第12巻 飛空艇と仮説の空 第9章 揺れる託宣計器
返事待ち棚の下段には、まだ返事がなかった。
返事の前。
その札は、朝の桟橋で静かにしている。静かなのに、空いているだけではない。誰かが返すかもしれない場所を、先に取りすぎないための場所だった。
シオンは、その棚の横に丸い箱を置いた。
箱のふたには、細い針が一本ついている。針はまっすぐ上を向かず、少し右へ傾き、それから左へ戻り、また右へ動いた。
ネジリの目が、すぐに針へ吸い寄せられた。
「揺れています」
「はい」
シオンは答えた。
「託宣計器です」
教授は、すぐに付け足した。
「託宣を決める計器ではありません」
教授は、さらに箱の下へ薄い丸布を敷いた。
布には、外側へ向かう細い線が何本も描かれている。線は箱から出ているようにも、箱へ戻っているようにも見えた。
「これは?」
ネジリが聞く。
「見ている手の線です」
教授は言った。
「計器から出ている線ではなく?」
「出ているように見えます。けれど、今日は見ている手の方から伸びた線として扱います」
旅人は、丸布の線を見た。
針が揺れる。
すると、こちらの目が伸びる。
目が伸びると、意味をつかみたくなる。
意味をつかみたくなると、針から線が出ているように見える。
でも、本当に伸びているのは、こちらの読みたい手かもしれない。
ククルーは、少し離れた場所から言った。
「針を見ているつもりで、自分の手が細くなっていることがあるね」
ネジリは、自分の指を見た。
「手が細くなる」
「意味をつまもうとする手だね」
ククルーは、前足を少しだけ丸めた。
ネジリは、口を開きかけて、少し笑った。
「言われると思いました」
ククルーは、計器の近くに座らず、少し離れた場所でしっぽを丸めた。
「針は、見ている手をよく引っぱるからね」
旅人も、針を見ていた。
右へ。
左へ。
少し戻る。
また右へ。
揺れは小さい。けれど、小さいからこそ、何かを読みたくなる。大きく動けば驚いて止まれるかもしれない。小さく揺れると、読みたい手が細く伸びる。
シオンは、低い台へ三枚の札を置いた。
`故障と言いたくなった`
`合図と言いたくなった`
`読めたと言いたくなった`
ネジリは、三枚を見て、苦い顔をした。
「全部、言いたくなりました」
「よいです」
教授は言った。
「言いたくなった順に、置きます」
「順番も、読み方ですか」
ネジリが聞いた。
「はい。最初に出た言葉は、えらく見えやすいです」
シオンは、三枚の札の前に細い台を置いた。
`最初に出た言葉`
その台は、札を乗せるには少し狭い。
「狭いです」
「最初の言葉を大きくしすぎないためです」
ネジリは、`故障と言いたくなった` をそこへ置きかけて、半分だけ乗せた。
札の端が少しはみ出している。
「落ちそうです」
「はい。最初の言葉は、落ちそうなまま見ることがあります」
旅人は、その危うさを見た。
故障。
最初に出ると、強い。
でも、狭い台に半分だけ置かれていると、まだ全部を預けてはいけない言葉に見える。
ネジリは、まず `故障と言いたくなった` を取った。
「最初は、故障だと思いました」
「どうして」
旅人が聞く。
「針が止まらないから」
シオンは、計器の横に小さな布を広げた。布には、温度を示す線のようなものが描かれている。ただし、数字はない。
「読み方の温度布です」
「温度を測る布ではないのですか」
「測りたくなる布です」
ネジリは、すぐうなずいた。
「今日は、測りたくなるものが多いです」
温度布の左側には `冷たい読み`。右側には `熱い読み`。中央には `まだ触れない読み` と書かれていた。
教授は、故障と言いたくなった札を右側へ置いた。
「熱いのですか」
「早く決めたい熱があります」
教授は答えた。
「故障なら、直せばよい。そう思うと、読み方が速くなります」
ネジリは黙った。
