第13巻 ネオン雨の情報屋 第2章 速すぎる親切
反射路地を少し進むと、屋根の影が明るくなった。
屋根の上を、雨のような信号がいくつも滑っている。青い線が先に行き、薄い緑が追い、白に近い桃色が少し遅れて端に残る。残った色は、すぐ消えない。消えないまま、次の知らせの下敷きになる。
旅人は、短い知らせ札を指で押さえた。
`入口にいる`
さっき箱へ入れた札は、もう手元にはない。けれど、掲示板の端に増えた小さな点が、その札の分だけ残っている。点は知らせの跡のようにも見えるし、返事を待つ目印のようにも見える。
「届いたのでしょうか」
ネジリが聞いた。
シオンは、すぐには答えなかった。
「入口の掲示には、置かれました」
「届いた、ではないのですか」
「届いた、と言える時もあります。でも、ここではまず、置かれた、です」
ネジリは小さくうなずき、札を一枚出した。
`置かれた`
その横に、旅人が書く。
`届いたかは、まだ聞いていない`
ククルーは二枚の札を見て、ひげを揺らした。
「届いたと言いたくなる点だね。とても点らしいね」
「点らしい、とは何ですか」
「小さいのに、こちらを急がせるところだね」
ネジリは、掲示板の点をじっと見た。
「小さいのに、急がせます」
その時、路地の奥から、細い笑い声が重なって聞こえた。
雨音のように細かい。
でも、雨音ではない。
子どもたちの声だった。
透明な屋根の下に、丸い低台がいくつか置かれている。低台の上には、色を受ける薄い皿があり、皿のふちに小さな穴が並んでいた。子どもたちはその穴へ短い知らせ札を差し込み、ネオン雨が通るたびに、札の端が光るのを見ている。
「雨見台です」
シオンが言った。
「雨を見るところですか」
ネジリが聞く。
「雨を見る人もいます。知らせを見る人もいます。遊びにする人もいます」
低台の近くにいた子どもが、こちらに気づいた。丸い耳をぴんと立てた子もいれば、髪に光る紐を結んだ子もいる。種族は一つではない。みんな、手に短い知らせ札を持っていた。
「入口の人だ」
一人が言った。
「入口にいる、って出てた」
「こっちこっち。右の屋根はまだ直ってないよ」
「雨見台、いま二つ空いた」
「黒猫の看板はあとでだよ」
知らせが、一度に来た。
どれも親切だった。
右の屋根を教えてくれる。空いた台を教えてくれる。黒猫の看板を今見なくてよいと教えてくれる。
親切だ。
そう思った瞬間、旅人の手の中で、聞き返し札の空白が少し薄くなったように見えた。
「待って」
旅人は声を出した。
強くはない。
止める声ではなく、置くための声にした。
子どもたちは、ぴたりと黙った。黙ったが、驚いた顔ではない。むしろ、何を聞き返されるのか待っている顔だった。
ククルーが、旅人の横で小さくうなずいた。
「止める声じゃなく、置くための声だったね」
旅人は短い知らせ札を三枚出した。
`右の屋根`
`雨見台`
`黒猫の看板`
三枚を低い順に並べる。それから、それぞれの下に空白の聞き返し札を置いた。
「一つずつ聞きたい」
光る紐の子が、ぱっと笑った。
「一つずつでもいいよ」
丸い耳の子が、少し首をかしげた。
「でも、一つずつだと遅いよ」
「遅いと、誰かが先に知っちゃう」
「先に知ってもらうために知らせるんだよ」
三人の言葉は、また重なりそうになった。重なる前に、ネジリが両手を上げた。
「一つずつ、です」
子どもたちは、ネジリを見た。
ネジリは、少しだけ照れながら続ける。
「ぼくは、今、どれも親切だと思いました。でも、どれへ返事をしたらよいか分からなくなりました」
子どもたちは顔を見合わせた。
光る紐の子が、自分の知らせ札を見た。
「返事?」
丸い耳の子が言う。
「入口の人が迷わないように言っただけだよ」
「うん。困る前に知らせた」
「困る前に知らせるのは、いいことだよ」
旅人はうなずいた。
「いいことに見えた」
その言葉を、すぐに言い直す。
「親切に見えた」
ククルーが、そっと札を置いた。
`親切に見えた`
その横へ、教授が書く。
