第12巻 飛空艇と仮説の空 第4章 最初の浮上
荷物線を越える朝、桟橋の床は昨日より広く見えた。
床そのものが広くなったのではない。
見学線の手前に置いてきたものが、足の中でまだ場所を取っているからだ。
戻れる。
待てる。
こぼさない。
聞き返せる。
四つの言葉は、空白ではなくなった速度札の上で、今日も少し離れて並んでいた。近づきすぎると一つの合図に見える。離れすぎると、別々の言葉になりすぎる。シオンは、その距離を昨日のままにしていた。
「今日は、荷物線を越えます」
シオンが言った。
ネジリの足が、すぐ前へ出なかった。
出なかったことに、ネジリ自身が驚いた顔をした。
「足が、待ちました」
「待てる、が少し働いたね」
ククルーは、低い台の横で前足をそろえた。
「働きすぎると昼寝になるから、ほどほどで見ておこう」
ネジリは笑い、笑いを小さくしてから、荷物線を見た。
荷物線の向こうには、飛空艇の腹が近く見えた。船体の下へ入るわけではない。けれど、見学線の手前から見るより、影が濃い。帆の端見本ではなく、たたまれた帆の縫い目が少し見える。係留紐も、手元だけではなく、床の留め輪から船体へ伸びているところまで見えた。
見えるところが増えると、分かったところも増えた気になる。
旅人は、その気持ちを足元に置いた。
シオンは、荷物線の上に細い板を置いた。板には、粉ではなく小さな丸が描いてある。
「足を置く板ですか」
ネジリが聞く。
「足を置く前に、足がどこへ行きたいかを見る板です」
「また手前です」
「はい。線を越える日も、手前があります」
教授は、空用の試し布を荷物線のすぐ向こうへ広げた。四つの丸は、少し風を受けていた。
触れる前。
そば。
通ったあと。
まだ置かない。
昨日までの丸と同じだ。
でも、今日は、丸の向こうに船体がある。
同じ丸でも、近くにあるものが変わると、丸の重さが変わる。
旅人は、それを覚えておこうと思った。
シオンは、浮上札を出した。
白い札が三枚。
一枚目には、`浮いた`。
二枚目には、`浮いたように見えた`。
三枚目には、何も書かれていない。
その白い札の横に、シオンは小さな足形板を置いた。板には左右の足形が描いてあるが、足形の少し前に、もう一組の薄い線がある。
「これは、足が先に行きたくなる場所です」
ネジリがしゃがみ込んだ。
「足形が二つあります」
「濃い方は、今立つ場所。薄い方は、立ちたくなる場所です」
「立ちたくなる場所まで、行ってはいけないのですか」
「いけないのではありません。行きたいことを先に見ます」
旅人は、足形板の前に立った。濃い足形に自分の足を合わせると、薄い足形が少し先に見える。ほんの半歩より短い距離だ。
短い。
でも、船体の下では、その短さが大きくなる。
ネジリも足形板に立った。
「薄い方へ乗りたいです」
「はい」
シオンは言った。
「その手を、足の前に置きます」
ネジリは、札へ書いた。
`薄い足形へ乗りたい`
その札を足形板の先ではなく、今立つ足形の横へ置く。
「先に置かないのですね」
「先に置くと、足が追いかけます」
教授は答えた。
荷物係が、空の箱を二つ持ってきた。ひとつは軽い箱。もうひとつは、同じ大きさだが中に布の重りが入っている。
「浮く前に、荷物の気持ちも見ます」
ネジリが少し笑った。
「荷物に気持ちは」
言いかけて、止まる。
「荷物を持つ手の感じですね」
荷物係はうなずいた。
「軽い箱は、早く持ち上げたくなる。重い箱は、慎重に持ちたくなる。でも、軽いから雑にしてよいわけでも、重いから大事というわけでもない」
二つの箱は、荷物線の向こうへ置かれた。
シオンは、軽い箱の横に札を置く。
`軽いから急ぎたくなる`
重い箱の横に、もう一枚。
`重いから大事に見える`
その間へ、旅人が札を置いた。
`重さで大事さを決めない`
飛空艇の下で、これらの札は少し小さく見えた。船体が大きいからだ。
大きいもののそばでは、小さな札が頼りなく見える。
けれど、小さいからこそ、持てる。
大きな飛空艇を一度に持つことはできない。小さな札なら、手元へ戻せる。
ククルーは、空へ持っていかない言葉の袋を、軽い箱と重い箱の間へ置いた。
「この袋は、軽いかな、重いかな」
ネジリはすぐ答えなかった。
袋は空っぽだ。
でも、空へ持っていかない言葉が入る予定の袋でもある。
「持つ手が、時々重くします」
ネジリは言った。
ククルーはうなずいた。
「袋は空っぽだけれど、手は空っぽじゃないんだね」
教授は、低い台へ札を置いた。
`手は空っぽではない`
その札は、浮上札の前に置かれた。
飛空艇が少し浮く前に、足も、荷物も、袋も、手元で一度重さを持った。