直したい手。
それはネジリの中にある。
悪い手ではない。歯車街では、直したい手がたくさんの生活を助ける。けれど、託宣計器の揺れをすぐ故障にすると、揺れが問いである可能性を閉じてしまう。
シオンは、針を止めなかった。
計器の針は、小さく揺れ続けている。
「止めないのですか」
ネジリが聞いた。
「止められます」
「止めた方が読みやすいです」
「はい」
「でも、止めると、止まった針を読んでしまう」
「はい」
シオンは、針のそばに小さな透明板を立てた。
透明板には、細い目印がひとつだけある。針がその目印を通るたび、中央に戻ったように見える。
「中央が見やすくなりました」
ネジリが言った。
「はい。だから、気をつけます」
「見やすくしたのに?」
「見やすくすると、そこを答えにしたくなります」
透明板を外すと、針はただ揺れている。
透明板を置くと、針は中央を通った、右へ行った、左へ戻った、と言いたくなる。
見やすくする道具は、読みを助ける。
同時に、読みを急がせる。
旅人は、透明板の横へ札を置いた。
`見やすくしたことで答えにしたくなった`
教授は、その札を温度布の右寄りへ置いた。
「熱い読みですね」
「はい。見やすさの熱です」
ネジリは、自分で少し驚いた顔をした。
自分の言葉が、少し先に戻ってきたのだ。
ククルーが小さく言う。
「返事を置ける連絡のあとだからね。言葉も戻る場所を覚えているんだ」
教授は、返事待ち棚の上段から昨日の札を一枚取った。
`短くして速くなりすぎる手`
それを、読み方の温度布の右側へ置く。
「同じ手ですか」
ネジリが聞く。
「同じではありません」
教授は答えた。
「でも、そばに置く価値があります」
旅人は、計器の針を見た。
針が右へ行く時、合図のように見える。
左へ戻る時、取り消しのように見える。
中央を通る時、答えがそこにあるように見える。
どれも、見える。
でも、まだ決めない。
旅人は、`合図と言いたくなった` を温度布の右寄りへ置いた。
「少し熱い」
シオンがうなずく。
「はい。合図は人を動かします」
「動くことが悪いわけではない」
「悪くありません。だから、合図にする前に、何を動かすのかを見ます」
ネジリは、連絡管の鈴を見た。
昨日の、送る前に棚を見る合図。
合図にも、種類がある。
送れ、という合図。
見る、という合図。
待つ、という合図。
合図と聞くと、動くものだと思いがちだ。でも、待つための合図もある。
ネジリは、新しい札を書いた。
`待つための合図もある`
それを、温度布の中央へ置いた。
その札を置くと、三枚の札の位置が少し変わった。
故障と言いたくなった。
合図と言いたくなった。
読めたと言いたくなった。
どれも、針に動かされる言葉のように見えていた。けれど、待つための合図もある、と置くと、合図だけが少し冷えた。
合図は、走るためだけではない。
止まるためだけでもない。
見る姿勢を変えるためにもある。
ネジリは、連絡管の鈴を思い出した顔をした。
「昨日の鈴は、送る前に棚を見る合図でした」
「はい」
シオンはうなずく。
「今日の針も、読む前に読み方を見る合図にできます」
「針が言っているのではなく」
「こちらが、そういう合図として置く」
ネジリは、今度は自分で最後まで言った。
教授はうなずいた。
「今日の読み直し台へ進めます」
読み直し台は、低い台のさらに低いところにあった。
台というより、足元に近い板だ。そこへ計器を置くと、針を上からのぞきこめない。しゃがんで、横から見ることになる。
「見にくくなります」
ネジリが言った。
「はい」
シオンは、託宣計器を読み直し台へ移した。
針の揺れは、上から見るより小さく見えた。
横から見ると、針の先だけでなく、針を支える小さな軸も見える。軸は揺れていない。針だけが、風や船体の息を受けて少し動いているように見える。
