↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クイズクロニクル  作者: pj.masta


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
135/317

第11巻 歯車街の未完成式 第4章 走り出す小発明

研究棟の外へ出ると、ぽん、という音はもう一度鳴った。


今度は、さっきより少し近い。


でも、急を告げる鐘ではない。


焼きたての小さなパンが、台の上で自分から袋へ入ろうとして、袋の口に軽く当たったような音だった。


歯車街の道は、午後の光で明るかった。


高い煙突から上がる蒸気は、まっすぐではなく、途中で小さく折れ曲がる。


折れ曲がった場所に、歯車光が細かく散って、道にいる人たちの帽子や工具箱へ、金色の斑点を落としている。


誰も走って逃げてはいない。


ただ、あちこちで、手が少し忙しくなっていた。


「こちらです」


ピペット教授は、杖の先で石畳の継ぎ目を一つたたいた。


かち、と歯車街らしい返事がする。


その音に合わせるように、低い台車が角を曲がってきた。


台車には、小麦粉の袋が三つ載っている。


袋には、それぞれ手書きの札が結ばれていた。


`粉屋へ`


`パン焼き小屋へ`


`まだ決めない`


台車は、三つめの札をいちばん前にして進んでいた。


「あれです」


ネジリが、嬉しそうに言いかけて、少し口を閉じた。


嬉しそうに言ってよいのか、困った顔で言ってよいのか、まだ決めていない顔だった。


「半歩先へ進む配達台車。荷物を持つ人の足が疲れる前に、次の場所へ半歩だけ進んでおく発明です」


「半歩だけなら、置いていかない距離だね」


ククルーが言う。


「一歩だと、置いていかれるね」


「はい。だから半歩だけの予定でした」


ネジリは、台車の前に回り込もうとして、ピペット教授に袖を軽くつままれた。


「まず、札を」


教授は胸ポケットから三枚の観察札を出した。


白い札。


灰色の札。


透明な札。


白い札には、`見たい手`。


灰色の札には、`まだ見ない手`。


透明な札には、`見た気になった手`。


旅人は、それぞれの札の端を見た。


前の路地で使った札だ。


一度使ったから分かる、とは言えない。


一度使ったぶん、手が急ぎやすくなっている。


「何を見たいですか」


教授がネジリに聞いた。


「台車が、なぜ先へ進むか」


ネジリはすぐ答えた。


答えたあと、白い札へ手を伸ばす。


その手が、札に触れる前に少し止まった。


「いえ。まず、どこまで先へ進むか」


「よろしい」


教授は白い札を台車の横、石畳の低い線の上へ置いた。


「なぜ、は後で見ます。なぜは、すぐ大きくなりますから」


台車は、ことことと進む。


半歩。


さらに半歩。


小麦粉の袋は揺れるが、落ちない。


前にいる粉屋の人が、片手を上げた。


「それ、もう少し待ってくれるかい。うちの棚、まだ空けていないんだ」


台車は、返事をするように、ぽん、と鳴った。


そして、三つめの札、`まだ決めない` を前にしたまま、粉屋の入口で止まらず、入口の少し手前でくるりと向きを変えた。


止まったのではない。


次の半歩を探している。


旅人は、待つ針の包みを手の中で確かめた。


前の街で受け取った言葉を、ここでそのまま出したくなる。


休む。


待つ。


今へ渡す前に。


でも、その言葉だけを台車へかぶせると、台車がどんな半歩を持っているか、見ないままになる。


旅人は透明な札を見た。


見た気になった手。


「台車は、待てないのではなくて、待つ場所を探しているように見えます」


旅人が言うと、教授はうなずいた。


「見えます、までですね」


「はい。そうだ、とはまだ言いません」


ククルーが尾を揺らした。


「この街では、親切も足が速いんだね」


粉屋の人が笑った。


「速くしてくれるのは助かるんだよ。でも、棚を空ける前に袋が来ると、助かる手と慌てる手が同じ手になる」


ネジリは、その言葉を聞いて、工具箱から細い赤い糸を出した。


台車の車輪に結ぼうとする。


教授は止めなかった。


ただ、灰色の札を赤い糸の横へ置いた。


「今、何をまだ見ませんか」


ネジリの指が、糸の端で止まる。


「車輪の中」


「なぜ」


「開けたら、分かった気になるから」


「よろしい」


ネジリは、赤い糸を車輪ではなく、台車の前にある石畳の継ぎ目へ結んだ。


糸は台車を縛らない。


ただ、ここから先は、棚が空くまで半歩を置く場所だと示す。


