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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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第12巻 飛空艇と仮説の空 第7章 複数大陸の影

雲の仮説棚は、朝になっても閉じていなかった。


湿った札は、少し乾いていた。


でも、乾いたからといって、字がはっきり答えになったわけではない。にじみは薄く残り、昨日の見えない時間を、見えないまま覚えていた。


ネジリは、その棚の前で小さく息を吸った。


「今日は、遠くを見ますか」


シオンは、すぐにうなずかなかった。


「遠くの近くを見ます」


「遠くの近く」


ネジリは、言葉を繰り返した。


「遠くを、そのまま手元へ持ってくると、近くになった気がします」


シオンは、細い窓枠を持ち上げた。昨日の見晴らし窓より、少し横に長い。枠の下には小さな札立てがついている。


「航路窓です」


教授が言った。


「航路を決める窓ではありません」


ネジリが先に言う。


「はい」


教授はうなずいた。


「見えたものを、航路にしたくなる窓です」


ククルーが、空へ持っていかない言葉の袋を横へ寄せた。


「今日も袋が忙しそうだね」


「遠くが見えたら、行ける、を入れます」


ネジリは言った。


「遠くが見えたら、分かる、も入れます」


「遠くが見えたら、近い、も入りそうです」


旅人が言うと、ネジリは深くうなずいた。


「それは、かなり入りそうです」


袋の口は、まだ開けない。


まず、言葉の手前を見る。


シオンは、低い台へ遠景札を並べた。


`見えた`


`見えたように思った`


`影があるように見えた`


`名前をつけたくなった`


四枚。


どれも、少し似ている。


似ているから、混ぜやすい。


シオンは、四枚の札を一列には並べなかった。


少しずつ高さを変え、低い台の上に斜めに置く。上から見ると階段のようにも、窓枠の影のようにも見える。


「並べないのですか」


ネジリが聞いた。


「並べると、順番に見えます」


シオンは答えた。


「見えた、見えたように思った、影があるように見えた、名前をつけたくなった。順番に進むとは限りません」


旅人は、四枚を見た。


たしかに、見えた、のあとに、すぐ名前をつけたくなることもある。


見えたように思った、の前に、もう名前が出ていることもある。


影があるように見えた、と言いながら、心の中ではもう行き先を探していることもある。


札は階段ではない。


むしろ、手がどこへ飛びたがるかを見るための、低い止まり木のようだった。


「どこから見てもいいのですか」


「はい。ただし、見た順番も残します」


教授は、札の横に細い糸を置いた。結ばない糸だ。端だけが小さく丸まっている。


「順番を結ばない糸です」


ネジリは、糸をつまもうとして、すぐ手を戻した。


「結びたくなります」


「その手も、白い帯へ置けます」


旅人は、白い帯の余白を見た。


名前だけではない。


順番も、結びたくなる。


遠景は、見えた瞬間から、旅人たちの中で小さな物語を始めようとする。どこにあるのか。何なのか。次に行くのか。前に見た場所と似ているのか。


その物語を消す必要はない。


ただ、影そのものの上へ乗せない。


「名前は書かないのですか」


ネジリが聞いた。


「今日は書きません」


シオンは答えた。


「遠くの影に名前をつけると、そこへ着いたような気になります」


教授は、雲の仮説棚の横に、細長い布を置いた。片側は青く、片側は灰色。中央には細い白い帯がある。


「距離と見え方の布です」


青い側には `距離`。


灰色の側には `見え方`。


白い帯には、何も書かれていない。


「白いところは?」


「言いたくなった名前を休ませるところです」


ネジリは、口を閉じた。


もう名前が出かけていたのだろう。


旅人も、同じだった。


遠くの影と言われるだけで、今まで訪れた場所の色が浮かぶ。霧、滝、砂、月光、黄昏。どれも旅の中にある。でも、今日の影を、それらへすぐ結びつけると、影が影でいられなくなる。