「軸は、動いていないように見えます」
旅人が言った。
シオンは、すぐ札を出した。
`軸は動いていないように見えた`
その横に、もう一枚。
`針は揺れているように見えた`
二枚で置く。
ネジリは、それを見て息を吐いた。
「故障、では短すぎました」
「短い札でしたね」
ククルーが言う。
「短いと、持ちやすいんだ」
「だから、速くなるね」
ネジリは、昨日の言葉を自分で戻した。
教授は、読み方の温度布の右側にあった `故障と言いたくなった` を、中央へ少し寄せた。
「冷めましたか」
「少し」
ネジリは答えた。
「まだ、故障ではないと言い切るのも早いです」
「はい」
シオンは嬉しそうにしすぎない顔でうなずいた。
「故障ではない、も早い時があります」
その言葉で、ネジリの手が止まった。
「故障ではない、も早い」
「はい」
シオンは、温度布の左側へ空白札を置いた。
「冷たい読みも、速くなることがあります」
「冷たいのに?」
「落ち着いている顔で、すぐ決めることがあります」
教授は、左側に `故障ではないと言い切りたくなった` と書いた札を置いた。
ネジリは、その札を見て、少し困ったように笑った。
「右も左も、急げるんですね」
「急げるね」
ククルーはうなずく。
「熱くても冷たくても、足は速くなれるね」
旅人は、中央の `まだ触れない読み` を見た。
中央は、答えの場所ではない。
熱い読みと冷たい読みの間にある、まだ読まないための場所だ。
旅人は、その言葉を聞いて、計器の針をもう一度見た。
揺れている。
揺れているように見える。
軸は動いていないように見える。
風かもしれない。
船体の息かもしれない。
昨日の連絡管の鈴の近くに置いたせいかもしれない。
託宣そのものの揺れかもしれない。
かもしれない、が多い。
多いから、まとめたくなる。
旅人は、仮説未満の皿を持ってきた。
そこへ札を置く。
`かもしれないが多い`
ネジリは、少し笑った。
「それは、皿が重くなりそうです」
「棚に上げる前に、皿で休ませたい」
旅人が言うと、ククルーがうなずいた。
「かもしれないは、よく休むね」
仮説未満の皿は、前より広く感じられた。
皿そのものが変わったわけではない。
置くものが増えたから、広さの使い方が変わったのだ。
かもしれないが多い。
見やすくしたことで答えにしたくなった。
故障ではないと言い切りたくなった。
針から線が出ているように見えた。
旅人は、それぞれを皿の端へ置き、中央を空けた。
「中央は空けるんですか」
ネジリが聞く。
「うん。皿の中央をすぐ仮説にしたくなるから」
「皿にも中央があります」
「ある」
ククルーは、皿の中央を見て言った。
「中央を空けておくと、休みやすいね」
シオンは、計器のふたを開けなかった。
ネジリが、それに気づいた。
「中を見ないのですか」
「今日は見ません」
「見れば、分かるかもしれません」
「分かるかもしれません」
シオンは否定しない。
「でも、中を見た瞬間、揺れの読み方ではなく、中の仕組みの話へ進みます」
教授は、札を書いた。
`中を見れば分かるかもしれない手`
それを、読み直し台ではなく、まだ置かない板へ置く。
ギアロートの完全な仕組み。
飛空艇の全体。
計器の中。
中を見れば分かる。
その言葉は、役に立つこともある。でも、今日は中へ行く前に、外で揺れている読み方を見ている。
シオンは、計器のふたに手を置いたまま、少しだけ間を取った。
「開けられる、ということも見ておきます」
「開けないのに?」
「はい。開けられないから見ない、ではありません」
教授は、まだ置かない板へもう一枚札を置いた。
`開けられるが、今日は開けない`
その札があると、見ないことが弱さに見えにくくなった。
ネジリは、ほっとした顔をした。
「見ないのと、見られないのは違います」
