第13巻 ネオン雨の情報屋 プロローグ 雨に見えた信号
雨は、まだ雨と呼ばれる前に、色を持っていた。
飛空艇の窓の外で遠く揺れていた色は、地上へ近づくほど、細い線に分かれた。青。薄い緑。白に近い桃色。どれも水の線のように落ちている。けれど、落ちる途中で一度止まり、横へ流れ、また別の色になって下りていく。
旅人は、窓から目を離さなかった。
見えたから、もう着いた。
その言葉は、空へ持っていかない言葉の袋の中に入れてある。袋は低い台の横で、少しだけ重くなっていた。
でも、袋に入れたからといって、見えたものが消えるわけではない。
見える。
まだ見える。
だからこそ、もう一度、手前から見る必要があった。
シオンは、飛空艇の降下灯を消さないまま、灯りの向きを低くしていた。灯りは窓の外ではなく、低い台の上を照らしている。
`雨の手前`
`遅らせる札`
`送る前に、届いたあとを見る`
`届いたあとに、聞き返せる場所を残す`
`戻れる席`
五つの札は、灯りの中で静かに並んでいた。
ネジリは、そのうちの `戻れる席` を何度も見ていた。
「席は、持って降りるのですか」
「席そのものは持てません」
教授が答えた。
「でも、席を作る手順は持てます」
ククルーは、袋の口を軽く押さえた。
「席を持ち歩くと、なかなか手間だよ。椅子取り競争みたいになるね」
ネジリは真剣な顔をした。
「競争にはしません」
「競争にしない手が、ここで止まったんだね」
旅人は、窓の外をもう一度見た。
色の線は、近づくほど水のように見える。だが、水滴が窓を打つ音はない。飛空艇の外板に当たる音もない。あるのは、細い信号が遠くで鳴り、鳴ったあとに別の色へほどけるような、かすかな音だった。
雨の音ではない。
信号の音とも、まだ言い切れない。
「降りる前に、名前をつけない方がよさそうです」
旅人が言うと、シオンはうなずいた。
「はい。ネオンシャでは、名前が速く届きます」
ネジリが顔を上げた。
「名前も速いのですか」
「速いです。とくに、見たばかりのものに名前をつける時は」
シオンは、窓の外を見ずに言った。
「ネオン雨、と呼ぶ人もいます。信号雨、と呼ぶ人もいます。色の通信、と呼ぶ人もいます。反射、とだけ言う人もいます」
「どれが正しいのですか」
ネジリが聞きかけ、すぐに口を押さえた。
「今のは、速かったね」
ククルーがひげを揺らした。
「とてもネオンシャらしい速さだね」
その言い方は軽かった。けれど、ククルーの声の奥に、いつもより薄い湿りがあった。
旅人は、それをすぐ聞かなかった。
濡れたように聞こえた。
そう思っただけで、まだ札にはしない。
飛空艇が、ゆっくり高度を落とした。
下には、ネオンシャの外縁が広がっていた。大きな街の中心ではない。光の塔も、電脳樹サイバリアの全体も、ここからは見えない。ただ、浮遊大陸の端に沿って、雨のような線が何本も垂れ、歩廊の縁で色を変えている。
歩廊には、濡れているように見える掲示板があった。
文字が浮かんでいる。
浮かんでは、消える。
消えるのではない。薄くなる。
薄くなったあと、別の文字が上から重なる。
旅人は、まだ読めなかった。
読めないのではなく、読みたくなる速さに追いつけなかった。
シオンは、飛空艇を完全には降ろさなかった。桟橋のような外縁台の上で、少しだけ浮いたまま静止する。第12巻で何度も見た、係留された低い浮上に近い。違うのは、空気の色だった。
ネオンシャの空気は、音より先に色が来る。
そのように感じた。
感じた。
まだ決めない。
教授は低い台から、白い布を一枚取り出した。第12巻で使った雨の手前布ではない。布の端に細い銀糸が縫い込まれている。銀糸は外の色を少し受けて、青くなったり、緑になったりした。
「雨信号布です」
ネジリが、すぐに言った。
「雨ですか、信号ですか」
教授は少し笑った。
