第12巻 飛空艇と仮説の空 第12章 ネオン雨の手前
飛空艇の格納桟橋には、降りるための灯りがある。
シオンは、それを着陸灯とは呼ばなかった。
「まだ降りる場所を決めていない時にも、点けます」
灯りは、床ではなく、窓の下の薄い板を照らしていた。板には、航路布から外した仮札が三枚並べられている。
`桟橋へ戻る`
`白い余白へ戻る`
`遠い影の手前へ戻る`
その横に、まだ何も書かれていない細い札が一枚あった。
細い札は、ほかの札よりも少し短かった。
短いから、書ける言葉も少ない。
けれど、短い札は、すぐ大事な合図に見える。連絡管の短い声と同じだ。短いものは、強く見えやすい。少ない言葉ほど、もう決まったことのように聞こえる。
旅人は、その札をすぐ手に取らなかった。
シオンも、取らせなかった。
「細い札は、最後に使います」
「最初ではなく?」
ネジリが聞く。
「最初に使うと、手前が細くなります」
教授は、降下灯の前に小さな布を広げた。布は、雨に見える遠景を置くための布だという。名前はまだつけない。
「名前をつけない布ですか」
ネジリが言う。
「名前をつける前の布です」
教授は訂正した。
「つけないと決めるのも、少し早いです」
その布は、航路布ほど長くない。問い棚ほど高くない。ただ、灯りの下で、少しだけ色を持って見えた。布自体は灰色なのに、降下灯の光が当たると、端に薄い黄みが出る。
見え方だけで、ものが変わったように見える。
だからこそ、見え方をすぐ名前にしない布が必要だった。
ネジリは、灯りをのぞき込む。
「降りるための灯りなのに、降りない時にも点けるんですか」
「はい」
シオンはうなずいた。
「降りる場所だけを照らすと、降りることが先に決まってしまいます。降りる前の手元も、見えるようにしておきたいんです」
教授は、眼鏡を少し上げた。
「着く前に、着いたあとの説明を作ってしまうのは、よくある失敗です」
「失敗ですか」
ククルーが、やわらかく問い返す。
教授は、すぐに言い直した。
「いえ、失敗と言いたくなる手、です」
ククルーは目を細めた。
「冷えたまま残っているね」
飛空艇は大きく揺れていない。桟橋を完全に離れているわけでもない。けれど、窓の外の空は、朝の格納桟橋で見た時より少し遠くまで開いていた。
遠い影の手前。
その言葉を、旅人はもう一度読む。
影は、影のまま置いた。名前にしなかった。数字にも、行き先にも、答えにもしていない。
それなのに、遠くを見る手は、次の言葉を探してしまう。
あれはどこだろう。
あれは何という街だろう。
あそこへ行けば、何か分かるのだろうか。
旅人がその手を見ていると、ネジリが窓の端で息を飲んだ。
「あ」
声は短かった。短い声は、連絡管で聞いた時と同じように、何か大事な知らせの形をしていた。
シオンがすぐに窓へ寄る。
「見えたものを、一つずつ」
「雨みたいです」
ネジリは指を上げかけて、途中で止めた。
「あ、指さす前に札ですか」
「指さしてもいいです。ただ、指の先に名前が先に着かないように」
シオンは細い札を一枚出した。
`雨のように見えた`
ネジリは、ほっとしてから、窓の外を見た。
空の遠い側に、細い光の筋がいくつか落ちている。
本当に雨なのかは分からない。雲のすき間からこぼれた光かもしれない。遠くの街の灯りが風で揺れているのかもしれない。見え方が、雨に似ているだけかもしれない。
見えたのは一度だけではなかった。
光の筋は、消えたと思うと、少し横にずれてまた見えた。細くなり、太くなり、途切れ、つながる。窓の縁に近づくと、色は薄くなる。少し離れると、また濃くなる。
ネジリは、窓に顔を近づけかけて、すぐ後ろへ戻った。
「近づくと、見えなくなります」
「はい」
シオンはうなずいた。
「近づけば分かる、も今日は袋に近いです」