「はい」
シオンは言った。
「今日は、見られるものをあえて外に残します」
旅人は、ふたの閉じた計器を見た。
閉じている。
隠しているのではない。
外で見える揺れを、もう少し外で見るために閉じている。
ネジリは、まだ置かない板を見た。
「中を見るのは、逃げではありませんよね」
「逃げではありません」
教授は言った。
「ただ、今日の問いとは違う入口です」
ネジリは、安心したようにうなずいた。
「入口を混ぜない」
「はい」
計器の針が、しばらく中央の近くで揺れた。
中央。
そこを答えにしたくなる。
旅人は、`読めたと言いたくなった` の札を手に取った。
どこへ置くか迷う。
熱い読みか。
冷たい読みか。
まだ触れない読みか。
旅人は、中央の `まだ触れない読み` の少し外へ置いた。
「読めた、と言いたくなったことは、読めたことではない」
シオンがうなずいた。
「はい」
「でも、読めそうだった感じは消さない」
教授は、札を一枚足した。
`読めそうだった感じ`
それを、読み直し台の横へ置く。
ネジリは、計器から少し離れて、返事待ち棚を見た。
「計器にも、返事の前がありますか」
「あります」
シオンは答えた。
「針が返事をするわけではありません。けれど、こちらが読む前に、返事の前の場所を作れます」
ネジリは、返事待ち棚の下段へ小さな札を置いた。
`読む前の返事の場所`
旅人は、その言葉が少し不思議だと思った。
読む前の返事。
返事は、普通、読んだあとに来る。
でも、こちらが読めたと言い切る前に、問いが返ってくる場所を残しておく。そうすれば、読めたという言葉が先に閉じない。
ククルーは、計器の針を見て言った。
「揺れは、急げと言っていないね」
「はい」
旅人は答えた。
「止まれ、とも言っていない」
「はい」
「もう一度、読み方を見てね、と言っているように見えるね」
ククルーは目を細めた。
「ように見える、が大事だね」
教授は、最後の札を書いた。
`揺れを読み方へ戻す`
その札は、読み方の温度布の中央へ置かれた。
熱い読みでも、冷たい読みでもない。
まだ触れない読みのそば。
シオンは、計器のふたに布をかけた。
隠すためではない。
針を見続ける手を休ませるためだ。
「布をかけると、故障を隠したように見えます」
ネジリが言った。
「見えます」
シオンは答えた。
「だから、札を置きます」
`針を見続ける手を休ませる布`
ネジリは、その札を読んで、少し笑った。
「長いです」
「今日は長い方が安全です」
風を見る帆のころから何度も出てきた言葉だった。
長い札。
短くして速くなりすぎないための札。
今日の長い札は、計器の上で静かにしていた。
布をかけると、針の揺れは見えなくなった。
けれど、揺れを忘れたわけではない。
温度布には、言いたくなった手が残っている。
読み直し台には、軸と針を分けた札が残っている。
仮説未満の皿には、かもしれないが多い、が休んでいる。
まだ置かない板には、中を見れば分かるかもしれない手と、開けられるが今日は開けない札がある。
見続けないために、残すものが増えた。
ネジリは、布のかかった計器を見て言った。
「見えないのに、さっきより散らかっていません」
「置いたからです」
シオンは答えた。
「見えている間に置けるものを置くと、見えなくなったあとも追いかけにくくなります」
ククルーは、少しだけ眠そうに目を細めた。
「追いかけないで休むのも、読み方だね」
この章の終わりに、託宣計器は直されなかった。
壊れているとも、壊れていないとも決めなかった。
針は揺れているように見え、軸は動いていないように見えた。
故障と言いたくなった手、合図と言いたくなった手、読めたと言いたくなった手は、読み方の温度布へ置かれた。
揺れは答えではない。
でも、読み方へ戻るための、細い合図のように見えた。