`返事の場所が見えにくくなった`
二枚の札の間に、雨の色が落ちた。落ちたように見え、すぐ横へ流れる。流れたあと、子どもたちの表情が少し変わった。責められた顔ではない。見たことのない札を見た顔だった。
「返事の場所」
光る紐の子が、小さく言った。
「知らせたら、返事はいるの?」
シオンは答えかけ、やめた。旅人を見た。
旅人は、短い知らせ札を一枚持ち上げた。
「いる時もある」
「いらない時もある?」
「あると思う」
「どうやって分けるの」
子どもたちの目が、いっせいに旅人へ向いた。答えを求める目ではない。新しい遊びのやり方を聞く目に近い。
旅人は、すぐには答えなかった。
すぐ答えたら、また速い親切になる。
ククルーが小さく咳払いした。
「分け方を今ぜんぶ言うと、とても親切になりすぎるね」
子どもたちは笑った。
旅人も少し笑い、雨見台の低い皿を見た。皿のふちには、短い知らせ札を差す穴が並んでいる。穴はたくさんある。たくさんあるから、いくらでも知らせられそうに見える。
だが、皿の真ん中には、穴がない。
何も置かれていない丸い場所がある。
「そこは何を置くところ?」
旅人が聞くと、丸い耳の子が答えた。
「そこは、雨を見るところ」
光る紐の子が付け足す。
「札を差すと、端が光るでしょ。真ん中は、光った端を見すぎないための場所」
「見すぎないため?」
ネジリが聞いた。
「端ばっかり見ると、どの札が光ったか競争になるから」
「競争にはしません」
ネジリがすぐ言うと、子どもたちは笑った。
ククルーもひげを揺らした。
「その言葉、ここに届いたね」
旅人は、雨見台の真ん中に空白の札を置いた。
`真ん中の空き`
その下に、もう一枚。
`光った端を見すぎない`
子どもたちの一人が、ふいに真剣な顔になった。
「でも、早く知らせないと、雨見台が空いたのに、誰かが知らないまま通りすぎるよ」
「右の屋根だって、近くまで行ってから知ったら困るよ」
「黒猫の看板は、あとでって出てたから、今行ったら迷うかもしれない」
どれも、やはり親切だった。
旅人は、それを悪いものにしたくなかった。
速いから悪い。
短いから悪い。
そう書くと、知らせた手が見えなくなる。
旅人は、三枚の知らせ札をもう一度見た。
`右の屋根`
`雨見台`
`黒猫の看板`
それぞれの下に、聞き返し札がある。
「右の屋根は、何が困るの?」
丸い耳の子が答えた。
「屋根の端が低い。大人は頭をぶつける」
「子どもは?」
「くぐれる」
「じゃあ、右の屋根は危ない、ではない?」
子どもは少し考えた。
「大人には、頭に注意」
旅人は札を書き直した。
`右の屋根: 大人は頭に注意`
子どもたちは、おお、と声を上げた。
「長くなった」
「でも分かりやすい」
「遠くまでは届きにくいよ」
シオンが言う。
「届きにくい時は、届ける範囲を狭くする手があります」
雨見台の横に、小さな輪が置かれていた。細い光の輪で、手首にはめるほどの大きさではない。札のまわりに置くと、札の端だけが光った。
「範囲輪です」
「範囲を決める輪ですか」
「決めたくなる輪です」
シオンはそう言い直した。
「正しくは、知らせを遠くへ飛ばしすぎないための輪です。近くにいる人へだけ、短く光らせます」
旅人は、右の屋根の札に範囲輪を置いた。札は遠くへ飛ばない。ただ、右の屋根の近くの床だけが、ぽつんと光った。
「これなら、大人が近くへ来た時に分かる」
丸い耳の子が言った。
「子どもには?」
「子どもは、くぐれる。でも、大人と一緒にいる子には、知らせたい」
光る紐の子は、自分の短い知らせ札に小さく書いた。
`大人と一緒なら頭に注意`
それを見て、ネジリが拍手しそうになり、途中で止めた。
「拍手は速いですか」
「今の拍手は、たぶん大丈夫だね」
ククルーが言った。
ネジリは小さく拍手した。子どもたちは笑った。
次に、雨見台の札を見る。
「雨見台が二つ空いた、は?」
光る紐の子が勢いよく答える。
「見たい人に知らせたい」
「誰が見たいか、知っている?」
