第11巻 歯車街の未完成式 第3章 ピペット教授
ピペット教授は、窓を開けたままにした。
研究棟の外から、街の音が入り続けている。
からから。
ぽん。
しゅう。
きゅ。
そのたびに、ネジリは振り向きそうになった。自動湯気混ぜ器を置いて、外へ走り出したくなる顔をする。けれど、研究棟の机の上には未完成式がある。黒板の横には丸い磁石がある。冷まし皿の外側には待つ針の包みがある。
ネジリは、足を動かさず、上半身だけ窓へ向けた。
「見に行かないんですか」
「行きます」
教授は答えた。
「ただし、全部は見に行きません」
「全部?」
「街の音を全部追うと、音のほうが案内役になります」
ククルーが、窓辺でひげを揺らした。
「音案内役は、進み方が速いからね」
「ええ。こちらの書きつけを待ってくれません」
教授は机の引き出しを開けた。
中には、色のない札が何枚も入っている。白い札、透明に近い札、少し灰色の札。文字はない。端の形だけが違う。
「これは、観察札です」
「記録札ではなく?」
旅人が聞く。
「記録は、見たものを書きます。観察は、見る前の手も置きます」
教授は、白い札を一枚取り出し、ネジリへ渡した。
「これは、見たい手の札」
次に、少し灰色の札を出す。
「これは、まだ見ない手の札」
透明に近い札を、旅人の前へ置く。
「これは、見た気になった手の札」
旅人は、その札を見た。
透明に近いから、机の色が透けている。何もないように見えるが、手に取ると薄い重さがある。
「見た気になった手」
「いちばん速い手です」
教授は言った。
「速くて、静かで、本人にも気づかれにくい」
ククルーは、透明な札へ前足を近づけた。
「なかなか手ごわい札だね」
「ええ。発明家は、見た気になった手と長いつきあいがあります」
教授は、自分の胸を指で軽く叩いた。
「私も、何度もその手に助けられ、何度も転ばされました」
ネジリが目を丸くする。
「教授も転ぶんですか」
「よく転びます」
「翼があるのに」
「翼があると、転んだあとに少しごまかせます」
ククルーが吹き出した。
教授は真面目な顔のまま、白衣のポケットから小さな歯車を一つ出した。歯が一箇所だけ欠けている。欠けている場所には、赤い糸が結ばれていた。
「これは、私が見た気になった歯車です」
「壊れた歯車、ではないのですか」
旅人が聞く。
「壊れた、と呼ぶこともできます。でも、今日はそう呼びません」
教授は歯車を机に置いた。
未完成式からは少し離す。冷まし皿からも少し離す。待つ針の包みとは同じ線に並べない。
「昔、私はこの歯車を、完成した歯車として発表しかけました」
ネジリが、息を止めた。
教授は続ける。
「回りました。よく回りました。音も美しかった。私は、できた、と言いたかった」
黒板の `できた` の文字が、ほんの少し近く見えた。
教授は、その文字を見ない。
「でも、回るたびに、隣の小さな輪が一つ遅れました」
「止まったんですか」
「いいえ。遅れました」
旅人は、首元の鈴を思い出しそうになった。
遅れる。
その言葉は、ククルーの鈴へすぐ伸びたがる。
旅人は、透明に近い札を見た。
見た気になった手の札。
今、ククルーの鈴へ伸びる手は、見た気になりたい手なのかもしれない。
旅人は、その札を指で押さえず、札の横へ指を置いた。
ククルーの鈴は鳴らない。
教授も、鈴の話には行かない。
「私は、その遅れを、誤差だと書きました」
ネジリは、少しだけ肩をすくめた。
「誤差なら、書いてもいいのでは」
「書いてもいいです。ただし、誤差という言葉は、よく働きすぎます」
教授は欠けた歯車を指で回した。
一回転しない。
赤い糸のところで、かすかに引っかかる。