旅人は、空へ持っていかない言葉の袋を見た。
上から見れば分かる。
空へ行けば急がなくてすむ。
速ければ助かる。
そこに、近づけば分かる、も入りたがっている。
けれど、まだ入れない。
近づけば分かることもある。小さな文字、細い傷、布の折り目。近づくことで初めて見えるものは確かにある。
でも、遠い色の雨らしきものは、近づきたい手が先に走る。近づく前から、近づけば分かると決めてしまう。
旅人は、袋の手前に札を置いた。
`近づけば分かる、と言いたくなった手`
袋へ入れない。
まだ捨てない。
ただ、手前に置く。
ネジリは、その札を見て、窓から半歩下がった。
「半歩下がると、また見えました」
「半歩も、見る道具になるね」
ククルーが言った。
けれど、その筋は白だけではなかった。
青にも見える。
薄い桃色にも見える。
緑の端を少しだけ持っているようにも見える。
色の雨。
そう書きたくなる手を、旅人は自分の中で見つけた。
教授が低い声で言う。
「きれいですね」
その一言には、説明がついていなかった。
きれいだから行こう。
きれいだから大事だ。
きれいだから何かを知らせている。
そう続けなかった。
ククルーは窓の下の灯りを見てから、外の光を見た。
「雨に見えるものは、雨と呼びたくなるね」
「呼んではいけないのかな」
ネジリが聞く。
「呼んでもいいと思うよ」
ククルーは首を傾ける。
「ただ、呼んだあと、返事を急がせない名前にしたいね」
旅人は、空白の札へ書いた。
`雨の手前`
教授は、さっき広げた灰色の布を、その札の下へ少しだけ差し込んだ。
「雨の手前布、でよいでしょうか」
「名前をつけました」
ネジリが言う。
「はい。今度は、名前が先に走らない長さです」
雨の手前布。
雨ではなく、手前。
布だから、折りたためる。広げ直せる。違う角度で置ける。窓に貼りつけるものではない。遠景を捕まえるものでもない。
旅人は、布の端を少し持ち上げた。
布の下に、降下灯の光が細く入る。
その光は、外の色とは違う。けれど、外の色を見る手元を照らしている。
外の色と、手元の灯り。
二つを混ぜない。
混ぜないから、どちらも見える。
ネジリがその字を読む。
「雨そのものじゃなくて、手前ですか」
「うん」
旅人は、窓の外へ目を戻した。
「雨かもしれないものを見る、手前」
シオンは、降下灯の明かりを少し弱めた。明かりが弱まると、窓の外の色ははっきりするのではなく、むしろ遠くなった。
遠くなったことで、少し楽になる。
近く見えると、言葉も手も、そこへ届いた気になってしまう。
「遠くすると、寂しくなります」
ネジリが言った。
シオンは、明かりのつまみから手を離さずにうなずいた。
「寂しくなります」
「近く見えると急ぎたくなって、遠く見えると置いていかれる気がします」
「はい」
「どっちがいいんですか」
「どっちがいいかの前に、どちらの手も見ます」
教授が、雨の手前布の端に二枚の小札を置いた。
`近くしたくなった手`
`遠くして寂しくなった手`
二枚は、向かい合わせではなく、少し斜めに置かれた。対立ではない。どちらも同じ窓を見ている手だ。
旅人は、その二枚の間へ、何も書かない細い空白を置いた。
近くも遠くも、すぐ答えにしないためのすき間。
そのすき間に、降下灯の光が入った。
教授は、低い台の上に灰色の小札を置いた。
`遅らせる札`
連絡管のそばで遅らせる封筒を使った時、ネジリは「遅らせると不親切に見える」と言った。
その言葉は、まだ完全には冷めていない。
飛空艇の窓から色の雨らしきものを見た今、旅人にも分かる。
早く知らせたい。
早く見せたい。
早く言葉にしたい。
早いことが親切に見える時ほど、札は必要になる。
「遅らせる札は、送らない札ではありません」
教授は、先にそう言った。
