるわけではない。
返事を待つ場所はある。
でも、届け先を急いで決めたくない。
旅人は、空の皿を選んだ。
ミャオリンは、うれしそうに笑った。
「そう。今日は、封筒に入れないで皿に置く。情報屋としては、少し商売にならないけど、いい判断だ」
「商売にならないのですか」
ネジリが心配そうに聞く。
「なる時もある。ならない時もある。ならない方が、あとで信頼になる時もある」
ミャオリンは、空の皿を丸布の中央へ移した。
「ようこそ、黒猫の情報屋へ。ここでは、知らないことも棚に置ける」
旅人は、その言葉をすぐ書きたくなった。
よい言葉だから。
覚えておきたいから。
でも、よい言葉ほど速く届く。
旅人は少し待ち、それから小札に書いた。
`知らないことも棚に置ける、と聞いた`
ククルーが、その札を見て、静かに目を細めた。
「知らないことも置ける棚なんだね」
ミャオリンは、ククルーを見た。
「よい棚だよ。使うには、ちょっと勇気がいるけどね」
ククルーは答えなかった。
答えないまま、返事待ちの皿をもう一度見た。
旅人は、それ以上聞かなかった。
聞き返せる場所はある。
今、聞き返さないことも、場所をなくすことではない。
情報屋の濡れた看板の外で、ネオン雨が短く鳴った。雨音のように、信号音のように。
ミャオリンの棚の中では、速い封筒と遅い封筒が、同じ高さではなく、別々の高さで静かに光っていた。
その光が落ち着くまで、ミャオリンは誰も帰そうとしなかった。
「もう一つだけ、情報屋らしくない仕事をする」
ネジリが、少し身構えた。
「らしくないのですか」
「らしくない。情報屋は、ふつうは情報を渡すところだと思われている。でも、渡さない練習をする場所でもある」
ミャオリンは、棚の下から小さな木箱を引き出した。
木箱には、ふたがない。
中には、なにも入っていない。
ただ、底に薄い線が何本も彫られていた。線はまっすぐではなく、途中で止まったり、少し戻ったり、隣の線に寄り添ったりしている。
「これは?」
旅人が聞く。
「未送信箱」
ミャオリンは、さらりと言った。
「送らなかった知らせを入れる箱。もちろん、本当に入れるわけじゃない。送らなかった手をここへ置く」
ネジリは、速い封筒を見た。
「送らなかったことも、記録するのですか」
「記録する。送らなかったことを忘れると、あとで自分がやさしかった気になるから」
ミャオリンの声は軽かった。
けれど、軽いままでは通り過ぎられない言葉だった。
旅人は、未送信箱の底の線を見た。
送らなかった知らせ。
それは、隠したことと同じではない。
遅らせたこととも、返事待ちにしたこととも違う。
今は送らない。
その手が、あとで自分を正しい人に見せるかもしれない。
旅人は札を書いた。
`送らなかった手も棚に置く`
ミャオリンは満足そうにうなずいた。
「そう。棚に置く。胸の奥の、いちばん見えないところへしまわない」
ククルーが、未送信箱を見た。
「送らなかったことを、えらいことにしないためだね」
「うん。さすがククルー」
ミャオリンは言ったあと、すぐに手を振った。
「今のは速かった。ほめ言葉も、速い時がある」
ククルーは少し目を丸くした。
「ほめ言葉も?」
「ほめ言葉は、相手の席を埋めることがある。だから、ここではほめたくなった手も置く」
ミャオリンは、未送信箱の横にもう一つ、丸い小皿を置いた。
皿の縁には、金色でも銀色でもない、雨の色の線が引かれている。
「ほめたい皿」
ネジリが、ぱっと笑った。
「それは、いい皿です」
「いい皿って言いたくなった手も、置ける」
ミャオリンが返すと、ネジリは口を押さえた。
旅人は少し笑った。
けれど、その笑いも、すぐに札へはしない。
笑ったことを送る必要はない。
ここにいる人たちには、もう届いている。
ミャオリンは、ほめたい皿へ細い布を敷いた。
「情報は、困った知らせだけじゃない。ほめる、安心させる、だいじょうぶと言う、すごいと言う。そういう言葉も、速いと相手の返事をつぶす」
教授は、腕を組んで聞いていた。
「肯定も、検証の前に結論になり得る」
「教授の言い方だと、急に研究室になるね」
ククルーが小さく言う。
教授は、申し訳なさそうに笑った。
「でも、近いね」
旅人は、ほめたい皿の前に札を置いた。
`よいと言いたくなった手`
それから、未送信箱の前にも札を置く。
`送らないと決めた手ではない`
ミャオリンは、その札を見て、耳をぴくりと動かした。
「いい。送らないと決めるのも速い。今は、送る前の手を見ただけ」
旅人は、情報屋の棚全体を見た。
速い封筒。
遅い封筒。
四つの木札。
四つの空皿。
未送信箱。
ほめたい皿。
戻れる席。
知らないことを置ける棚。
こんなにたくさん置き場所があるのに、まだ何も分かっていない。
それが、少し安心だった。
分かっていないことが、床に落ちて踏まれるのではなく、棚に置かれている。
旅人は、最後にもう一枚だけ札を書いた。
`分からないまま置けると、少し息ができる`
ククルーが、その札を見て、深く息を吸った。
吸っただけで、何も言わなかった。
旅人も聞かなかった。
ミャオリンは、棚の薄布を下ろした。
「今度こそ、今日はここまで」
外の雨音が、店の中へ細く入ってくる。
情報屋の濡れた看板は、まだ光っている。
でも旅人は、その光を知らせとして送らなかった。
未送信箱の底に彫られた線が、送られなかった言葉のために、低く残っていた。