ネジリは一枚目を見て、息を吸った。
「浮くのですね」
「低く、です」
シオンは、すぐに言った。
「桟橋を離れません。係留紐も外しません。帆も広げません。今日は、浮上という言葉が先に飛ばないようにします」
「浮上という言葉が飛ぶ」
ククルーがひげを揺らした。
「言葉は、時々、飛空艇より速いからね」
ネジリは、三枚目の白い札を見た。
「これは何を書く札かな」
「あとで書きます」
シオンは答えた。
「先に書くと、見方が先に決まります」
教授は、係留紐の留め輪のそばへ丸い金具を置いた。小さな輪がいくつも重なっている。紐の余りを数えるための輪だ。
「係留紐の余り輪です」
ネジリがしゃがみ込んだ。
「余りを見るのですか」
「はい。張った、ゆるんだ、切れそう、ではなく、どれだけ余りがあるように見えるかを見ます」
シオンは、すぐ言い直した。
「切れそう、という札は今日は使いません。怖さを作るための言葉になりやすいので」
旅人は、係留紐を見た。
紐は、飛空艇を引き止めているように見える。
でも、昨日シオンは言った。
つないでいる手も、飛ぶ準備。
引き止めているだけではない。
戻れる場所を持っている。
教授は、その札を低い台へ戻した。`つないでいる手も、飛ぶ準備`。その横に、今日の新しい札を置く。
`つないだまま、少しだけ浮く`
ネジリはその札を読んだ。
「少しだけ」
「はい」
「どれくらいですか」
シオンは手のひらを床から少しだけ上げた。
「最初は、手のひら一つぶんより低く」
「それは、浮いたと言えますか」
「言いたくなります」
「言ってはだめですか」
「だめではありません。だから、二枚の札があります」
シオンは、`浮いた` と `浮いたように見えた` を並べた。
「船体が実際に上がった記録と、見た人の胸が上がった記録を分けます」
胸が上がる。
旅人は、その言葉を聞いて、ネジリの顔を見た。
ネジリの胸は、もう少し上がっているように見えた。悪いことではない。空へ行く道具の前で胸が上がるのは、自然なことだ。
ただ、胸が上がったぶんを、船体が上がったぶんに足さない。
それが、今日の浮上なのだと思った。
荷物線を越える時、シオンは誰にも合図を大きくしなかった。
「一歩ずつ」
それだけ言った。
旅人は線を越えた。
ネジリも、教授も、ククルーも続いた。ククルーは線をまたぐ前に、自分のしっぽが線を先に越えないよう、少しだけ丸め直した。
「しっぽも一歩ずつだね」
ネジリが小声で言った。
「大事だね」
ククルーはまじめに答えた。
荷物線の向こうは、船体の音が近かった。
ごう、と鳴るのではない。
ふく。
すう。
低く、短い音が、床の下から上がる。
シオンは、それらの音をすぐ札にしなかった。
「音はあとで」
教授がうなずく。
「今は、足元」
足元。
旅人は床を見た。
飛空艇の影が、少しだけ濃い。影の端が、風で揺れたように見える。見えるだけかもしれない。船体が動いたのか、灯りが変わったのか、見る場所が変わったのか、まだ分けられない。
シオンは、足元へ小さな札を置いた。
`足元が遠くなる前`
「まだ遠くなっていません」
ネジリが言う。
「はい。遠くなる前の足元を見ます」
飛空艇の下の灯りが一つ、薄く明るくなった。
シオンは手を上げない。
ただ、風袋の折り目を見た。
教授は、速度札を見た。
戻れる。
待てる。
こぼさない。
聞き返せる。
旅人は、それを目で追った。
飛空艇の底で、短い音が三つ続いた。
ふく。
ふく。
すう。
床に置いた係留紐の余り輪が、ほんの少しだけ揺れた。
飛空艇は、浮いた。
と言いたくなった。
でも、シオンはまだ一枚目の札を取らない。
ネジリも言わない。
旅人は、床を見た。
影の端が、昨日より少し薄く見えた。船体と床の間に、手のひらより小さい明るさが入っている。明るさが入ると、足元が急に遠くなった気がした。
実際の距離は、ほんの少し。
気持ちの距離は、もう少し。
ククルーは、低い声で言った。
「足元が、少し遠く聞こえるね」
聞こえる。
見えるではなく、聞こえる。
旅人は、その言い方がちょうどよいと思った。足元が遠くなった、と決めるには早い。でも、遠くなったように感じる体の中の音はある。
シオンは、三枚目の白い札へ書いた。
`足元が遠く聞こえた`
ネジリは、それを見て息を吐いた。
「怖い、とは違います」
「違いますか」
教授が聞く。
「怖い、と言うと、高さのせいにしたくなります。今は、足元が遠く聞こえました」
シオンはうなずいた。
「よい分け方です」
その時、係留紐が、もう一度だけ小さく鳴った。
きん。
細い音。
ネジリの目が、係留紐へ行く。
「紐が」
言いかけて、止まる。
