第12巻 飛空艇と仮説の空 第8章 速すぎる連絡
言葉が先に着くのを待たせる札は、一晩たっても軽くならなかった。
低い台の上で、速度札のそばに置かれている。戻れる、待てる、こぼさない、聞き返せる。その四つの言葉の中で、昨日は待てるが少し明るく見えた。今朝は、聞き返せるも同じくらい明るく見えた。
遠くへ言葉を送る時、返ってくる言葉の場所も必要になる。
旅人は、そう思った。
思っただけで、まだ札にはしない。
シオンは、桟橋の奥から細い管を運んできた。
管は、飛空艇の船体につながっているように見える。けれど、実際にはまだつながっていない。端と端の間に、手のひら二つ分の空きがある。
「連絡管です」
ネジリの顔が、すぐ明るくなった。
「遠くへ声を送る管ですか」
「声を送れるようにしたくなる管です」
シオンは答えた。
ネジリは、口を開きかけて、閉じた。
「便利そうです」
「便利です」
教授は否定しなかった。
「だから、今日は便利さを冷まします」
ククルーが、管の端をのぞきこもうとして、すぐ顔を戻した。
「のぞくと、声が先に行きそうだね」
「声ではなく、のぞきたい手が先に行くね」
シオンは、低い台に三つの小道具を並べた。
連絡管。
遅らせる封筒。
返事待ち棚。
シオンは、三つを同じ高さには置かなかった。
連絡管は少し高い支えの上。
遅らせる封筒は手元の高さ。
返事待ち棚はいちばん低い場所。
「高さが違います」
ネジリが言う。
「はい。声は高く聞こえやすいです」
シオンは連絡管を軽くたたいた。
「封筒は、手元で一度止めます。棚は、相手の返事が置けるように低くします」
「返事は低いのかな」
ククルーが、棚のそばでしっぽを丸める。
「返事は、たいてい聞く人が低くならないと置けないね」
ネジリは、棚の前で少しかがんだ。
かがむと、連絡管の端が少し遠く見えた。声を出す場所より、待つ場所の方が手間がかかる。その手間を省くと、知らせるだけで親切を済ませた気になりそうだった。
旅人は、低い棚の足元を見た。
床板のすき間に、昨日の粉がほんの少し残っている。
返事を置く場所は、いつもきれいに空いているわけではない。そこにも、前の手順のあとが残る。そこへ新しい声を急に置くなら、相手はまず足元を見る必要がある。
封筒は薄い灰色で、口が少しだけ広い。すぐ封をしたくなる形ではない。中に入れたものを、もう一度取り出せる余白がある。
返事待ち棚は、昨日の雲の仮説棚より低い。棚板は二段だけ。上の段には `送る前`、下の段には `返事の前` と書かれていた。
「返事のあと、ではないのですか」
ネジリが聞く。
「返事のあとまで作ると、返ってくることにしたくなります」
シオンは言った。
「今日は、返事の前までです」
旅人は、その棚を見た。
返事を待つ棚。
待つという言葉は、何もしないことではない。空へ向かう支度の中で、それを何度も見てきた。待つ間に、袋を置く。札をにじませる。見えないところを白い布へ置く。遠い影の名前を休ませる。
今日の待つは、送る前にある。
シオンは、連絡管の端へ小さな鈴をつけた。
鈴といっても、ククルーの首元の鈴ではない。工房で使う合図鈴だ。小さく、乾いた音がする。
「合図が鳴るのですか」
ネジリが聞いた。
「鳴らせます」
「鳴らしますか」
「鳴らしたくなる手を見ます」
シオンは、鈴の前に札を置いた。
`知らせたい`
ネジリは、すぐうなずいた。
「知らせたいです」
「何を」
教授が聞く。
「遠い影が見えたこと」
ネジリは答えた。
「誰に」
その問いで、ネジリは止まった。
「誰に」
もう一度、自分で言った。
遠い影が見えた。
それを知らせたい。
でも、知らせる相手を決めないまま、知らせたい気持ちだけが走っていた。
ネジリは札を取って、下に書き足した。
`知らせたい。誰に、はまだ`
長い札になった。
でも、長い方がよかった。
ネジリは、札を置いたあとも落ち着かなかった。
「誰に、を決めないと、ずっと止まります」
「止まります」
シオンは言った。
