第13巻 ネオン雨の情報屋 第9章 過去らしき映像
返事待ち回線の入口は、手に持つと糸ではなかった。
糸のように細いのに、引くと音がする。音といっても、鳴るのではない。引いた手の中で、まだ返事が来ていない場所が少し冷たくなる。
ミャオリンは、それを旅人の手首へ結ばなかった。
結びたくなる手を見て、すぐに首を横へ振った。
「手首に結ぶと、持ち主が決まる」
「持ち主ではないのですか」
ネジリが聞いた。
「入口だよ。入口を持った人が、全部の声の持ち主になるわけじゃない」
ミャオリンは返事待ち回線の端を、丸布の上へ置いた。もう一方の端は、閉じない遅い封筒の口の横に置く。封筒はまだ閉じていない。中に入った声は、入ったことだけを分かるようにして、外へ向かって開いている。
旅人は自分の手首を見た。
結ばれなかった場所が、少し軽い。
軽いのに、少しさびしい。
ミャオリンはそれを見て、細い布を一枚出した。
雨に濡れていないのに、色が変わる布だった。見る角度で、青にも銀にも、少しだけ黒にも見える。
「見た手の紐」
ミャオリンは言った。
「映像じゃなくて、見たあとに動いた手をここへ結ぶ」
旅人はうなずいた。
うなずきながら、もう見たいと思っていた。
その手を、まだ布へ結ばない。
見たいと思ったことだけを、白い皿へ置く。
`見たいと思った`
短く書くと、言葉は軽すぎる。
けれど、重く書こうとすると、理由が先に来る。
だから旅人は、その札を裏返しにして皿へ置いた。字は見えない。でも、そこにある。
ククルーは札を見なかった。
見ないようにしたのではない。
見る場所が少し横へずれた。
旅人はそれを書かなかった。
まだ、書く前に見る。
情報屋の外へ出ると、ネオン雨は細くなっていた。
雨というより、街のどこかで解けた糸が空から降っているようだった。足あと灯は一つずつ遅れて光り、濡れた掲示板は短い知らせを急がずににじませている。
反射ログの小路へ戻る道で、ミャオリンは案内輪を鳴らさなかった。
「今日は鳴らさない」
「なぜですか」
教授が聞いた。
「鳴ると、見に来た感じになる」
ミャオリンは肩をすくめた。
「今日は、見てしまうものを置きに行く」
見てしまうもの。
その言葉は、旅人の中で少し長く残った。
自分から見に行くのに、見てしまうもの。
矛盾しているようで、矛盾していない。
手は進む。目は止まれない。けれど、意味はまだ進ませなくていい。
反射ログの小路は、前より低く感じた。石の表面に落ちる雨粒が、光を細かく割っている。割れた光は、足もとで短く集まり、また散る。
ミャオリンは雨鏡を出した。
以前見たものより、縁が厚い。
縁には小さな欠けがいくつもあり、欠けのそばにごく小さな印が刻まれていた。文字ではない。読むためではなく、持ち上げる手を遅らせるための印に見える。
「今日は、この鏡を置いたまま見る」
ミャオリンは雨鏡を石の上に寝かせた。
「持つと、自分へ向けたくなるから」
旅人は少しだけ息を止めた。
自分へ向けたい。
その手が、本当にあった。
ミャオリンは旅人を責めない。
ネジリも教授も、ククルーも、何も言わない。
言わない沈黙は、前の濡れた沈黙と同じではない。これは、見た手が座るための沈黙だった。
雨鏡の面に、最初は何も映らなかった。
ただ、上から落ちるネオン雨が、青い点になって流れる。
点は線になり、線は短い廊下のようになった。
廊下の奥に、低い入口が見えた。
入口の横には、濡れた看板のようなものがある。文字は読めない。読めないのに、そこが初めてではない気がした。
旅人の胸の奥が、急に前へ出ようとした。
ミャオリンが、白い皿を少し寄せる。
旅人は、胸の奥の手を皿へ置くつもりで息をした。
