第11巻 歯車街の未完成式 第2章 未完成式
入口の広場から、街の内側へ続く道は三本あった。
一本は、蒸しパンの屋台が並ぶ道。
一本は、歯車や管を売る小さな店が並ぶ道。
もう一本は、掲示板の裏へ回り、低い研究棟へ向かう道だった。
ピペット教授は、三本目の道を選んだ。
「未完成式は、まず低いところで見ます」
「高い研究塔ではないのですか」
旅人が聞く。
「高いところで見ると、式が自分を偉いと思います」
ククルーがうなずいた。
「式にも顔があるんだね」
「あります。とくに、まだ完成していない式には、顔が多い」
教授は、第1章でククルーが橋に言った言葉を、そのまま少しだけ変えて返した。
ククルーは鼻を小さく鳴らした。
「橋で見た言葉が、ここでは少し別の顔になったね」
ネジリは、自動湯気混ぜ器を載せた台車を押してついてくる。押すというより、台車と一緒に歩いている。機械は冷ましたあと、ぽん、と鳴らなくなっていた。かわりに、時々、ぷ、と小さく息を抜く。
ネジリは、そのたびに台車の取っ手を握り直した。
「もう少しで、挨拶になりそうだったんです」
「なりそう、は大切です」
教授は言った。
「ただ、なりそうを完成発表会へ連れていくと、なりそうが背伸びをします」
「背伸びしたら、だめですか」
「だめではありません。背伸びした足元を見られる場所が要ります」
旅人は、台車の車輪を見た。
第1章で半歩だけ前に出ていた車輪は、今は台車の下でまっすぐになっている。止められた車輪ではない。もう一度動くために、少し落ち着いた車輪だ。
手の中の未完成式へ触れる前の仮置きは、まだ白い。
掲示板にも、機械にも、台車にも貼らなかった札。
この札は、式そのものの前でどう見えるのだろう。
旅人は、札を強く握らないようにした。
低い研究棟は、街の喧騒から少し外れた場所にあった。外れた、といっても静かではない。壁の中で小さな歯車が回り、窓の上で蒸気が細く鳴っている。ただ、入口広場のように、音が前へ前へ出てこない。
研究棟の入口には、靴を拭く布の横に、小さな冷まし皿が置かれていた。
皿には、熱いものは乗っていない。
ただ、指を置きたくなる丸い空きがある。
「これは」
旅人が聞く。
「入る前に、急いでいる指を冷ます皿です」
教授が答えた。
「本当に冷えるのですか」
「少しだけ」
ククルーが前足を皿の縁へ近づける。
「気持ちが、だね」
「はい。温度計には出ません。でも、温度計に出ない熱ほど、式へ入り込みやすい」
ネジリは、自分の指を見た。
台車の取っ手を握り続けていた指が少し赤い。
ネジリは皿へ指を置くか迷い、先に自動湯気混ぜ器を見た。
「置いても、機械は怒りませんか」
「機械が怒るかどうかは、まだ測っていません」
教授は真面目な顔で言った。
「でも、あなたの指が急いでいることは、見えています」
ネジリは、指を冷まし皿へ置いた。
ほんの少し、息を吐く。
それだけで、自動湯気混ぜ器の小さな管から、ぷ、と短い音が出た。返事のようにも、ただの空気の逃げのようにも聞こえる。
「今の、返事ですか」
ネジリが聞く。
「返事かもしれません」
教授は言った。
「でも、返事だと書くには、まだ早い」
旅人は、かもしれないという言葉を聞いて、止まった時計塔の街の白い札を思い出しそうになった。
思い出しすぎる前に、待つ針の包みの横へ、その手を置く。
この街のかもしれないは、あの街のかもしれないと近い。
同じではない。
低い研究棟の中は、広い一室だった。
中央に、大きな机がある。
机の上には、紙、歯車、細い管、羽根、透明な小瓶、ねじ、白い粉の入った皿が並んでいる。どれも散らかっているように見えるが、よく見ると、間に通り道がある。手が通る道。目が休む道。熱が逃げる道。
机の奥に、未完成式があった。
それは、旅人が思っていた式と少し違った。
大きな紙に書かれた数式でも、光る魔導文字の輪でもない。
何枚もの薄い金属板と紙片が、低い枠の中に並べられている。金属板には歯車の歯のような線が刻まれ、紙片には丸や矢印が描かれている。ところどころ、線が途切れている。途切れた場所には、小さな白い布がかけられていた。
布は隠すためではない。
触る前に、そこへ手を置きたくなる場所を示すための布だった。
「これが、未完成式ですか」
旅人が聞く。
「今日見る範囲では」
教授は答えた。
「今日見る範囲」
「式というものは、全体を見たつもりになりやすい。ですから、まず今日見る範囲を決めます」
ネジリが机へ近づきかけた。
すぐに足を止める。
冷まし皿に置いた指が、まだ少し赤い。
「これ、昨日より線が増えています」
「増えました」
「誰が増やしたんですか」