「どちらにもしたくなる布です」
シオンは、飛空艇の出入口を開けた。外の風は強くない。だが、色の線が近くを通るたび、風の端が短く明るくなる。
旅人たちは、まだ外へ出なかった。
まず、雨信号布を出入口の手前へ置いた。布は濡れなかった。濡れないのに、表面の色が変わった。
青。
薄い緑。
白に近い桃色。
そして、何色とも呼びにくい短い明るさ。
ネジリは、息を吸った。
「濡れていないのに、雨のようです」
「はい」
教授はうなずいた。
「雨のように見える」
ネジリは言い直した。
「濡れていないのに、雨のように見える」
シオンは、その横にもう一枚札を置いた。
`信号のようにも見える`
二枚で置く。
雨のように見える。
信号のようにも見える。
同じ布の上で、二つは重なりそうになり、重ならない。
ククルーは、布の端へ近づいた。鼻先を近づけすぎない距離で止まり、目を細める。
「匂いは、あまり雨じゃないね」
「では、何の匂いですか」
ネジリが聞いた。
ククルーは、少しだけ答えに遅れた。
ほんの少し。
「古い掲示板を、朝に拭いたような匂いだね」
旅人はククルーを見た。
ククルーはいつもの顔に戻っている。けれど、戻ったように見えることと、戻ったことは同じではない。
旅人は、低い台へ空白の小札を置いた。
何も書かない。
ククルーのための札ではない。
聞きたくなった手のための札だ。
ククルーは、その札を見て、何も言わなかった。
言わないまま、しっぽを少しだけ丸め直した。
飛空艇の外で、掲示板の文字がまた薄くなった。
今度は、一つだけ読めた。
`ようこそ`
文字はすぐに別の色へ変わり、次の線に押されて見えにくくなった。
「ようこそ、です」
ネジリが嬉しそうに言った。
それから、すぐに低い台を見た。
「ようこそ、と書いてありました。だから、ここは歓迎している、と言いたくなりました」
シオンはうなずいた。
「よい止め方です」
教授は札を書いた。
`ようこそ、と読めた`
その横へ、旅人が書く。
`歓迎している、と言いたくなった`
ククルーが、さらに小さな札を置いた。
`返事を置く場所は、まだ見ていない`
三枚の札が並ぶと、`ようこそ` の文字は急に落ち着いた。
歓迎を疑うためではない。
歓迎だけで終わらせないためだ。
ネオンシャ外縁の歩廊には、雨宿りの屋根があった。雨宿りと呼びたくなる。けれど、そこにいる人たちは傘を持っていない。服も髪も濡れていない。ただ、掲示板の前に立ち、色の線が通るたびに、手元の小さな板へ何かを書いている。
「あの人たちは、雨を見ているのですか」
ネジリが聞いた。
「雨を見る人もいます」
シオンは答えた。
「信号を見る人もいます」
「違うのですか」
「違う時も、同じように見える時もあります」
ネジリは眉を寄せた。
「むずかしいね」
ククルーが言う。
「ネオンシャは、むずかしいことを簡単そうな顔で見せるんだよね」
その声は、今度は少し乾いていた。
乾いている。
乾かしたようにも聞こえる。
旅人は、また聞かなかった。
代わりに、戻れる席の札を少しだけ外へ近づけた。飛空艇の床の上。出入口の手前。外でも中でもないところ。
「ここに置きますか」
教授が聞く。
旅人はうなずいた。
「外へ出る前に、戻れる席を置きたい」
「よい場所です」
シオンは、戻れる席の横に細い線を引いた。床に直接ではない。薄い紙帯の上に、銀色の線を一本。
「これは、返事待ち回線の前です」
「回線の前?」
ネジリが聞く。
「はい。まだ誰にも送っていません。でも、返事を置ける場所を先に空けます」
紙帯は、出入口から外へ少しだけ伸びた。外の色が近づくと、銀の線が短く光る。光ったところだけを見れば、もうつながっているように見える。
でも、つながっていない。
つながる前。
返事を置けるようにする前。
その前にも、場所がある。
