第12巻 飛空艇と仮説の空 第5章 歯車街を上から見ない
低い台には、浮いたあとが残っていた。
船体は床へ休んでいる。
係留紐も、留め輪も、余り輪も、昨日とほとんど同じ場所にある。
ほとんど同じ。
同じ、と言い切るには、足元の聞こえ方が変わっていた。
ネジリは、低い台の前で、昨日より少し静かに立っていた。静かになったのは、元気がなくなったからではない。元気が、すぐ上へ跳ねないよう、自分で手を添えているように見えた。
「今日は、歯車街を見ます」
シオンが言った。
ネジリの目が、明るくなった。
「上から」
言ってから、すぐ空へ持っていかない言葉の袋を見た。
「上からなら全部分かる、は入れます」
ククルーが袋の口を少し開いた。
「入る場所の多い袋だね。昨日から、ずっと働いているよ」
「では、上からなら少し違って見える、は入れません」
ネジリは考えながら言った。
教授がうなずく。
「入れなくてよいと思います。違って見えることまで置いてしまうと、今日見るものがなくなります」
旅人は、その分け方を覚えた。
全部分かる、は袋へ入れる。
違って見える、は持つ。
持つけれど、答えにしない。
シオンは、桟橋の端へ細い窓枠を置いた。窓といっても、壁についているものではない。両手で持てる四角い枠で、真ん中には透明板が入っている。透明板には、細い線が何本も引かれていた。
「これは、地図ではありません」
シオンは先に言った。
ネジリが少し笑う。
「言われる前に、地図だと思いました」
「思いやすい形です」
「では、何ですか」
「見えたところと、見えないところを同じ板へ置くための枠です」
長い。
でも、長い名前が必要な道具だった。
教授は短く札を書いた。
`一つの図にしない透明板`
透明板の線は、歯車街の道を写したものではない。線に見えるが、線そのものには名前がない。上から見た時、つなげたくなるところを、つなげる前に止めるための線だった。
旅人は、透明板を持った。
枠の中に、桟橋の床が見える。
床の線も、船体の影も、透明板の線と重なる。重なると、すぐ意味があるように見える。
「意味があるように見えます」
旅人が言うと、シオンはうなずいた。
「はい。重なると、意味があるように見えます」
「意味がない、とは言わないのですね」
「言いません。見えた重なりを、すぐ説明にしないだけです」
ククルーは、透明板の端をのぞきこんだ。
「おやつの皿と机の木目が重なると、おやつが二倍あるように見える時があるよ」
ネジリが真剣に顔を上げる。
「ありますか」
「あるよ。目にはあるけれど、お腹にはないよ」
教授は、笑いを小さくして、低い台へ新しい布を広げた。
灰色と白の布だった。灰色の側には `見えたところ`。白い側には `見えないところ`。中央には何も書かれていない細い帯がある。
「中央は何ですか」
ネジリが聞く。
教授はすぐ答えなかった。
「言いたくなったことを、まだ置かない場所です」
ネジリは、少し身構えた。
「たくさん置きそうです」
「そのために広めにしてあります」
飛空艇は、今日も係留紐を外さなかった。
帆も広げない。
けれど、昨日より少しだけ高く浮く準備をした。桟橋の端から離れない。街へ向かって進まない。船体の横にある小さな見晴らし窓を、桟橋側へ向けるだけだ。
「飛ぶ、ではありません」
シオンが言った。
「浮いて、見方を変えます」
ネジリはうなずいた。
「行く、ではなく」
「見る場所を少し変える」
「見る場所を変えると、見えるものが増えます」
「増えます」
「増えたら、分かった気になります」
「なります」
ネジリは、袋を見た。
「その気も入れますか」
教授は首を横に振った。
「気は入れずに、手を見ましょう」
ネジリは、自分の手を見た。
「全部を線でつなぎたい手です」
シオンは、その言葉を低い台の中央の帯へ置いた。
`全部を線でつなぎたい手`