映像の中で、小さな影が入口に立っていた。
子どもかもしれない。
背の低い大人かもしれない。
雨で輪郭が溶けているだけかもしれない。
その影は、手に何かを持っていた。封筒に見えた。布にも見えた。薄い本にも見えた。
旅人は、その影を自分に似ていると思った。
思った瞬間、雨鏡の縁が少し曇った。
「止めない」
ミャオリンが低く言う。
「思ったことは止めない。入れる箱を間違えない」
旅人は、本人未満札を取り出した。
手が震えた。
震えたことを、恥ずかしいとは思わなかった。震える手も、今日の情報だ。
札には、まだ何も書かれていない。
旅人は筆を持つ。
`自分に似ていると思った`
そこまで書いて、止まった。
自分とは誰だろう。
それを書き足したくなる。
でも、書き足した言葉は、映像より早く走る。
旅人は筆を置いた。
本人未満札を、雨鏡のそばではなく、見た手の紐の横へ置く。
「そこ?」
ネジリが小さく言った。
旅人はうなずいた。
「映像の横だと、映像がそう言ったみたいになる」
ネジリは、目を丸くした。
「ああ」
分かった声ではなく、今分けた声だった。
雨鏡の中で、入口の影がこちらを向いたように見えた。
顔は見えない。
それでも、こちらを向いたように見える。
ククルーの鈴が、鳴らなかった。
鳴らなかったのに、旅人は鈴の場所を見た。
ククルーは、雨鏡を見ていなかった。
小路の端の、何も映っていない濡れた石を見ていた。
ミャオリンも、それに気づいている。
でも言わない。
ククルーは、ゆっくりまばたきをした。
「見えたものは、見えたものです」
声はやわらかい。
やわらかいまま、少し遠い。
「それ以上のことは、まだ、言わなくていいと思います」
旅人は、その言葉を聞いて、鈴の音が鳴らなかったことも札にしたくなった。
しかし、鳴らなかった音を書くのは難しい。
`鳴らなかった`
そう書くと、鳴るはずだったと言っているようになる。
だから旅人は、別の小さな札を作った。
`ククルーは、濡れた石を見た`
それをククルーの前に置かない。
返事待ち回線の入口へ置く。
ククルーが今返事をしなくても、あとで戻れるように。
雨鏡の中で、廊下が伸びた。
奥に、いくつもの灯りが並ぶ。
灯りは七つに見えた。
すぐに旅人の心が動いた。
七つ。
七つの大陸。
七つの世界樹。
七つの灯りが並ぶなら、そこには何か大きな意味があるのかもしれない。
旅人は、意味へ走りかけた手を、走る前の足板へ置くように、足の裏で石を感じた。
灯りは、次の雨粒で六つに見えた。
その次には八つに見えた。
さらに次には、灯りではなく、濡れた窓の端だった。
ネジリが小さく息を吐いた。
「数えたくなる」
「数えたくなるね」
教授が言った。
教授の声には、少し笑いがあった。自分も数えたかった人の笑いだった。
ミャオリンは、似ている棚という低い箱を出した。
箱というより、浅い段差だ。
そこには札が三枚だけ入る。
`似ている`
`近い`
`同じではない`
三枚とも、正解の札には見えない。置いたあとに、もう一度見るための札だった。
旅人は、灯りの数をそこへ置かなかった。
数を置くと、数が先に働く。
代わりに、こう書いた。
`七つに見えたあと、六つにも八つにも見えた`
その札を、似ている棚の前に置く。
まだ棚の中には入れない。
ミャオリンは口の端だけで笑った。
「棚の前が増えてきた」
「増えてはいけない?」
「いい。棚に入れる前の場所があると、棚は威張りにくい」
雨鏡の映像は、もう一度揺れた。
入口の影が、何かを差し出す。
その先に、別の小さな手が見えた。
二つの手は触れない。
触れないまま、間に薄い光がある。
旅人は、その光を見た時、なぜか「行って」と言われた気がした。