「えっと、知らない」
「じゃあ、見たい人はいるかもしれない、と知らせる?」
「長い」
「長いね」
旅人は、少し考えた。
長い知らせは、悪いわけではない。
短い知らせも、悪いわけではない。
ただ、短くすると落ちるものがある。
旅人は聞き返し札を一枚取った。
`見たい人はいますか`
それを、雨見台の真ん中の空きへ置く。
すると、皿のふちに差してあった札のいくつかが、ゆっくり光った。
光った札の持ち主たちが、少し手を上げる。
「見たい」
「あとで見たい」
「今はいい」
声が分かれた。
分かれたから、急がなくてよくなった。
丸い耳の子が、口を半分開けたまま、雨見台を見た。
「聞いたら、速くなくてもよかった」
「聞くのも速くできるよ」
別の子が言う。
「でも、聞くと、返事が来るまで空く」
光る紐の子は、皿の真ん中を見た。
「空くの、ちょっとこわい」
その言葉は、雨の音より小さかった。
旅人は聞き逃さなかった。
ククルーも聞いた。耳が少し動いたが、今度は湿った音はしない。
「空くのがこわい時があるね」
ククルーが言った。
「すぐ知らせると、空かないように見えるね」
子どもたちは、静かになった。
すぐ知らせると、空かない。
誰かが困る前に、こちらが言える。
誰かが聞き返す前に、こちらが埋められる。
それは親切に見える。
たしかに、親切でもある。
旅人は、遅らせる札を取り出した。第12巻から持ってきた札だ。ネオンシャの色に当てると、端が少しだけ青くなる。
子どもたちは、その札を見た。
「遅らせるの?」
「知らせないの?」
「それは、困る前に言わないってこと?」
三つの声が重なりかける。
旅人は札を持ったまま、手を止めた。
使う前。
ここで遅らせる札を使えば、きっと何かは落ち着く。だが、落ち着いたことにしてしまうかもしれない。
旅人は、遅らせる札を雨見台の真ん中へ置かず、真ん中の手前へ置いた。
`使う前`
その横に、聞き返し札を置く。
`遅らせると、何が残るか`
教授が、静かにうなずいた。
シオンは、雨見台の縁に手を置いた。
「入口でここまで見られれば、情報屋の棚へ行けます」
「情報屋」
ネジリが言った。
黒猫のような看板の `あとで` が、旅人の目の奥に戻ってきた。
ミャオリン。
その名はまだ、声にしない。
ここでは、黒猫の情報屋がいるらしい、まででよい。
子どもたちは、遅らせる札の前に集まっている。怖がっている子もいる。面白そうに見ている子もいる。自分の短い知らせ札を裏返して、落とした言葉を探している子もいる。
雨見台の端に座っていた小さな子が、まだ何も言わずに札を握っていた。
札は、濡れていないのに端が少し曲がっている。
強く握ったのだと分かる。
旅人は、その子を急がせないよう、目を合わせすぎない場所に視線を置いた。
ククルーが、低い声で言う。
「言わない札も、台に乗れるかな」
シオンは少し考えた。
「乗れるよ。ただ、雨見台では見えやすくなるね。見えやすくなるのがいやな時は、横の小さな台を使うんだ」
雨見台の横には、たしかに小さな台があった。
飾り台のように見えていた。
けれど、そこには細い溝が一つだけあり、札を寝かせられる幅がある。
`言わない札台`
文字は、雨が通った時だけ淡く見えた。
小さな子は、札を握ったまま、その台を見た。
「言わなくても、置いていいの」
「いいよ」
光る紐の子が先に答えかけて、口を閉じた。
それから、旅人の方を見る。
「いいよ、って言ってもいい?」
旅人はすぐに答えない。
言ってもいいかどうかを、旅人が決める場所ではない。
シオンが膝をつき、子どもたちと同じ高さで言った。
「言ってもいい。でも、言われた人が置くかどうかは、その人が決めます」
光る紐の子は、うなずいた。
「いいよ。でも、置かなくてもいいよ」
小さな子は、握っていた札を少しだけ開いた。
旅人には文字は見えない。
見えなくてよい。
札は言わない札台の溝へ、そっと置かれた。
雨見台の真ん中ではない。
横の、小さな台。