「でも、誰にでも、を先に書くと、もっと速く走ります」
教授は、低い台へ丸い布を広げた。布の周りに小さな点がいくつも刺繍されている。点には名前がない。
「知らせたい相手を置く前の布です」
「相手が決まっていないのに?」
「決まっていないから、広がりだけを見ます」
ネジリは、布の点を見た。
近い点。
遠い点。
隣同士に見える点。
端にある点。
それらに名前をつければ、すぐ相手らしくなる。けれど、今日は名前をつけない。
旅人は、布の中央へ札を置いた。
`知らせたい範囲`
その横に、もう一枚。
`返事を置ける範囲`
二つを並べると、同じ大きさではなかった。
知らせたい範囲は広い。
返事を置ける範囲は、少し狭い。
その差が、今日見るべきものだった。
ククルーは、空へ持っていかない言葉の袋を横に置いた。
「みんなに、は袋かな」
ネジリは、はっとした。
「みんなに知らせたい、と思いました」
「思いましたね」
「でも、みんな、は広すぎます」
旅人は言った。
「広すぎると、届いたあとを見られない」
教授は、その言葉を札にした。
`広すぎると、届いたあとを見られない`
返事待ち棚の `送る前` の段へ置く。
シオンは、連絡管の端と端の空きを指した。
「今日は、管を完全にはつなぎません」
「つなげると、送れますか」
「送れるように見えます」
「本当には?」
「短い管なので、声は桟橋の中で返ってきます」
ネジリは、少し笑った。
「遠くへは行かないのですね」
「行きません。けれど、遠くへ行くように聞こえることがあります」
シオンは、管の片方へ小さく声を入れた。
「見えた」
声は、管の中で細くなり、少し遅れて、もう片方の端から出た。
みえた。
ただそれだけの声なのに、管を通ると、大事な知らせのように聞こえた。
同じ言葉を、シオンは今度は管を通さずに言った。
「見えた」
桟橋の空気へ直接置かれた声は、さっきより少し小さく、少し普通に聞こえた。
「違います」
ネジリが言った。
「同じ言葉なのに、管を通ると、急に知らせみたいになります」
「はい」
シオンは、管の端へ指を置いた。
「道具を通ると、言葉に服が着くね」
ククルーが顔を上げた。
「いい服もあるよ。動きにくい服もあるけれどね」
ネジリは、管を見てから自分の袖を見た。
「この管は、言葉をかっこよくするね」
「かっこよく聞こえる、です」
旅人が言うと、ネジリはすぐうなずいた。
「かっこよく聞こえる。だから、速くなります」
教授は、札を一枚足した。
`管を通ると、知らせの服を着る`
その札は、連絡管の下ではなく、遅らせる封筒の上へ置かれた。
服を脱がせるためではない。
服を着たまま、どこへ行くのかを見るためだ。
ネジリの目が明るくなる。
「すごいです」
「すごく聞こえます」
シオンは言い直した。
教授は、札を二枚書いた。
`声が管を通った`
`大事な知らせのように聞こえた`
二枚で置く。
片方だけでは、急ぐ。
声が通った、だけなら便利さが軽くなる。
大事な知らせのように聞こえた、だけなら知らせの中身が大きくなりすぎる。
旅人は、連絡管の端へ手を近づけた。
自分も言いたくなる。
遠い影が見えた。
いくつかあるように見えた。
名前をつけたくなった。
次の街だと思いかけた。
どれを送るのか。
どれも送らないのか。
旅人は、遅らせる封筒を手に取った。
封筒の口は、開いている。
中へ入れる前に、少し戻れる形だ。
旅人は札を書いた。
`遠い影があるように見えた`
それを封筒へ入れようとして、止める。
「これだけ送ると、相手は影を探します」
シオンがうなずいた。
「はい」
「影が何かを聞き返す場所が、相手にないかもしれない」
教授は、返事待ち棚の下段を指した。
`返事の前`
旅人は、札を封筒へ入れず、棚の上段へ置いた。
「送る前に、聞き返せる形にしよう」
ククルーが羽根筆を差し出した。
「聞き返せる形なら、封筒の中で急がずにすむね」
旅人は、札の下に書き足した。
`見えた場所から外れると、見えなくなった`
長い。