ネジリの肩が少し下がる。
「よかった。送っちゃだめなのかと思いました」
「送ってはいけないではなく、送る前に見る、です」
シオンが、降下灯のそばへ小さな封筒を置く。
封筒は灰色で、口を閉じていない。閉じていないから、中が空だと分かる。秘密を入れるための封筒ではない。送り先を隠すための封筒でもない。
そこに入れるのは、送る前の手だ。
シオンは、封筒の中へ何も入れず、かわりに封筒の下へ薄い台紙を差し込んだ。
「中に入れないんですか」
ネジリが聞く。
「今日は、中に入れる前を見ます」
台紙には、三つの小さな丸があった。
一つ目は、送る前。
二つ目は、届く時。
三つ目は、届いたあと。
丸は線で結ばれていない。
「線を引かないんですか」
「引くと、届くまでを一気に考えたくなります」
シオンは答える。
「送る前の手、届く時の場所、届いたあとの相手の手。それぞれ別に見ます」
ネジリは、二つ目の丸を指した。
「届く時って、見えないですね」
「見えないことが多いです」
教授が言った。
「だから、勝手に作りやすい」
届く時。
旅人は、その言葉を見た。
送る側は、送る前をよく覚えている。
受け取る側は、届いたあとを覚える。
その間の、届く時は、想像で埋まりやすい。
早く届いたはず。
うまく届いたはず。
親切に届いたはず。
そういう「はず」が、届いたあとの決めつけに足を与える。
ククルーは、二つ目の丸を前足で軽く押さえた。
「ここは、足が生えやすいね」
ネジリは吹き出しそうになって、こらえた。
「靴の話に戻りました」
「戻れる話は、よい話です」
旅人は、札を見ながら言った。
「何を遅らせるんだろう」
「言葉でしょうか」
シオンが考える。
「灯りでしょうか」
ネジリが窓の外を見る。
教授は少し待ってから言った。
「届いたあとの、決めつけかもしれません」
ククルーは耳をぴくりと動かした。
「届いたあとの決めつけは、とても足が速いね」
「足があるんですか」
ネジリが目を丸くする。
「ありますよ。とくに、まだ履いていない靴で走ります」
ネジリはしばらく考え、笑った。
「それ、転びそうです」
「うん。だから、靴を見る札がいるね」
ククルーは真面目に言った。
教授は本当に札を取ろうとして、シオンに止められた。
「教授、それはたぶん声のままで」
「そうだね。靴の札まで増やすと、棚が先に走るね」
旅人は笑いながら、灰色の札の横に書く。
`送る前に、届いたあとを見る`
その下に、もう一行。
`届いたあとに、聞き返せる場所を残す`
その二行を書いたあと、旅人は筆を置かなかった。
まだ、手が動きたがっている。
`送る前に、相手の足元を想像しすぎない`
そう書きかけて、止めた。
相手の足元を想像することは悪くない。
けれど、想像しすぎると、相手が本当に立っている場所を見なくなる。
旅人は、少し言葉を変えた。
`相手の足元を、空けておく`
ククルーは、それを見てうなずいた。
「相手の足元を、ここでふさがずにおけるね」
教授は、三つの丸の台紙の下へ、その札を置いた。
送る前。
届く時。
届いたあと。
そして、相手の足元を空けておく。
それは、送る作法の完成ではなかった。
でも、送る前に見られる場所が一つ増えた。
ネジリは、窓と札を交互に見た。
「じゃあ、あの雨のことも、すぐに知らせないんですか」
「知らせたい相手がいるなら、知らせ方を見ます」
シオンは答えた。
「でも、ここで『あの雨の街へ行く』と書くのは、まだ早いです」
「街かどうかも、雨かどうかも、分からないから」
旅人が言う。
「はい」
シオンはうなずく。
「それに、見た人の手が、先に到着してしまいます」
窓の外の色は、まだ揺れている。
雨のように落ちているのか。
風の向きで斜めに見えているのか。