よい札だった。
悪い札ではない。
線でつなげば、助かることもある。迷子になりにくい。荷物の道も見える。歯車街の煙がどこへ流れるか、少し分かることもある。
ただ、今日その手を先頭にすると、見えないところが消える。
飛空艇の底で、低い音がした。
ふく。
昨日より少し長い。
係留紐の余り輪が、二つぶん動いたように見えた。
シオンは、それをすぐ札にしなかった。
昨日の札を指で示す。
`余り輪が一つぶん動いたように見えた`
その横に、ネジリが新しい札を書いた。
`今日は二つぶん動いたように見えた`
旅人は、二枚の札が並んだところを見た。
増えた。
でも、増えたから進める、ではない。
増えたから、比べられる。
比べられるから、急がず置ける。
船体が床から離れた。
昨日より少し高い。
それでも、桟橋の上だ。係留紐はつながっている。帆はたたまれている。飛空艇は街へ向かわない。
見晴らし窓から、歯車街の一部が見えた。
最初に見えたのは、屋根だった。
丸い屋根。
平たい屋根。
蒸気管が曲がる屋根。
洗った布が干してある屋根。
下から歩いている時には、屋根は遠いものだった。けれど、少し浮くと、屋根が手元の小さな部品のように見える。
部品。
言いたくなって、旅人は止めた。
屋根は部品ではない。
部品のように見えた。
シオンは、旅人の顔を見て、透明板を渡した。
「見えたところへ」
旅人は、灰色の布に札を置いた。
`屋根が部品のように見えた`
ネジリが窓へ顔を近づけた。
「道が、歯車みたいです」
言ってから、すぐに言い直す。
「道が、歯車みたいに見えました」
教授はうなずいた。
その札も灰色の布へ置く。
`道が歯車みたいに見えた`
ククルーは、窓の下側を見た。
「見えないところがあるね」
「どこですか」
ネジリが聞く。
「屋根の下です」
当たり前のことだった。
でも、上から見ていると、その当たり前が消えやすい。
屋根が見えると、家が分かった気になる。
道が見えると、歩く人の気持ちまで分かった気になる。
煙の流れが見えると、工房の中の手順まで分かった気になる。
ククルーは、白い布へ札を置いた。
`屋根の下`
シオンが続けた。
`工房の中の手`
教授が置いた。
`道を歩く時の足音`
旅人も置いた。
`下から見た時の顔`
白い布の上に、見えないところが増えた。
見えないところは、空白ではない。
見えないまま、そこにある。
シオンは、白い布の端を少し広げた。
そこには、まだ札が置かれていない余白があった。余白を見ると、ネジリの手がまた動きそうになる。
「屋根の下は、一つではありません」
シオンが言った。
「屋根の下の何を置きますか」
ネジリは、窓の外を見た。丸い屋根の下には、誰かの台所があるかもしれない。平たい屋根の下には、乾かしている紙があるかもしれない。蒸気管が曲がる屋根の下には、管を曲げる手の癖があるかもしれない。
かもしれない。
その言葉が増えすぎると、見えないところを自分で作り始める。
ネジリは、すぐに書かなかった。
「見えないところを、想像で埋めたくなりました」
教授はうなずいた。
「それも白い布へ置きます」
札はこうなった。
`見えないところを、想像で埋めたくなる手`
白い布の上で、その札はとても目立った。
見えないところそのものではない。
見えないところへ手を伸ばしたくなるこちらの手だ。
ククルーは、窓の下側をもう一度のぞいた。
「あの屋根の下では、たぶん朝ごはんの皿が一枚、まだ片づいていません」
ネジリが顔を上げる。
「見えるのかな」
「見えないよ」
ククルーはまじめに答えた。
「ぼくの手が、そういう皿を置きたくなりました」
ネジリは笑い、すぐに札を書いた。
`皿を置きたくなった`
ククルーは小さくうなずいた。
「置くなら札にしておこう。実物の皿を勝手に置くと、かなり手がかかるよ」