「紐の余り輪が、一つぶん動いたように見えました」
シオンは、余り輪を見た。
「はい。余り輪が一つぶん動いたように見えました」
教授は、その札を書いた。
`余り輪が一つぶん動いたように見えた`
その横に、もう一枚。
`係留紐は、まだつないでいる`
二枚で置く。
片方だけでは、急ぐ。
動いたように見えた、だけなら不安が先に走る。
まだつないでいる、だけなら、何も変わっていないことになる。
二枚で置くと、低く浮いた場所に、戻れる足場ができた。
シオンは、そこで初めて `浮いた` の札を取った。
「船体は、床から上がりました」
短い言葉だった。
ネジリの顔が明るくなった。
シオンは続けた。
「ですが、今日の記録は、これだけではありません」
`浮いたように見えた`
`足元が遠く聞こえた`
`余り輪が一つぶん動いたように見えた`
`係留紐は、まだつないでいる`
札が並ぶ。
飛空艇が浮いた、という一つの言葉の周りに、いくつもの見方が置かれた。
旅人は、胸の中で浮いた言葉を、少し冷ました。
浮いた。
すごい。
進んだ。
もう行ける。
その言葉たちは、どれも出てきそうだった。悪い言葉ではない。けれど、今ここで全部外へ出すと、飛空艇より先に空へ行ってしまう。
ククルーは、空へ持っていかない言葉の袋を軽く持ち上げた。
「今日は、この袋が少し忙しそうだね」
ネジリは笑った。
「飛んだら完成、を入れます」
「はい」
「低くても空、も入れます」
「よいですね」
「もう行ける、も」
ネジリは言って、少し迷った。
「もう行ける、は全部入れますか」
旅人は、飛空艇の下の明るさを見た。
「全部は入れない。行けるかもしれない、の形は見たい」
教授がうなずいた。
「では、こうしましょう」
教授は新しい札を書いた。
`行けるかもしれない形だけを見る`
シオンは、その札を `まだ置かない` の丸の外へ置いた。
「丸の中ではないのですか」
ネジリが聞く。
「まだです。行けるかもしれない形は、今日は形だけです」
飛空艇は、少し低いまま、揺れずにいた。
揺れなかった、と言うのも早い。
大きくは揺れていない。
旅人は、そう言い直した。
シオンは、その言い直しを聞いて、小さくうなずいた。
「下げます」
大きな合図ではなかった。
飛空艇の底の音が、今度は逆に短くなった。
すう。
ふく。
床と船体の間にあった明るさが、少しずつ薄くなる。影が濃く戻る。係留紐の余り輪は、またさっきの場所に近いところへ落ち着いた。
近いところ。
同じところではない。
シオンは `戻った` の札を書かず、こう書いた。
`低いところへ戻りかけた`
ネジリが少し首をかしげる。
「戻りました、ではなく」
「はい。戻ったと言い切るには、見る場所が少し変わりました」
旅人は、足元を見た。
床は、さっきと同じ床だ。
でも、浮いたあとに見る床は、浮く前の床と少し違って見える。
床が変わったのか。
こちらの足が変わったのか。
そのどちらも、今は一つにしない。
飛空艇が完全に床へ休むと、桟橋の音が少しだけ戻った。遠くの歯車、管の息、布の端の小さな揺れ。
ネジリは、すぐ拍手をしなかった。
手は上がりかけた。
でも、速度札を見た。
戻れる。
待てる。
こぼさない。
聞き返せる。
ネジリは上がりかけた手を、そのまま胸の前で合わせた。音を出さない拍手のようだった。
「浮きました」
ネジリは言った。
「浮いたようにも見えました。足元が遠く聞こえました。余り輪が一つぶん動いたように見えました。係留紐は、まだつないでいました」
長い報告だった。
でも、長くてよかった。
シオンは、初めて少し笑った。
「今日の報告として、よい長さです」
教授は、低い台の上の札を一枚ずつ整えた。
「次は、上から見る準備です」
ネジリの顔がまた明るくなる。
「歯車街を見ますか」
「見ます」
教授は答えた。
「ただし、一つの図にはしません」
ネジリは、言葉を飲み込むようにうなずいた。
「上からなら全部分かる、は袋ですね」
ククルーが袋を見せた。
「入る場所が見えるね」
旅人は、桟橋の床をもう一度見た。
低い浮上だけで、足元は少し変わって見えた。
なら、高くなれば、もっと変わる。
もっと変わるから、もっと分かるとは限らない。
変わった見方を、そのまま答えにしない場所がいる。
浮く前の床。
浮いている時の明るさ。
低いところへ戻りかけた影。
それらを、低い台に置いておく。
この章の終わりに、飛空艇は遠くへ行かなかった。
ただ、桟橋の上で、ほんの少しだけ床から離れた。
その少しの間に、足元は遠く聞こえた。
遠く聞こえた足元を、遠いままにしないために、旅人たちは低い台へ戻った。