「誤差と書いた瞬間、私は、その遅れを見なくてよくなりました」
研究棟の中が、少し静かになった。
外の街の音は続いている。けれど、その音が遠くなる。
教授は歯車を止めた。
「そのあと、同じ歯車を使った小さな昇降台が、毎朝、半歩だけ遅れて止まるようになりました」
「危なかったんですか」
「危ない、と言い切るにはまだ早かった。けれど、毎朝、荷物を持った人が半歩だけ待つことになった」
ネジリは、口を閉じた。
「誰かが怒りましたか」
「怒った人もいました。笑った人もいました。半歩待つあいだに朝の挨拶が増えた、と言った人もいました」
ククルーが静かにうなずく。
「困ったことと、少しよかったことが同じ場所にあったんだね」
「はい」
教授は、赤い糸の結び目を見た。
「だから、私はこの歯車を失敗の箱にも、成功の棚にも入れませんでした。見た気になった手の箱へ入れました」
「箱があるのですか」
教授は、机の下から小さな木箱を出した。
箱には、こう書かれている。
見た気になったもの。
その横に、小さく別の札が貼られている。
まだ捨てない。
さらに下に、もう一枚。
まだ褒めない。
ネジリは、箱をじっと見た。
「褒めてもだめなんですか」
「褒めると、箱の中のものが照れます」
「照れると」
「だいたい、もう一度同じことをします」
ネジリは、自動湯気混ぜ器を見た。
「うちの機械、照れますか」
「照れるかどうかは、まだ測っていません」
ククルーが小さく笑う。
「教授の測っていないものリストは、長そうだね」
「長いです。そこが自慢です」
教授は、胸を張った。
万能解説役ではない。
旅人は、ふとそう思った。
教授は、何でも知っている人ではない。知らないものを、知ったことにしないための箱をたくさん持っている人だ。
ピペット教授は、見た気になった手の透明札を、旅人の前から持ち上げた。
「これを、持っていてください」
「自分がですか」
「はい。旅人さんは、似ているものを同じにしない手を持っています。ですが、似ているものを全部遠ざける手も出やすい」
旅人は、少し驚いた。
「全部遠ざける」
「ええ。時計塔の街から来た人は、とくに」
ククルーの耳が、ほんの少し動く。
教授は、それ以上言わない。
時計塔の理由にも、鈴の理由にも行かない。旅人の正体にも行かない。ただ、透明札を旅人の手へ置いた。
「似ている、と感じたら、すぐ同じにしない。違う、と決めたくなったら、すぐ遠ざけない。そのあいだに、この札を置きます」
旅人は、透明札を受け取った。
軽い。
けれど、見えにくい重さがある。
待つ針の包み。
未完成式へ触れる前の仮置き。
透明な観察札。
三つを持つと、手の中が忙しくなる。
けれど、忙しいからこそ、一つの答えへ集めない必要がある。
ネジリは、白い札を持っている。
見たい手の札。
教授は、灰色の札を自分の胸ポケットへ入れた。
「私は、まだ見ない手の札を持ちます」
「教授がですか」
ネジリが不満そうに言った。
「一番見に行きたがるのは、私ですから」
その言い方があまりにも自然で、旅人は少し笑った。
教授は、窓の外を見た。
「では、街へ出ます」
「未完成式は置いていくのですか」
ネジリが聞く。
「机の上の式は置いていきます」
「机の上ではない式は」
「それを見に行きます」
教授は、未完成式の横へ小さな布を一枚置いた。
布には、何も包まれていない。
「留守の布です」
「留守」
「私たちが戻る場所を、式に知らせておきます」
ククルーが目を細めた。
「式に知らせる、という言い方は少し危ないね」
「はい。だから、書きません」
教授は、布を置いただけで、札にはしなかった。
未完成式の蒸気は、静かに通っている。黒板の横には丸い磁石。冷まし皿の外側には、待つ針の包みが一度置かれた跡がある。旅人は包みを持ち上げ、跡だけを残した。