誰にも読まれない高さ。
でも、落ちてはいない場所。
ネジリは、その台を見て、目を丸くした。
「親切は、見えるようにしてあげた方がいいと思っていました」
丸い耳の子が、少し困った顔をする。
「見えないと、気づけないよ」
「気づきたい手も、親切だね」
ククルーが言った。
「でも、気づかれたくない手も、ここにいるかもしれないね」
雨見台の上の色が、一度だけ薄くなった。
薄くなったことで、台の真ん中の空きがよく見えた。
旅人は札を書いた。
`気づきたい手`
もう一枚。
`気づかれたくない手`
二枚を、雨見台の真ん中ではなく、真ん中の少し外へ置く。
そこに置くと、子どもたちの顔が少しゆるんだ。
親切をやめるのではない。
親切が届く前に、相手の場所を見ようとする。
それは、速さを否定することではなかった。
むしろ、速い子どもたちの手が、相手の場所へぶつからないよう、ほんの少し曲がることだった。
小さな子が、言わない札台から手を離した。
「言わない札、あとで言うかもしれない」
シオンがうなずく。
「その時は、聞き返し札を使えます」
「言わないままでも?」
「言わないままでも、台に置いたことは消えません」
小さな子は、安心したようには笑わなかった。
けれど、握っていた指がほどけた。
旅人は、それを笑顔に変えない。
`指がほどけた`
そう書きたい手だけを、胸の中に置く。
光る紐の子が、小さく言った。
「速いと、助けた気がする」
丸い耳の子が続ける。
「返事を待つと、助ける前みたいで落ち着かない」
旅人は、その二つを札にした。
`速いと、助けた気がする`
`返事を待つと、助ける前みたいで落ち着かない`
どちらも責めない。
どちらも置く。
雨見台の真ん中の空きは、さっきより広く見えた。実際には広がっていない。置いた札の間に、目が入れる場所ができただけだ。
ククルーは、その空きを見て言った。
「親切は、走れるね。歩くこともできるし、座ることも、たまにはできるよ」
「親切が座るのかな」
ネジリが聞く。
「はい。座る親切は、なかなかよいものです。お茶も出せます」
子どもたちは笑った。
さっきより、ゆっくり笑った。
その笑いの間に、雨見台の端で小さな知らせ札が光った。
`見たい人はいますか`
返事が、ぽつぽつと返ってくる。
`今見る`
`あとで`
`一緒なら見る`
`今日は見ない`
短い。
でも、短いだけではない。
それぞれの後ろに、聞き返せる空きが残っている。
旅人は、遅らせる札をまだ使わないまま、真ん中の手前に置いた。
「これは、持って行く」
「使わないのですか」
ネジリが聞く。
「今は、使う前を見る」
ククルーがうなずいた。
「使う前を見る場所まで持ってきたんだね」
シオンは、反射路地の奥を示した。黒猫のような看板が、今度は雨の色を受けても光らない。ただ、濡れた板の端が、少しだけ黒く残っている。
「この先に、知らせを分ける棚があります」
「情報屋の棚ですか」
ネジリが聞く。
シオンは微笑んだ。
「そう呼ぶ人がいます」
旅人は、遅らせる札と聞き返し札を重ねず、少し離して持った。
速い親切。
返事の空き。
使う前の遅らせる札。
雨見台の真ん中。
どれもまだ、答えではない。
けれど、答えにしたくなる手を、少しだけ休ませる場所にはなった。
子どもたちは、また短い知らせ札を差し始めた。今度は、差す前に真ん中を見る子が増えた。誰かのために速く知らせたい手は消えていない。消えなくてよい。
ただ、知らせる前に、返事の場所を少し見る。
それだけで、親切の速さは、少し違う光り方をした。
旅人たちは雨見台を離れた。
背中側で、子どもたちの声がまた聞こえる。
「見たい人はいますか」
「右の屋根、大人は頭に注意」
「あとで見る人、札こっち」
声はまだ速い。
でも、返事を待つための小さな間が、声と声の間に入っていた。
旅人は、その間を聞きながら、黒猫のような看板の方へ歩いた。
看板はまだ読めない。
読めないまま、こちらを待っているように見えた。