「式です」
ネジリの目が丸くなった。
「式が?」
「正確には、式へつながった小発明たちが、自分の動いた結果を線として返しました」
教授は、机の横にある小さな箱を開けた。
箱の中には、細い紙帯が何本も入っている。紙帯には、短い線、丸、点、途切れた矢印がある。
「自動湯気混ぜ器も、いずれ紙帯を返すでしょう」
ネジリは、自分の機械を見た。
「返せるんですか」
「動いたあとに、何が起きたかを戻せるようにしていれば」
「していません」
ネジリは、正直に言った。
「湯気を混ぜるところばかり考えていました」
教授は責めなかった。
「それも、よくある入口です」
ククルーが机の周りを歩く。
「できあがったものを見せたいとき、起きたことを戻す場所は忘れやすいからね」
旅人は、未完成式の途切れた線を見た。
線は、足りないように見える。
けれど、足りないから間違いだとは思えなかった。白い布があるからだろう。布が、途切れた場所を欠けではなく、触る前の場所にしている。
旅人は、未完成式へ触れる前の仮置きを取り出した。
机の上へ置きたくなる。
式の中央へ置けば、今日の読み方が始まるように見える。
でも、中央へ置けば、この札が式の名前になりすぎる。
旅人は、机の端を見た。
端には、何も置かれていない細い場所がある。紙片でも金属板でも歯車でもない。手を置くには少し狭く、視線を置くには十分な場所。
「ここへ近づけてもいいですか」
旅人が聞く。
教授は、すぐには答えない。
ネジリも、ククルーも、未完成式も、静かだった。
少し遅れて、机の下で小さな歯車が、から、と鳴った。
教授はうなずく。
「近づけるだけなら」
旅人は、札を机の端へ近づけた。
置かない。
貼らない。
端の空きの前で止める。
「ここまで」
ネジリが、小さく言った。
第1章で旅人が台車の前に札を近づけたときと同じ言葉だった。
旅人はうなずいた。
「ここまで」
未完成式の金属板の一枚が、かすかに光った。
光ったと言っても、答えが出た光ではない。真鍮色の表面に、朝の湯気のような白が一瞬だけ映っただけだ。
ネジリは息をのむ。
「反応しました」
「しました」
教授は言う。
「成功ですか」
「反応です」
「失敗では」
「反応です」
ネジリは、少し口をとがらせた。
「教授は、時々ずるいです」
「ずるいんじゃないよ。言葉を冷ましているんだ」
ククルーが旅人を見た。
「言葉を冷ます。熱いまま渡さない名前だね」
「案内になるのですか」
「なります。たぶん、黒板が熱くなりすぎなければ」
未完成式の横に、小さな黒板がある。
黒板には、昨日の文字が残っていた。
できた。
その下に、誰かが線を引いている。
まだ。
さらにその下に、別の筆跡。
できたと言いたい。
その三つの文字は、入口掲示板の三つの声と似ている。だが、研究棟の中にあるぶん、少し熱い。ここでは、発表したい手だけでなく、式そのものが、できたと言いたがっているように見えた。
旅人は、黒板の文字をすぐに読まないようにした。
読むと、文字のほうへ式が寄りそうだった。
「未完成式は、動いているのですか」
旅人が聞く。
教授は、机の下にある細い管を指した。
管の中を、白い蒸気が通っている。
一定ではない。
長く伸びる。
短く切れる。
途中で戻る。
「動いています」
教授は言った。
「ただし、何として動いているかは、まだ見ているところです」
「式として」
「かもしれない」
「機械として」
「かもしれない」
「祝福として」
教授は、そこで少しだけ首を横に振った。
「祝福そのもの、とはまだ言いません。祝福が通った跡かもしれない。祝福を急がせた跡かもしれない。祝福に見えるだけの熱かもしれない」
ククルーの首元の鈴は、鳴らなかった。
旅人は、その沈黙へ目を向けそうになり、向けなかった。
技術の街に来たからといって、鈴の沈黙を機械のように測ってよいわけではない。
待つ針の包みは、机の端から少し離れた場所にある。
旅人は、いつの間にか包みを机の上へ置いていた。ただし、未完成式の近くではない。冷まし皿の横、急いでいる指を置く場所のさらに外側だ。
「そこへ置きましたね」
教授が言った。
「はい」
「理由は」
旅人は少し考えた。
「式の前へ置くと、待つことが式の答えになりそうでした」
「それで」
「遠ざけると、式が待たなくてよいものに見えそうでした」
ネジリは、包みを見た。
「待つ針、でしたよね」
「はい」
「待つって、止まることですか」
ククルーが答えかけて、やめた。
教授も答えない。
旅人も、すぐには答えなかった。