跡は、すぐ消えそうだ。
それでよい。
消えない跡にすると、待つことが机の答えになってしまう。
研究棟を出ると、入口広場の音が一度に戻ってきた。
からから。
ぽん。
しゅう。
きゅ。
その中に、新しい音が混じっている。
ぱた。
ぱた、ぱた。
布の羽が、風を打つような音。
ネジリが白い札を握った。
「見たいです」
「よいです」
教授は言った。
「白い札を持ったまま、見に行きましょう」
「走っても」
「走る前に、足元を見ます」
ネジリは自分の足元を見た。
台車の車輪が、少し先に出たがっている。
ネジリは、車輪を叱らなかった。
「半歩だけ」
そう言って、台車を半歩進めた。
旅人たちは、ぱた、ぱた、という音のほうへ歩いた。
道の途中で、教授はいくつものものを見なかった。
右の店先で、歯車つきの傘が勝手に開きかけていた。
教授は足を止めかけ、灰色の札を胸ポケットの上から押さえた。
「まだ見ません」
左の工房で、紙の小鳥が煙突へ向かって飛びかけていた。
ネジリは「見たい」と言いかけたが、白い札を見て、言葉を半分で止めた。
「見たい手があります」
「ありますね」
教授はうなずく。
「でも、今は布の羽の音へ行きます」
「どうしてですか」
旅人が聞く。
教授は、すぐに答えなかった。
少し歩いてから言う。
「今、私たちは全部を見ない練習をしているからです」
「全部を見ない」
「はい。全部を見ないことは、見落とすこととは違います」
ククルーが後ろの紙の小鳥をちらりと見る。
「見落とさないために、今日は見ない、と書く」
「書きません」
教授は言った。
「今日は、札を持つだけです」
旅人は、透明な札を持っていた。
見た気になった手。
右の傘を見た気になっていないか。
左の紙の小鳥を、もう分かったことにしていないか。
自分の中の速い手が、札の透明な重さで少し遅くなる。
ぱた、ぱた、という音は、路地の奥から聞こえていた。
路地の入口には、小さな看板がある。
羽布乾燥中。
近づきすぎないでください。
その下に、別の文字。
でも、乾いたか見たいです。
さらに下。
見たい手は、線の外へ。
路地の床には、細い銅線が一本引かれていた。
銅線の向こうで、布の羽が何枚も吊られている。洗濯物のようにも、飛空艇の小さな翼の部品のようにも見える。風が通るたび、羽布はぱた、ぱたと動く。
そのうち一枚が、乾く前に小さく浮き上がった。
ふわり。
それを見た店の人が、あわてて手を伸ばしかける。
ピペット教授は、その手を止めなかった。
ただ、銅線の手前に灰色の札を置いた。
「まだ見ない手です」
店の人は、教授を見た。
「見えているのに?」
「見えています。だから、まだ見ない手を置けます」
ネジリは、白い札を握りしめている。
「ぼくは見たいです」
ククルーが耳を動かした。
「ネジリさん、それはいい見たいだね」
旅人は、透明札を見た。
羽布は、乾いたように見える。
でも、見た気になっていないか。
乾いた、と決めた瞬間、布は飛べることになりすぎないか。
旅人は、透明札を銅線の手前へ近づけた。
置かない。
銅線にも、羽布にも触れない。
「見た気になった手も、ここまで」
店の人は、少し笑った。
「手が多いですね」
「多いです」
教授は言った。
「だから、発明は楽しい」
羽布は、もう一度ふわりと上がりかけた。
今度は、すぐ落ちた。
落ちる、というより、風の上から降りてきた。
ぱた。
店の人は手を伸ばさなかった。
ネジリも走らなかった。
教授は、灰色の札を拾い上げた。
「今日は、ここまで」
「見に来たのに、見ないんですか」
ネジリが聞く。
「見ました」
教授は答えた。