飛空艇は、係留を外さなかった。


ただ、桟橋の端でいつもより少し長く浮き、航路窓を空の広い側へ向けた。帆はたたまれている。進むためではない。見る場所を、少しだけ外へ向けるためだ。


空は、雲の手前より明るかった。


明るいと、見える気がする。


明るいことも、急がせる。


旅人は、そのことを低い台へ置いた。


`明るいと見える気がする`


シオンは、うなずいて、灰色の側へ置いた。


「見え方ですね」


その横に、ネジリが別の札を書いた。


`明るいと安心したくなる`


「安心も、見え方ですか」


「感情です」


教授は答えた。


「でも、今日の見え方のそばに置く価値があります」


ネジリは、札を灰色の側へ置きかけて、少し迷った。安心は距離ではない。影そのものでもない。けれど、安心したい気持ちは、見えたものを早く確定させようとする。


旅人は、白い帯を指した。


「名前を休ませるところに近いかも」


「安心したくなる手も、白い帯へ」


シオンはうなずいた。


札は白い帯へ置かれた。


安心したくなる手。


それは、急ぐ手と似ていた。急いでいるようには見えない。むしろ落ち着きたくて、名前や数字や行き先を求める。


急いで安心する。


その形は、遠景を見る時にとても起こりやすいのだと、旅人は思った。


航路窓の向こうに、遠い影が一つ見えた。


とても薄い。


空の色と、ほとんど同じ。


それでも、そこだけ少し重い色をしている。


ネジリの手が、札へ伸びた。


`影があるように見えた`


その札を、灰色の布へ置く。


「ありました、ではなく」


「あるように見えました」


ネジリは言い直した。


教授は満足そうにしすぎない顔でうなずいた。


「よい距離です」


遠い影は、空の中で動かなかった。


動かないように見えた。


飛空艇の見方が変わったのか、風が少し変わったのか、影そのものが変わったのか、まだ分けられない。


シオンは、青い側へ札を置いた。


`どれくらい遠いかは、まだ測らない`


ネジリが驚いた。


「測らないのですか」


「測れる道具はあります」


「では」


「測ると、近づいた気になる時があります」


ネジリは、しばらく黙った。


「数字が出ると、もう分かったように見えます」


「はい」


教授は、別の札を書いた。


`数字を出したい手`


白い帯へ置く。


数字そのものは悪くない。


けれど、今日の数字は、遠くを近くしすぎるかもしれない。


ネジリは、数字の札をじっと見た。


「数字は、役に立ちます」


「はい」


教授はすぐ認めた。


「役に立つから、気をつけます」


「役に立たないものより?」


「役に立たないものは、手が急ぎにくいね。役に立つものは、先に走りたくなるからね」


ククルーは、白い帯の上で前足をそろえた。


「役に立つ顔で走る手は、止めにくいね」


ネジリは、少し笑った。


「悪い顔なら止めやすいです」


「そういうことです」


旅人は、数字を出したい手の横へ、何も書かない小さな札を置いた。


「これは」


「数字を使う日のための空白」


旅人は答えた。


「今日は使わないけれど、数字を悪者にしないために」


シオンは、静かにうなずいた。


「よい空白です」


旅人は、遠い影を見た。


影は一つではなかった。


しばらく見ていると、薄い影の横に、もっと淡い影があるように見える。さらに、その下に、細い線のような影があるように思える。


三つ。


と言いたくなった。


でも、本当に三つかどうかは分からない。


雲の名残かもしれない。


光の重なりかもしれない。


見たい気持ちが、影を増やしたのかもしれない。


旅人は、遠景札を二枚取った。


`見えたように思った`


`名前をつけたくなった`


一枚目を灰色へ。


二枚目を白い帯へ。


ククルーが横から言った。


「複数、という言葉も、今日は少し熱を持つね」


教授は新しい札を書いた。


`複数と言いたくなった`


それも白い帯へ置く。


ネジリは、航路窓を見つめたまま言った。


「いくつかあるように見えます」