でも、これがないと、影がずっとそこに見える知らせになってしまう。
旅人は、もう一行足したくなった。
`見た人の手も、少し急いでいた`
そう書くと、自分の手の話になりすぎる気がした。
けれど、それを書かないと、知らせがきれいすぎる気もする。
シオンは、旅人が止まった手を見て言った。
「知らせる人の手を、全部送る必要はありません」
「でも、手がなかったことになると」
「はい。だから、手の跡を少しだけ残します」
教授は、札の端へ小さな丸を描いた。
「これは、見た人の手があった印です」
名前ではない。
反省でもない。
ただ、この知らせは誰かの手を通ったと分かる印だった。
旅人は、その丸を見て、少し息が楽になった。
遠い影があるように見えた。
見える場所から外れると、見えなくなった。
そこへ、手の跡がひとつ。
それなら、受け取った人は、影そのものだけでなく、見た人の位置も少し思い出せるかもしれない。
ネジリは、その札を読んだ。
「全部を書くと長いです」
「はい」
旅人は言った。
「でも、短くすると、速くなりすぎる」
教授は、遅らせる封筒の横へ新しい札を置いた。
`短くして速くなりすぎる手`
ネジリは、自分の手を見た。
「あります」
「短い知らせが悪いわけではありません」
シオンは言った。
「ただ、短くした時に何がこぼれるかを見ます」
返事待ち棚の上段に、三枚の札が並んだ。
知らせたい。誰に、はまだ。
広すぎると、届いたあとを見られない。
短くして速くなりすぎる手。
連絡管は、まだ完全につながっていない。
それでも、知らせる前の棚はもう忙しい。
ネジリは、少し困った顔をした。
「送る前に、こんなに見るのですか」
「全部の連絡で見るわけではありません」
シオンは答えた。
「でも、遠い影のように、相手が見返せないものは、少し多めに見ます」
「親切で知らせたいのに」
ネジリは小さく言った。
「遅らせると、不親切に見えます」
その言葉で、桟橋の空気が少し変わった。
遅らせる。
次の街へ送るはずの言葉が、ここで少しだけ顔を出す。
本編にはしない。
でも、入口にはなる。
ネジリは、自分で言った言葉に少し驚いていた。
「不親切に見える、って、誰から見えるんでしょう」
シオンは、すぐ答えなかった。
教授も、羽根筆を止めた。
ククルーは、返事待ち棚の下段を見ている。
旅人は、丸い布の二つの札を見た。
知らせたい範囲。
返事を置ける範囲。
不親切に見えるのは、知らせたい側からかもしれない。早く知らせない自分を責める手。
受け取る側からかもしれない。どうしてすぐ教えてくれなかったのかと思う手。
まだ相手が決まっていないのに、想像の相手だけが先に怒っているのかもしれない。
旅人は、三枚の札を書いた。
`知らせる側から不親切に見える`
`受け取る側から不親切に見えるかもしれない`
`まだいない相手の顔を作った`
最後の札で、ネジリが小さく息を吸った。
「作りました」
「はい」
シオンは静かに答えた。
「親切になりたい時ほど、相手の顔を作りやすいです」
それは責める言葉ではなかった。
むしろ、親切になりたい手を守るための言葉だった。
ククルーは、袋を触らなかった。
旅人も、ククルーの顔を急いで見なかった。
教授は、静かに札を書いた。
`遅らせると、不親切に見える手`
それを、遅らせる封筒の上へ置く。
「見える手、ですか」
ネジリが聞く。
「はい。遅らせることが、本当に不親切かどうかは、まだ決めません」
シオンは、封筒の口を少しだけ折った。封はしない。
「遅らせる封筒は、隠す封筒ではありません」
「送らない封筒でもない」
旅人が言う。
「はい。送る前に、届いたあとを少し見るための封筒です」
ネジリは、連絡管の鈴を見た。
「鈴を鳴らしたいです」
「鳴らしてもよいです」
シオンは答えた。
「ただ、何の合図として鳴らしますか」
ネジリは考えた。
「送ります、では速いです」
「はい」
「送る前に、棚を見ます、の合図なら」
「それなら、今日の合図になります」