遠すぎて、落ちるというより、空に糸が下がっているように見えるだけなのか。
どれも確定しない。
けれど、確定しないからといって、なかったことにもできない。
確定しないものは、二つの方向へ引っぱられる。
ひとつは、早く決めて安心したい方向。
もうひとつは、決められないなら見なかったことにしたい方向。
旅人は、その二つを雨の手前布の上へ置いた。
`早く決めたい`
`見なかったことにしたい`
ネジリは、二枚を見て、小さく息を吐いた。
「どっちもあります」
「あります」
シオンは言った。
「どちらも、雨ではありません」
「手ですね」
「はい。雨のように見えたものを見る手です」
その言い方で、窓の外の色が少し楽になった。
色は、旅人たちの焦りを背負わなくていい。
雨かもしれないものは、雨かもしれないもののまま揺れていられる。
旅人は、遠景札を取り出した。
航路窓から遠い影を見た時に使った札だ。
そこには、前に書いた言葉が残っている。
`見えた`
`見えたように思った`
`影があるように見えた`
`名前をつけたくなった`
旅人はその下へ、今日の言葉を足した。
`雨のように見えた`
`色が先に届いた`
`行き先にしたくなった`
書き終えると、手の中で札が少し重くなった気がした。
重くなったのは、答えに近づいたからではない。
行き先にしたくなった手を、見えるところへ置けたからだ。
ネジリは、遠景札と雨の手前布を並べて見た。
「遠景札だけだと、見たことの記録です」
「はい」
「雨の手前布があると、見たあとの手も置けます」
「はい」
シオンは、二つの間へ小さなすき間を残した。
「記録と手の間も、空けます」
「同じにしないためですか」
「同じにしないためと、離しすぎないためです」
旅人は、そのすき間を見た。
見たこと。
見たあとの手。
二つが離れすぎると、見たことが冷たい記録だけになる。
近づきすぎると、手の焦りが見たことそのものに見える。
遠い色の雨らしきものには、そのすき間が必要だった。
ククルーは、その札をのぞき込んだ。
「色が先に届いた、かな」
「うん。雨かどうかは分からないのに、色だけは、届いた気がしたから」
「色は足が軽いからね」
ククルーはそう言って、窓の外を見た。
その顔には、いつものような明るい好奇心があった。けれど、ほんの少しだけ、声にしない間もあった。
旅人は、その間をつかまえない。
ククルーが何かを思い出したのか、思い出していないのかを決めない。
ククルー自身も、すぐには言わなかった。
ただ、降下灯の前に、丸い小石のような重りを一つ置いた。
「手前にも、重りがいるね」
「手前の重り?」
ネジリが聞く。
「はい。見えたものへ行く重りではなく、見えたものの手前で止まる重りです」
教授がうなずく。
「止まるための重りは、進まないためではありません」
「進む前に、手元を置くため」
シオンが続ける。
手前の重りは、航路布の穴あき重りより小さかった。
穴はない。
その代わり、底が少し丸い。置くと、完全には安定しない。指で触れると、こつ、と小さく揺れる。
「揺れる重りですか」
ネジリが不安そうに聞く。
「止めるための重りが、少し揺れていていいんですか」
「完全に止まったように見えると、手前が終点になります」
教授は答えた。
「少し揺れると、ここは手前だと分かります」
旅人は、揺れる重りを見た。
進まないためではない。
進む前に、ここがまだ手前だと分かるため。
重りが揺れるたび、降下灯の光が小さく動く。窓の外の色とは違う、小さな動きだった。
その小さな動きが、遠い色へ引っぱられる目を手元へ戻した。
旅人は、航路布を広げ直した。
桟橋へ戻る線。
白い余白へ戻る線。
遠い影の手前へ戻る線。
その先に、何も結ばない。
線を伸ばせば、雨のような色の方へ向けられるかもしれない。