「はい」


シオンは答えた。


「いくつかあるように見えます」


「それだけで、今日はいいのですか」


「今日の最初は、それで十分です」


ネジリは、少し物足りなさそうにした。


その物足りなさを、ククルーはすぐ慰めなかった。


物足りないから、次の手が見える。


ネジリは、自分で札を書いた。


`もっとはっきり見たい手`


それを白い帯へ置く。


白い帯は、少し混み合ってきた。


名前をつけたくなった。


数字を出したい。


複数と言いたくなった。


もっとはっきり見たい。


安心したくなる。


結びたくなる。


どれも、遠い影そのものではない。


けれど、影を見たことで生まれた手だ。


シオンは、白い帯の両端に小さな重りを置いた。


「白い帯がいっぱいになると、どうしますか」


ネジリが聞く。


「広げます」


「捨てないんですか」


「捨てません。手が多いことは、失敗ではありません」


教授が言った。


「ただ、多い手を、影の名前にしない」


旅人は、その言葉を胸に置いた。


見たい手が多い。


知りたい手が多い。


行きたい手が多い。


それらは、遠景の価値を高めるものではない。旅人たちの中で動いたものだ。多いから悪いのではない。多いから、置き場所がいる。


旅人は、その札を見て、うなずいた。


もっとはっきり見たい。


それは悪いことではない。


霧の森でも、滝の岸でも、砂の夜でも、はっきり見たい気持ちは旅を進めた。けれど、はっきり見たい手が、影を勝手に名前へ変えることもある。


シオンは、航路窓の下に小さな布を垂らした。


布は半透明で、窓の下半分だけを薄く覆う。


「隠すのですか」


ネジリが聞いた。


「半分だけ休ませます」


「見えにくくなります」


「はい。見えにくくして、見たかった手を見ます」


航路窓の下半分が薄く白くなると、遠い影はさらに曖昧になった。


ネジリは、すぐ不満そうな顔をした。


「ああ」


言ってから、笑いを小さくする。


「見えにくくなるのが、いやでした」


「その札を」


教授が紙を渡す。


ネジリは書いた。


`見えにくくなるのがいやだった`


白い帯に置くか、灰色に置くか迷い、最後に青い側へ置いた。


「距離ですか」


旅人が聞く。


「はい。遠いままにされるのがいやだったのかもしれません」


シオンは、静かにうなずいた。


「よい置き方です」


遠い影は、遠いままだった。


でも、遠いままにすると、こちらの中で何が動くかが見えた。


行きたい。


測りたい。


名前をつけたい。


複数と言いたい。


次の街だと言いたい。


言葉たちは、袋と白い帯と仮説未満の皿へ分けられた。


ククルーは、袋を見て言った。


「今日は、次の街だ、が入りました」


ネジリははっとした。


「言っていないよ」


「言っていません。でも、袋の近くまで来ていました」


ネジリは、自分の胸のあたりを見た。


「来ていました」


旅人も、同じように胸を見た。


次の街。


その言葉は、まだ口に出していない。


でも、遠い影を見た時、どこかで浮かんだ。


浮かんだ言葉は、声にしないままでも、手を引く。


旅人は、その引っぱりを見た。


声に出していないから安全、というわけではない。心の中で走った言葉は、時々、声より速い。誰にも聞こえないぶん、止まったかどうかも分かりにくい。


「言っていない言葉も、袋へ入りますか」


旅人が聞くと、ククルーはうなずいた。


「入るよ。むしろ、言っていない言葉ほど、袋の手前で見ておきたいね」


ネジリは、驚いたように自分の口元を押さえた。


「言わなければ、なかったことにできると思っていました」


「できる時もあります」


教授は答えた。


「けれど、遠景の前では、言わなかった言葉が航路の下書きになることがあります」


シオンは、距離と見え方の布の外側へ細い紙を置いた。


`声にしなかった下書き`


その紙は、白い帯の中には入れない。袋へもすぐ入れない。布の外側で、少し風に触れさせる。


「外側ですか」


ネジリが聞く。