ネジリは、鈴を小さく鳴らした。
ちん。
音は、ククルーの鈴とは違った。乾いていて、工房の棚に置かれた小さな金具の音だった。
ククルーは、何も言わなかった。
旅人も、何も聞かなかった。
この音は、この音として置く。
教授は札を書いた。
`送る前に棚を見る合図`
連絡管の横へ置く。
鈴の音が消えたあと、桟橋は少し静かになった。
静かになると、すぐ次の声を入れたくなる。
音のあとにできる空白は、連絡管の口に似ていた。何か入れれば、すぐ通りそうに見える。
旅人は、管の口から少し離れた。
「音のあとも、速くなります」
「はい」
シオンは、鈴の横へ布を一枚置いた。
`音のあとにできる口`
ネジリは、その札を読んで首を傾げた。
「口?」
「何か言いたくなる場所です」
旅人は答えた。
「連絡管の口だけじゃなくて、音のあとにも口ができます」
教授はうなずいた。
「観察がここに残っているね。今日は、その口をすぐ声で埋めないよ」
ククルーは、口を閉じて、にこりとした。
その後、シオンは管の端を少しだけ近づけた。完全につながらない。声が通りやすくなるだけだ。
「試そう」
旅人は、封筒へ入れなかった札を手にした。
声にする前に、返事待ち棚を見た。
送る前。
返事の前。
そして、速度札。
戻れる。
待てる。
こぼさない。
聞き返せる。
旅人は、管へ向かって言った。
「遠い影があるように見えました。見える場所から外れると、見えなくなりました。今は、名前をつけずに置いています」
長い。
声は管を通る途中で少しやわらかくなった。
もう片方の端から出た声は、短い合図のようには聞こえなかった。誰かが急いで来るための声ではなく、低い台のそばへ座るための声に近かった。
ネジリは、ほっとしたように息を吐いた。
「速くない連絡です」
「遅い連絡でもありません」
シオンは言った。
「返事を置ける連絡です」
教授は、返事待ち棚の下段へ札を置いた。
`返事を置ける連絡`
その札は、今日いちばん静かだった。
ククルーは、遅らせる封筒を少し持ち上げた。
「この封筒は、次の街へ持っていけそうだね」
ネジリが目を上げる。
「次の街」
言いかけて、袋を見る。
「まだ、名前は言いません」
「うん」
ククルーは、やわらかくうなずいた。
「名前を言わないまま、封筒だけを少し覚えておこう」
旅人は、遅らせる封筒の灰色を見た。
送る。
遅らせる。
待つ。
返事の前を作る。
それらは、今日初めて近くに並んだ。
まだ作法ではない。
でも、入口はある。
この章の終わりに、飛空艇の連絡管は遠くへ声を送らなかった。
管は完全につながらず、封筒は封をされず、返事待ち棚は返事のあとまで作られなかった。
それでも、知らせたい手は少し見えた。
短くして速くなりすぎる手も、遅らせると不親切に見える手も、低い台へ置かれた。
遠くへ言葉を送る前に、届いたあとを少し見る。
そのための封筒が、空の荷物に一つ増えた。
封筒は、荷物の中へすぐ入れられなかった。
ネジリは、灰色の封筒を持ったまま、青い布、白い布、袋の前を順番に見た。
「どこへ置けばいいのでしょう」
「持っていくものですか」
シオンが聞く。
「持っていきたいです」
「持っていかないものですか」
「送らない封筒ではないから、違うと思います」
「まだ決めないものですか」
ネジリは、少し考えた。
「持っていくけれど、使ったことにしないもの、かもしれません」
ククルーが小さく笑った。
「ややこしい荷物が増えたね」
教授は、白い布の端へ封筒を置いた。
「では、白い布の端です。持っていくかもしれない。使うかもしれない。でも、作法が完成したことにはしない」
旅人は、その置き方を見た。
封筒は、青い布へ完全に入らない。
灰色の布へも入らない。
白い布の端で、少しだけ青い布に近い。
それが、今日の正確さだった。
送る/遅らせる作法は、まだ始まったばかりだ。
封筒を持てばできる、ではない。
封筒を置く場所を迷えるようになった。
その迷いが、次の空へ持っていける荷物になった。