声は聞こえない。
口も見えない。
それなのに、言葉が浮かぶ。
旅人はすぐに聞こえた音の皿を見た。
皿は空だった。
何も聞こえていない。
聞こえていないのに、言葉が浮かんだ。
だから旅人は、思いついた言葉の皿を出して、そこに置いた。
`行って、と言われた気がした`
書き終えてから、札の下に小さく線を引く。
線の下に、もう一つ書く。
`声は聞こえていない`
その二行が一緒にあると、少し苦しい。
けれど、苦しいまま置ける。
ミャオリンはそれを見て、閉じない遅い封筒の口を少しだけ広げた。
「その札は、今日は送らない。隠さない。遅らせる」
旅人はうなずいた。
「返事待ちは?」
「開けておく」
ミャオリンは返事待ち回線の入口に、見た手の紐をそっと添えた。
紐は結ばれない。
添えられただけで、雨鏡の中の薄い光が一度だけ揺れた。
揺れたのは映像かもしれない。
こちらの手かもしれない。
どちらかにはしない。
小路の向こうで、濡れた掲示板が短く光った。
`ここ`
一文字だけだった。
第七の灯りでも、入口の名前でも、旅人の場所でもない。
ただ、ここ。
旅人はその文字を見て、胸の奥がまた前へ出ようとするのを感じた。
ここが、どこか。
ここに、誰がいたのか。
ここから、誰が行ったのか。
問いは三つに分かれた。
三つとも大きい。
大きい問いは、大きい札に書きたくなる。
でも、今日は大きい札を出さない。
旅人は、小さな札を三枚作った。
`ここが、どこか`
`ここに、誰がいたのか`
`ここから、誰が行ったのか`
三枚を重ねず、返事待ち回線の入口の前に並べる。
ククルーが、その三枚を見た。
今度は、見た。
「三つを一つにせず、入口の前へ並べたんだね」
そう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「全部を一つにすると、早くなります」
旅人は、ククルーの声を聞いた。
早くなる、という言葉の中に、昔から知っている痛みのようなものがあった。
昔とは書かない。
知っているとも書かない。
旅人はただ、札を作った。
`全部を一つにすると、早くなる、とククルーが言った`
それを、ククルーの説明札にはしない。
ククルーの説明にも、旅人の過去にも入れない。
返事待ちの箱へ置く。
雨鏡の映像は、そこで消えた。
消えたというより、雨粒が増えて、見える場所がなくなった。
ミャオリンは雨鏡をすぐに拭かなかった。
「もう一度見たい?」
旅人は、はい、と言いそうになった。
言いそうになった手を、見た手の紐へそっと触れさせる。
紐は結ばれていない。
だから、触れても戻れる。
「見たい」
旅人は言った。
「でも、もう一度見れば分かるとは思わない」
ミャオリンは、今度ははっきり笑った。
「それなら、今日はここまで」
ネジリが驚いた。
「ここまでなの?」
「ここまで。見えたものが乾く前に、札を置く」
雨鏡の水面はまだ揺れている。
旅人は、本人未満札、思いついた言葉の皿、聞こえていない札、三つのここ札、ククルーが濡れた石を見た札を、順に見た。
どれも答えではない。
けれど、どれもなかったことではない。
情報屋へ戻る道で、足あと灯が旅人の歩いた場所を遅れて光らせた。
光は、前へ進む印にも、戻れる印にも見えた。
旅人は決めなかった。
閉じない遅い封筒は、まだ開いている。
返事待ち回線の入口には、三つの `ここ` が並んでいる。
ククルーは、いつものように旅人の少し前を歩いた。
ただ、鈴は鳴らなかった。
鳴らない鈴を、旅人は追いかけない。
追いかけないまま、次に信号を消さない夜が来るのだと、ネオン雨だけが先に知っているように光っていた。