台車は、糸の前でかた、と小さく揺れた。


ぽん。


さっきより低い音。


進みたい音が、少し冷めた。


粉屋の人が棚を空けるまで、台車はその場で半歩を繰り返さなかった。


旅人は、白い仮置き札をそっと手の中で押さえた。


この札を置く場所は、今は台車の上ではない。


赤い糸の横だ。


旅人は札を石畳へ置いた。


何も書いていない白さが、赤い糸の色を少しやわらげる。


「止めたのですか」


ネジリが聞いた。


「いいえ」


教授が答える。


「半歩が座れる場所を作りました」


その言い方を、旅人は胸の中でくり返した。


半歩が座れる場所。


走り出す小発明を責めないために、走り出す前の足元を作る。


粉屋の棚が空き、小麦粉の袋が一つずつ下ろされる。


台車は最後の袋を下ろしたあと、三つめの札を前にしたまま、またぽん、と鳴った。


今度は、どこか嬉しそうだった。


「次は、声のほうです」


教授は、道の向こうを指した。


そこには、壁から壁へ細い管が渡っていた。


伝声管だ。


歯車街では、蒸気の音が多い。


向こうの作業場へ用事を伝えるため、細い管が家と家の間をつないでいる。


その管の先で、小さな金属の花が開いたり閉じたりしていた。


「聞く前に返事する伝声管です」


ネジリが言った。


「そういう名前に、もうなっているのですか」


教授が聞く。


「なっていません。今、言いました」


「では、灰色の札です」


ネジリは自分で灰色の札を持った。


「まだ名前にしない」


「よろしい」


伝声管の前に、二人の職人が立っていた。


ひとりは鍋の底を磨く人。


もうひとりは、歯車の歯を数える人。


鍋磨きの人が、管へ口を近づける。


「そちらの磨き粉、少し分けて」


言い終わる前に、管の向こうから返事が来た。


「はい、あります」


鍋磨きの人は、苦笑した。


「まだ、何を分けてほしいか言っていないんだ」


向こうの作業場から、今度は少し小さい声が戻る。


「はい、たぶんあります」


ククルーが、ひげを揺らした。


「たぶん、まで走ってきたね」


旅人は、透明な札を持つ手に力が入るのを感じた。


これは、さっきの台車と同じだ。


そう言いたくなる。


半歩先へ進む。


聞く前に返事する。


どちらも、相手の前へ少し出てしまう。


同じだ。


そう言うと、分かりやすい。


分かりやすいと、手が熱くなる。


旅人は透明な札を、伝声管の花の下へ置いた。


「同じに見たくなる手があります」


教授は、深くうなずいた。


「今日の大事な手です」


「同じではないのですか」


ネジリが聞いた。


「似ているかもしれません。でも、似ていることは、同じ答えを急いでよい合図ではありません」


教授は、伝声管へ耳を近づけなかった。


耳を近づける前に、管の下に小さな冷まし皿を置く。


皿の上には、丸い穴の空いた薄い木片が三つ並んでいた。


「言い終わる前」


一つめ。


「聞き終わる前」


二つめ。


「分かったと言いたくなる前」


三つめ。


教授は、木片を指で一つずつ軽く回した。


管の金属花が、きし、と小さく鳴った。


鍋磨きの人が、もう一度ゆっくり言う。


「そちらの、粒の細かい磨き粉を、少し分けてください」


一つめの木片が、かた。


言い終わった。


返事は、まだ来ない。


歯を数える人が、管の向こうへ向けて、息を細く出した。


「粒の細かい磨き粉ですね」


二つめの木片が、こと。


聞き終わった。


「あります。小さな紙包みでよければ」


三つめの木片が、こつ。


分かったと言いたくなる前に、分け方が言葉になった。


鍋磨きの人は、肩の力を抜いた。


「そう。それです」


伝声管は、今度は返事を急がなかった。


ただ、管の奥で、ふ、と蒸気が冷める音がした。


「さっきの台車には、石畳の半歩が必要でした」


教授は言った。


「この管には、言葉の三つの木片が必要でした。似ている。でも、置き場所は違います」


ネジリは、ノートを開いた。


急いで書きかけて、鉛筆を止める。


「同じ症状、と書きたい」


「書いてもよいです」


教授は言った。


「ただし、その横に、まだ同じ手順とは書かない、と書いてください」


ネジリは、ノートの真ん中ではなく、端に書いた。


同じ症状、と見たくなる。


まだ同じ手順とは書かない。


旅人は、その行の間に、小さな余白があるのを見た。


余白は、白い。


でも、何もない白さではない。


手が座れる白さだった。


三つめの小発明は、路地の奥にあった。


小窓だ。