でも、今日は伸ばさない。
代わりに、線の端へ小さな札を置いた。
`まだ降りない灯り`
ネジリは、少し驚いた顔をした。
「降下灯なのに」
「うん」
旅人は答える。
「降りるためにも、まだ降りないためにも、見える灯り」
シオンは、その札を手に取らず、灯りのそばへ置いたまま読んだ。
「いいですね。灯りを、合図だけにしない」
シオンは、降下灯の横にもう一枚、何も書いていない札を置いた。
「これは?」
「灯りを見た人が、何をしたくなったかを書く札です」
ネジリは、少し考えてから言った。
「降りたくなりました」
シオンはうなずく。
ネジリは、札へ書く。
`降りたくなった`
旅人は、その横へ別の札を置いた。
`見に行きたくなった`
教授は、さらに一枚置く。
`知らせたくなった`
ククルーは、しばらく見てから、札ではなく声で言った。
「黙っていたくなった、もあるね」
旅人は、ククルーを見た。
ククルーはいつもの顔で、降下灯の明かりを見ている。無理に明るくも、暗くもしていない。
旅人は、その声を札にしなかった。
黙っていたくなった。
その言葉は、今はククルーの声のまま、灯りのそばに置く。
答えにしないために。
問いにしすぎないために。
聞き急がないために。
飛空艇の中に、静かな音がした。
管が鳴ったのではない。計器の針でもない。帆の端でもない。
たぶん、誰かが息を整えた音だ。
色の雨らしき遠景を見て、すぐに行き先へ変えなかった音。
早く知らせたい手を、送る前に見た音。
降りる前の灯りを、降りないためにも使えた音。
教授は、灰色の封筒を開いたまま、低い台へ戻した。
「この封筒は、次の街まで閉じないでおきましょう」
ネジリは、ぱっと顔を上げる。
「次の街」
言ってから、口を押さえた。
「今の、先に着きました」
ククルーが笑う。
「少しだけ。でも、戻ってきました」
ネジリは、照れたようにうなずいた。
「戻れるなら、言っても大丈夫ですか」
「大丈夫です」
旅人は言った。
「戻れるように、札を置くから」
次の街という言葉も、禁止しなくていい。
ただ、それだけで航路を決めない。
それだけで、雨を街にしない。
それだけで、色を知らせにしない。
それだけで、ククルーの沈黙を答えにしない。
ネジリは、その四つを指で数えかけて、やめた。
「数えると、決まりみたいになります」
「数えてもいいですが、数えたあとに閉じないことです」
教授は言った。
ネジリは指を開いたまま、四つの言葉を声にしないで見た。
航路を決めない。
雨を街にしない。
色を知らせにしない。
沈黙を答えにしない。
四つとも、禁止ではない。
しない、と書くと、禁止に見える。
けれど今は、しないための余白ではなく、する前に見るための余白だった。
旅人は、札の端へ小さく書いた。
`する前に見る`
それは、送る/遅らせる作法の入口に似ていた。
旅人は、空へ持っていかない言葉の袋を開きかけた。
そこには、これまで置いてきた言葉が入っている。
上から見れば分かる。
空へ行けば急がなくてすむ。
速ければ助かる。
風で格好よく聞こえる説明。
完成と書きたくなった手。
旅人は、その中へ、新しい言葉を入れる。
`見えたから、もう着いた`
袋は、少しだけ沈んだ。
ククルーは、その沈み方を見て言った。
「入った場所が見えるね」
「入りにくい言葉でした」
「見えたものは、入れにくいからね」
シオンは、降下灯を消さずに、明かりの向きをほんの少し変えた。窓の外ではなく、低い台の札を照らす角度にする。
色の雨らしきものは、まだ遠くにある。
窓の外へ目を向ければ、今でも見える。見えると思えば、何度でも見える。見えたと書きたくなるし、呼びたくなるし、そこへ行く話を始めたくなる。
けれど、旅人たちは、窓だけを見なかった。