旅人は、工房の煙を見た。細い煙が屋根の横へ流れている。上から見ると、煙は一つの線だ。けれど、煙が出る前には、火を小さくした手、歯車を止めた手、誰かに声をかけた手があるかもしれない。
それも、全部は見えない。
見えない。
だから、勝手に決めない。
でも、何もなかったことにもしない。
旅人は白い布へ札を足した。
`火を小さくしたかもしれない手`
書いてから、少し考えた。
「これは、作りすぎでしょうか」
教授は札を読んだ。
「かもしれない、と書いてあります。けれど、白い布に置くには、もう少し下げてもよいですね」
旅人は、札の下に小さな空白の札を敷いた。
そして上の札を少しだけずらす。
下の白が見えるように。
「火を小さくした、とは言っていない」
「はい」
シオンはうなずいた。
「手があるかもしれないところへ、白を残しました」
遠くの鐘が、もう一度鳴った。
今度は、さっきより低く聞こえた。飛空艇の高さが少し変わったのか、風の向きが変わったのか、聞く耳が変わったのかは分からない。
ネジリは、灰色の布へ札を置いた。
`鐘が低く聞こえた`
その横に、白い布へ置く。
`どの工房か、ここでは決めない`
シオンは、その二枚を少し離した。
「近づけすぎると、低く聞こえた理由を、その工房にしたくなります」
「理由にしたくなる」
ネジリが繰り返す。
「はい。見える場所が高くなると、理由も高いところから選びたくなります」
旅人は、その言葉を聞いて、胸の中で一度止めた。
高いところから理由を選ぶ。
それは気持ちがよい。
遠くまで見ている手は、遠くまで分かった手に似ている。似ているから、取り違えやすい。
ククルーは、空へ持っていかない言葉の袋を、見晴らし窓の近くではなく低い台の足元へ置いた。
「袋も、上へ持ち上げすぎない方がよさそうだね」
「どうしてですか」
「上で袋を開けると、入れた言葉まで景色になりそうだね」
ネジリは、袋を見た。
上からなら全部分かる。
分かった。
歯車街は一つの図。
それらの言葉は、袋の中で休んでいる。休んでいる言葉を、景色にしない。
旅人は、見晴らし窓から目を戻した。
窓の外では、屋根が光っていた。
窓の内側では、札が増えていた。
どちらも今日の歯車街だった。
上で見えた街と、下で聞き返す街。
その二つを重ねないまま、同じ低い台へ置く。
ネジリは、灰色の布と白い布を見比べた。
「見えたところより、見えないところの札が多くなりそうです」
「はい」
シオンは答えた。
「上から見る時は、見えないところの札が多い方が落ち着くことがあります」
ネジリは、少し不思議そうな顔をした。
「見えない方が多いのに、落ち着くのですか」
「見えないと知っている方が、急がないので」
その時、遠くで歯車街の鐘が鳴った。
出発の鐘ではない。
昼を知らせる鐘でもない。
工房が一つ、作業の区切りに鳴らす小さな鐘だった。
上から聞くと、どの工房の鐘か分かりにくい。音は上へ丸くなって届く。下で聞けば、角を曲がった先の工房だと分かるかもしれない。
旅人は、白い布へ札を置いた。
`下で聞けば分かるかもしれない音`
ネジリはそれを見て、目を細めた。
「上で分からないことが、下で分かることもある」
「あります」
教授が言った。
「もちろん、下で分からないことが、上で見えることもあります」
シオンは灰色の布へ札を置いた。
`煙の流れる向き`
その横に白い札。
`煙が出る前の手`
二枚で置く。
上で見えるもの。
上では見えないもの。
どちらが偉いわけでもない。
どちらかだけで街になるわけでもない。
ネジリは、透明板の線を見た。
「つなげたくなります」
「どことどこを」
旅人が聞いた。
「煙の向きと、道の形と、屋根の丸さです。つなげたら、歯車街の動きが分かりそうです」
言葉が少し速くなった。
ネジリは、自分で気づいて、息を吸った。
「分かりそう、です」