外縁の掲示板の下にも、似た紙帯が何本か見えた。どれも細く、雨の色が通るたび、端だけが光る。光った端には、短い印が浮かぶ。
丸い印。
折れた線の印。
小さな点が三つ並ぶ印。
意味は、まだ分からない。
分からないのに、分かった形に見える。
ネジリは、その印を見て言った。
「あれは返事ですか」
シオンは、すぐ答えなかった。
「返事に見える印です」
「返事ではないのですか」
「返事かもしれません。でも、誰への返事か、何への返事か、ここからはまだ分かりません」
教授は、雨信号布の端に小さな空白を作った。
「返事に見えるもの、という場所ですね」
旅人は、そこへ札を置いた。
`返事に見える印`
その横に、もう一枚。
`誰への返事か、まだ聞いていない`
二枚を並べると、掲示板の印は少し落ち着いて見えた。印が落ち着いたのではない。こちらの目が、印を急がせなくなったのだと思った。
旅人は、紙帯の端へ札を置いた。
`まだ送らない`
ネジリが、その横に書いた。
`でも返事の場所を空ける`
ククルーは、二枚を見て、やわらかくうなずいた。
「ネオンシャに入る前に、返事の場所を空けられたんだね」
遅さ。
その言葉は、第12巻までとは違って聞こえた。
遅いことは、止まることではない。
送らないことでもない。
ネオンシャでは、遅さもきっと、誰かへ届くための形になる。
飛空艇の外で、色の線が一つ、歩廊の縁へ落ちた。
落ちたように見えた。
線は床に当たる前に横へ流れ、掲示板の下で薄い輪になった。輪の中に、短い文字が浮かぶ。
`ついた`
ネジリの目が輝いた。
旅人の手も、少し動いた。
ついた。
着いた。
到着。
ここが。
その言葉たちは、足元より先へ行きそうだった。
旅人は、遅らせる札を手に取った。手に取るだけで、すぐ書かない。
そして、低い台の上へ置いた。
`ついた、と読めた`
その下に、別の札を置く。
`どこに、とはまだ聞いていない`
教授は、深くうなずいた。
シオンは、飛空艇の出入口に立ったまま、外の歩廊を見た。
「降りられます」
短い言葉だった。
ネジリは足を前へ出しかけた。
ククルーも、前足を一つ動かしかけた。
その時、外の色の線がククルーの首元をかすめるように光った。
鈴は鳴らなかった。
鳴らなかったのに、旅人には、鳴る前の小さな間が聞こえた気がした。
ククルーは、前足を戻した。
ほんの少しだけ。
「ククルー」
旅人は名前だけ呼んだ。
問いにしない。
理由にしない。
ククルーは旅人を見上げた。
「大丈夫だよ」
その言葉は、速かった。
速い。
ククルーにしては、少しだけ速い。
旅人は、その速さを責めなかった。信じすぎもしなかった。
戻れる席の横に、空白の札を一枚置く。
大丈夫、と書かない。
大丈夫ではない、とも書かない。
ただ、ククルーが速く言った場所を、空けておく。
ククルーは、その札を見て、目を細めた。
「席が増えたね」
「うん」
「増やしすぎると、迷子になるよ」
「では、今日はここまで」
旅人が言うと、ククルーは小さく笑った。
「ここまで、と言える遅さなんだね」
外の掲示板で、`ようこそ` と `ついた` が重なり、読めない色になった。
読めない。
でも、消えたわけではない。
旅人たちは、まだ飛空艇の出入口にいる。
ネオンシャの外縁は、すぐそこにある。
雨のような信号は、降っているように見える。
信号のような雨は、送られているように見える。
どちらも、まだ一つにはしない。
旅人は、戻れる席と遅らせる札を見た。
それから、外の歩廊へ目を向けた。
最初の一歩は、到着を決めるためではない。
雨に見えた信号を、雨だけにも、信号だけにもせず、聞き返せる場所へ置くための一歩だった。
飛空艇の降下灯が、背中側で静かに揺れた。
その灯りに送られるように、旅人はネオンシャ外縁の歩廊へ足を下ろした。