窓だけを見ると、外の色が大きくなる。
札だけを見ると、外の色が遠い話になる。
袋だけを見ると、見えたことまで入れてしまいそうになる。
だから、三つを順番に見た。
窓。
札。
袋。
また窓。
順番を作ると、目が少し落ち着く。
落ち着いた目で見ると、遠い色は相変わらず揺れている。何かを急かしているわけではない。旅人たちの方が、急かされた気になっていただけだった。
降下灯の下にある札を見る。
`雨の手前`
`遅らせる札`
`送る前に、届いたあとを見る`
`届いたあとに、聞き返せる場所を残す`
`まだ降りない灯り`
教授は、最後にもう一枚、空白の札を出した。
「これは、まだ書きません」
「何の札ですか」
ネジリが聞く。
「雨を見たあと、地上で聞き返すための札です」
「地上で」
「はい。空で見たことは、空だけで終わらせない。けれど、空で全部決めもしない」
シオンは、その空白札を航路布の外側に置いた。
そこは、仮説の空で「地上の側にも置ける場所を探す」と決めた場所だった。
旅人は、まだ書かれていない札を見た。
書かない札が、ここにもある。
でも、それは空白のまま放っておくためではない。
次に聞けるように、空けておくためだ。
ネジリは、その空白札の端を指で押さえそうになって、途中で止めた。
「押さえたいです」
「飛ばないように?」
旅人が聞くと、ネジリは首を横に振った。
「書かれないままどこかへ行ってしまいそうで」
シオンは、降下灯の横に置いてあった小さな重りを取った。穴のあいた、軽い重りだ。仮説の空で使った固定しきらない重りよりも、さらに軽い。
「では、押さえるのではなく、隣に置きます」
重りは空白札の上ではなく、札の横へ置かれた。
「上ではないのですか」
「上に置くと、空白を押さえたことになります」
シオンは答えた。
「横に置くと、空白のそばに戻れる場所ができます」
ネジリは、重りと札を見比べた。
「書かないことも、逃げないようにできますか」
教授は少し考えた。
「逃げないように、ではなく、戻れるように、ならできます」
ククルーが、袋の口を小さく結び直した。
「逃げないように、は少しつかまえる手だね。戻れるように、は席を空ける手なんだ」
旅人は、その言い方を聞いて、空白札の横へ小さく書いた。
`戻れる席`
空白札そのものには書かない。
横の小さな札へ書く。
空けておく場所と、戻れる席。
二つが並ぶと、遠い色は少しだけ遠いままでいられた。
ククルーは、窓の外へ小さく会釈した。
「また、手前で会おうね」
ネジリもまねをして会釈する。
「雨の手前さん」
「さん、をつけると場所みたいになります」
シオンが言う。
ネジリは慌てる。
「じゃあ、雨の手前」
「それなら、雨の手前で見られるね」
ククルーは、声を少しやわらげて言った。
飛空艇は、その章の終わりにどこかへ到着しなかった。
遠い色の雨を、目的地にも、知らせにも、答えにも変えなかった。
ただ、降りる前の灯りを点けた。
遅らせる札を置いた。
送る前に、届いたあとを見ると書いた。
届いたあとに、聞き返せる場所を残すと書いた。
そして、見えたから、もう着いた、という言葉を袋へ入れた。
ここまでの空は、世界の全体像をくれなかった。
仮説の空は、行き先を決める空ではなかった。
けれど、旅人たちは、行き先の手前に置ける灯りを得た。
雨のように見えたものを、雨と呼び急がない灯り。
速い知らせを、親切と言い切る前に休ませる札。
遠くの色が先に届いても、足元を置いてから返事をする作法。
飛空艇の窓の外で、遠い色はまだ揺れている。
旅人は、それを見てから、低い台の空白札を見た。
まだ書かない。
でも、忘れない。
その二つを同じ場所に置けるようになった時、飛空艇の降下灯は、静かに札を照らし続けていた。