ククルーは袋を揺らした。
「分かった、は入るよ。分かりそう、は今日は透明板の上だね」
教授は透明板の中央へ小さな紙を置いた。
`分かりそう線`
紙は、透明板に貼らない。
ただ置く。
貼ると、線になってしまう。
置くだけなら、あとで外せる。
ネジリは、その紙を指で押さえなかった。
押さえたくなる手を、中央の帯へ置いた。
`分かりそう線を押さえたい手`
旅人は、見晴らし窓からもう一度街を見た。
歯車街は、上から見ると静かに見える。
実際には、下でたくさんの音が鳴っているはずだ。湯気の音。工具を置く音。誰かが呼ぶ声。返事を待つ間。笑いを小さくする息。
その音は、上では一つに混ざる。
混ざった音は美しい。
でも、一つの音ではない。
旅人は、白い布へ札を置いた。
`混ざる前の小さな音`
ククルーが、その札を見てうなずいた。
「上から見ない、というのは、目を閉じることじゃないね」
「はい」
旅人は答えた。
「見たあとで、見えなかったところを消さないことだと思う」
教授は、その言葉をすぐ札にしなかった。
言葉がよく聞こえた時ほど、すぐ札にすると硬くなる。
教授は少し待ってから、短く書いた。
`見たあとで消さない`
その札は、灰色と白の布の中央ではなく、二つの布の間に置いた。
見えたところにも、見えないところにも触れている。
飛空艇は、しばらくその高さにいた。
長くはない。
でも、昨日より少し長い。
シオンは、下げる前に言った。
「持ち帰るものを選びます」
ネジリは、灰色の布から一枚取ろうとして、手を止めた。
「見えたところだけ持ち帰りそうになりました」
「見えたところは持ち帰れます」
シオンは言った。
「ただ、見えないところも一緒に置ける形で」
教授は、小さな二つ折りの札を出した。
片面は灰色。
片面は白。
「見えたところ/見えないところ札です」
ネジリは、そこへ書いた。
`屋根が部品のように見えた / 屋根の下`
旅人は書いた。
`煙の流れる向き / 煙が出る前の手`
ククルーは、羽根筆で小さく書いた。
`混ざった音 / 混ざる前の小さな音`
シオンは最後に書いた。
`上で分かりそうだった線 / 下で聞き返す場所`
四枚の二つ折り札は、閉じないで低い台へ置かれた。
閉じると、片面しか見えない。
開いたままなら、灰色と白の両方が見える。
飛空艇が下がり始めた。
昨日と同じように、床との間の明るさが薄くなる。
でも、今日は街の見え方も一緒に下がる。屋根は遠くなり、桟橋の床が近くなる。上から見た歯車街は、窓の枠から少しずつ外れていった。
消えたのではない。
見えなくなった。
旅人は、その違いを、胸の中で一度冷ました。
船体が床へ休むと、ネジリはすぐ窓を見返さなかった。
低い台を見た。
灰色の布。
白い布。
中央の帯。
開いたままの二つ折り札。
「街は、一つの図ではありませんでした」
ネジリは言った。
「一つの図にできない、ではなく」
シオンが聞き返す。
ネジリは少し考えた。
「一つの図にしない方が、戻って聞けるところが残りました」
教授は、ゆっくりうなずいた。
「今日の到達点だね」
ククルーは袋を軽く持ち上げた。
「上からなら全部分かる、は、しばらくここで休んでもらおう」
「いつか出しますか」
ネジリが聞く。
「出す時もあるかもしれないね」
ククルーは言った。
「でも、その時は、全部、という字をかなり小さくしてからだね」
ネジリは笑った。
旅人も笑った。
笑いは、桟橋の床で小さく鳴った。
上へ逃げず、下へ沈まず、低い台のそばで休んだ。
この章の終わりに、歯車街は一つの図にならなかった。
屋根は屋根として見えた。
屋根の下は、見えないまま残った。
煙は流れた。
煙が出る前の手は、下で聞き返す場所へ残った。
飛空艇はまだ、遠くへ行かない。
けれど、見えたものと見えなかったものを一緒に持ち帰るための、最初の窓を得た。