机の上の未完成式は、静かに蒸気を通している。自動湯気混ぜ器は、台車の上で冷めている。ネジリの指は、冷まし皿から離れているが、さっきほど赤くない。
「止まることだけでは、ないと思います」
旅人は言った。
「では、何ですか」
ネジリが聞く。
「見終わる前に、できたと言わないこと」
言ってから、旅人は少し不安になった。
言い切りすぎただろうか。
すぐに、未完成式へ触れる前の仮置きを見た。札はまだ机の端の前で止まっている。置いていない。貼っていない。だから、今の言葉も、式へ貼られたわけではない。
教授は、その距離を見て言った。
「よい仮説です」
「答えではなく」
「もちろん」
ネジリは、ほっとしたような、少し物足りないような顔をした。
「答えじゃないんですね」
「答えではないから、試せます」
教授は、黒板の前へ行った。
できた。
まだ。
できたと言いたい。
その下に、何も書かない。
かわりに、黒板の横へ小さな磁石を置いた。磁石には文字がない。丸いだけだ。
「今日は、ここに置きます」
「何をですか」
ネジリが聞く。
「できたと言いたい手」
黒板には貼らない。
文字にも貼らない。
横へ置く。
それだけで、三つの文字の熱が少し下がったように見えた。
未完成式の蒸気が、短く切れた。
しゅ。
そのあとに、少し長い間がある。
間のあと、机の端の金属板が、から、と鳴った。
旅人は、その音を聞いた。
からん、ではない。
から、だけ。
冷めた音の途中。
止まった時計塔の街から渡ってきた音と似ているが、まだ終わりまで鳴らない。
ククルーが、耳を少し動かした。
「続きがありそうだね」
「あります」
教授は言った。
「ただし、続きを鳴らすために叩いてはいけません」
ネジリは、手を後ろへ回した。
「叩こうとしてません」
「していない手を、後ろへ回しましたね」
「……少しだけ」
旅人は笑いそうになった。
ネジリも、つられて笑った。
笑いが研究棟の中へ入ると、未完成式の緊張が少しほどけた。
式は、まだ動いている。
完成していない。
でも、失敗として閉じてもいない。
旅人は、机の端の前で止めていた白い札を、ほんの少しだけ下げた。
置く前に見る場所ができたからだ。
今日、未完成式に触れたわけではない。
式を読んだとも言えない。
けれど、式へ触れる前に置く場所を一つ見つけた。
冷まし皿の外側。
黒板の横の丸い磁石。
机の端の空き。
待つ針の包みの距離。
それらは全部、未完成式の答えではない。
でも、式を急がせないための入口になった。
ピペット教授は、机の上の紙片を一枚だけ持ち上げた。
紙片には、途中で切れた矢印が描かれている。
「次は、この矢印がどこへ行きたがっているかを見ます」
「行きたがっている」
旅人が繰り返す。
「はい。式は、ときどき行き先を先に欲しがります」
「それを止めるのですか」
「いいえ」
教授は、紙片を元の場所へ戻した。
少しだけ、元の位置からずらして。
「走り出す前に、どこへ足を置こうとしているかを見ます」
ネジリの自動湯気混ぜ器が、台車の上で小さく息をした。
ぷ。
今度は、焦げた匂いがなかった。
ネジリが顔を上げる。
「冷めたんでしょうか」
教授は、すぐ答えない。
旅人も、ククルーも、未完成式も、少し待った。
それから教授は言った。
「冷めはじめた、かもしれません」
かもしれない。
その言葉は、研究棟の中で、白い布のように軽く落ちた。
全部を包まない。
でも、追い出さない。
旅人は、待つ針の包みを持ち上げた。
包みは、さっきより少しだけ温かい。
冷めた音を持ってきた包みが、未完成式の前で少し温かくなる。
それは矛盾ではないのかもしれない。
冷ますとは、冷たいものにすることではない。
熱すぎるものを、試せる温度へ戻すこと。
旅人は、そう思った。
けれど、まだ書かない。
言わない。
式へ貼らない。
未完成式は、低い机の上で静かに蒸気を通している。
できた、の文字の横に、丸い磁石がある。
まだ、の文字の横に、空きがある。
できたと言いたい、の下には、何も書かれていない。
ピペット教授は、白衣の袖をまくった。
「では、次の観察へ進みましょう」
「次は何を」
ネジリが聞く。
「あなたの小発明だけではありません」
教授は、研究棟の窓を開けた。
外の街から、いくつもの小さな音が入ってくる。
からから。
ぽん。
しゅう。
きゅ。
どこかで、また別の発明が、完成する前に動き出している。
教授は言った。
「未完成式は、一つの机の上だけにいるわけではありません」
旅人は、窓の外を見た。
歯車街の入口で見た音たちが、街の奥へ続いている。
第2章で見た式は、中央の答えではなかった。
街のあちこちへ伸びる、まだ冷ましていない問いの入口だった。