「でも、乾いたとは書きません」
「飛べるとも」
「書きません」
「失敗とも」
「もちろん」
教授は、羽布の下に落ちていた小さな糸くずを拾った。
「かわりに、これを持ち帰ります」
「糸くずを?」
「はい。今日、風がどこを通ったかを教えてくれます」
旅人は、教授の手元を見た。
ピペット教授は、大きな答えを持ち帰らない。
動いた羽布ではなく、乾いたかどうかの判定でもなく、風が通った小さな糸くずを持ち帰る。
万能解説役ではない。
検証者。
見たい手と、まだ見ない手と、見た気になった手を連れて、必要な小ささのものだけを持ち帰る人。
ククルーは、旅人の横で小さく言った。
「全部を持ち帰らない案内役なんだね」
「はい」
旅人は答えた。
「でも、全部は教えない案内役です」
「それが、今日のいいところだね」
研究棟へ戻る道で、ネジリは自動湯気混ぜ器を押しながら、白い札を見ていた。
「教授」
「はい」
「見たい手は、悪くないんですよね」
「悪くありません」
「じゃあ、完成したと言いたい手も」
「悪くありません」
「でも、すぐ発表すると」
「手が熱いまま壇上へ上がります」
ネジリは、少し考えた。
「壇上へ上がる前に、手を冷ます場所がいる」
教授は、嬉しそうにうなずいた。
「それが、今日の仮説です」
ククルーが目を細める。
「次の項目、とはまだ言いません」
教授は、はっとした顔をした。
「失礼。研究日誌の見出しを先に言いそうになりました」
旅人は笑った。
今の言葉は、研究日誌へ少し先回りした言葉だった。
でも、すぐ足元へ戻ってきた。
教授は胸ポケットの灰色の札を軽く叩く。
「今のは、見た気になった手ではなく、言った気になった手ですね」
「新しい札が必要ですか」
「いずれ」
研究棟の前まで戻ると、未完成式の蒸気が窓から細く見えた。
机の上で、式は待っている。
待っている、と言い切るのは早い。
けれど、留守の布のそばで、蒸気はさっきより短く切れていない。
教授は、糸くずを机の横の小皿へ置いた。
「今日、見に行ったもの」
そう言いかけて、やめる。
「今日、見に行きすぎなかったもの」
ネジリは、自分の白い札をその横へ置きかけた。
置く前に止める。
「これは、まだ持っています」
「はい」
教授は言った。
「見たい手は、次も必要です」
旅人も、透明な札を持ったままにした。
見た気になった手も、次に必要なのだろう。
見た気にならないために、持っている。
未完成式の金属板が、小さく鳴った。
から。
また、からだけ。
でも、今度は、そのあとに、ごく短い、ん、の影があった。
音にはならない。
影だけ。
教授は、目を細めた。
「続きは、まだ鳴らしません」
「鳴りそうでした」
ネジリが言う。
「はい。だから、鳴らしません」
旅人は、待つ針の包みを持ち直した。
今日分かったことは、教授が何でも知っていることではない。
教授が、知りたい手を急がせない人だということ。
そして、知ったことにしたくなる自分の手を、いちばんよく知っている人だということ。
外では、また別の小発明が、ぽん、と鳴った。
今度は、研究棟の中にいる全員が、そちらを見た。
ピペット教授は、灰色の札を胸ポケットから出さずに言った。
「次は、走り出す小発明を見に行きます」
ネジリの目が輝く。
ククルーが、旅人の隣で笑った。
「案内が少し速くなってきたね」
「速くします」
教授は答えた。
「でも、熱くはしません」
旅人は、透明な札、白い仮置き、待つ針の包みを持って、研究棟の入口へ向かった。
歯車街の音は、また少し増えている。
増えているのに、急かしているだけではない。
見たい手を持ったまま、まだ見ない手も持つ。
その歩き方を、ピペット教授は背中で見せていた。