「まだ、言葉になっていないからです」


シオンは言った。


「でも、外側に置かないと、下書きのまま行き先を決めるかもしれません」


旅人は、胸の中の「次の街」をその紙のそばへ置く手をした。


実際には何も置かれていない。


でも、置く手をしたことで、胸の中の言葉が少し手前に戻った。


遠い影は、相変わらず遠い。


その遠さが、少しだけありがたく思えた。


近ければ、言葉はもっと早く届いてしまったかもしれない。遠いから、手前で見られる。遠いから、影を影のまま置ける。


旅人は、空へ持っていかない言葉の袋へ、その言葉を入れた。実物はない。ただ、入れる手だけをする。


袋は少し重く見えた。


教授は、距離と見え方の布の中央に、新しい札を置いた。


`遠い影は、行き先ではなく、問いの向き`


ネジリが読んで、少し首を傾けた。


「問いの向き」


「行き先にするには早い。何もないことにするにも、見えたものを消しすぎる」


教授は言った。


「だから、今日は向きです」


シオンは、航路窓を少し閉じた。


完全には閉じない。


窓の端に、細い隙間が残る。


「閉じないのですか」


「閉じると、見なかったことにしやすいです」


「開けたままだと」


「行ける気になりやすいです」


ネジリは、窓の隙間を見た。


「細い隙間」


「はい。今日の遠景札が乾くまでの隙間です」


旅人は、雲の仮説棚を見た。


湿った札のにじみは、もう少し薄くなっていた。


昨日、見えない時間を失敗にしなかった。


今日は、見えた影を答えにしない。


二つは違う。


でも、そばにある。


見えないと、何かを作りたくなる。


見えると、何かを決めたくなる。


どちらも、手が先に走る。


だから、棚と布と袋がいる。


飛空艇は、ゆっくり床へ戻った。


航路窓の向こうから、遠い影は見えなくなった。


消えたのではない。


見える場所から外れた。


ネジリは、すぐもう一度見たいと言わなかった。


言いたい顔はした。


でも、低い台へ戻った。


「遠い影は、まだ遠いです」


ネジリは言った。


「はい」


シオンが答える。


「いくつかあるように見えました」


「はい」


「名前をつけたくなりました」


「はい」


「次の街だと思いかけました」


ククルーが袋を軽くたたく。


「入りました」


ネジリは、少し安心したように笑った。


「袋に入れたら、なくなるのかな」


「なくなりません」


旅人は言った。


「でも、言葉が先に着くのを待たせられる」


教授は、その言葉を札にした。


`言葉が先に着くのを待たせる`


それは、速度札のそばへ置かれた。


ネジリは、その札を速度札の上へ置こうとして、シオンに止められた。


「上ではなく、そばです」


「上だと?」


「待たせる、が速度の答えに見えます」


ネジリは、そっと横へずらした。


戻れる。


待てる。


こぼさない。


聞き返せる。


その四つのそばに、言葉が先に着くのを待たせる札がある。


上に乗っていない。


代表にもなっていない。


ただ、今日の遠景から持ち帰る手として、そばにある。


「待てるだけでは足りないんですね」


ネジリが言った。


「何を待たせるかを見る必要があります」


旅人は答えた。


待つ、という言葉は、やさしい。


やさしいから、すぐ標語になる。


でも今日は、待つことそのものではなく、言葉が先に着こうとする手を待たせる。その具体的な形が必要だった。


戻れる。


待てる。


こぼさない。


聞き返せる。


四つの言葉の中で、今日は `待てる` が少し明るく見えた。


この章の終わりに、旅人たちは遠い大陸へ行かなかった。


大陸だと決めることもしなかった。


ただ、空の広い側に、いくつかの影があるように見えた。


その影を、名前へ急がせず、距離と見え方の布へ置いた。


遠くは、遠いままでよい。


遠いまま、問いの向きになることがある。

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