湯気の多い調理場と、乾いた道具棚の間を分けるための小窓で、必要なときだけ開く仕組みになっている。


窓枠には、薄い羽根の形をした板がついていた。


板は軽く、風を受けると開く。


開きすぎると湯気が道具棚へ行きすぎる。


閉じすぎると調理場が曇る。


だから、半分だけ開く予定だった。


予定だった、という言葉を、ネジリは今度はゆっくり言った。


小窓は、旅人たちが近づく前に、ぱた、と開いた。


まだ誰も鍋を持っていない。


まだ湯気も来ていない。


窓だけが、先に開いた。


「早く開きたがる小窓」


ククルーが言った。


「名前にするかな」


教授が聞く。


「仮のあだ名です」


「では、白い札ではなく、仮置きですね」


旅人は、白い仮置き札を小窓の下に置いた。


小窓は、ぱた、ぱた、と二度開閉した。


誰かに見てほしいように。


でも、見ているだけでは、また見た気になる。


調理場の人が、鍋を両手で持って現れた。


湯気はまだ細い。


「この窓、最近、気が利きすぎるの」


その人は困ったように笑った。


「開いてくれるのは助かる。でも、湯気が来る前に開くと、棚の乾いた布が、開く準備だけで湿ってしまう」


旅人は、台車を思い出す。


伝声管を思い出す。


同じ、と言いたい手が、また少し熱くなる。


その手を、待つ針の包みへ寄せた。


包みの中で、休ませた針が音を立てた気がした。


音にはならない。


でも、手の温度が少し下がる。


教授は小窓の板へ触れず、窓枠の下に細い紙帯を三本貼った。


`湯気を見る前`


`湯気が来た時`


`湯気が通ったあと`


「これは、窓を開ける合図ですか」


ネジリが聞く。


「いいえ。開いたあとに、どの時だったか戻れる紙帯です」


小窓は、ぱた、と開いた。


まだ湯気を見る前。


紙帯の一つめが、少し揺れる。


調理場の人は、鍋を小窓の近くへ持ってきた。


湯気が来た。


二つめの紙帯が、ゆっくり湿る。


小窓は、半分開いたまま止まった。


止まった、というより、半分のところで考えている。


湯気が通ったあと、三つめの紙帯がふくらみ、また乾き始めた。


小窓は、ぱた、と閉じた。


今度は、早すぎない。


「小窓は、湯気の前に開くことが悪いのではありません」


教授は言った。


「準備として開くこともあります。ただ、準備だけで棚の布を湿らせる時は、準備の時間を見えるようにします」


調理場の人は、湿りかけた布を一枚持ち上げた。


「この布も、責めなくていいのね」


「はい」


ククルーが答えた。


「布は、早く濡れたことを教えてくれました」


「それは助かる言い方だね」


調理場の人は、布を窓のそばの低い紐へ掛けた。


湿った布は、そこでゆっくり乾き始めた。


旅人は、三つの小発明を振り返った。


半歩先へ進む配達台車。


聞く前に返事しそうになる伝声管。


早く開きたがる小窓。


全部、先へ出る。


全部、親切になりたい。


全部、未完成式の蒸気に触れているのかもしれない。


でも、全部を一つの言葉に入れると、石畳の赤い糸も、言葉の木片も、湯気の紙帯も、見えなくなる。


「街のあちこちへ、同じ熱が伸びているのでしょうか」


旅人が聞くと、教授はすぐには答えなかった。


すぐ答えない間に、ギアロートの遠い蒸気が、空で一度だけ白く丸まった。


丸まった蒸気は、ほどけて、細い歯車光になった。


「同じ熱、と言いたくなる手があります」


教授は、ゆっくり言った。


「私にもあります。便利な仮説です」


「便利な仮説」


ネジリがつぶやく。


「便利すぎる仮説です」


教授は訂正した。


「街のあちこちで、完成前に動きたい手が出ています。そこまでは、今日見ました。けれど、台車には台車の半歩、管には管の返事、小窓には小窓の湯気があります」


ククルーが、尻尾で石畳を軽くたたいた。


「ひとつの大きな名前をつけると、小さな名前が隠れます」


「はい」


教授はうなずいた。


「ですから、次は大きな名前をつける場所ではなく、小さな熱を置ける場所を作ります」


ネジリの目が、また輝いた。


今度は、その輝きがすぐ走り出さないように、ネジリは自分で白い札を胸元に当てた。


「冷まし台、ですか」


教授は笑った。


「言ってしまいましたね」


「言ってしまいました」


ネジリは、少し恥ずかしそうに笑う。


「でも、作る前に、置きます」


旅人は、三つの場所から戻ってきた小さなものを見た。


赤い糸の端。


丸い穴の空いた木片。


湯気で少し波打った紙帯。


どれも、証拠ではない。


どれも、答えではない。


でも、街の手が早くなった場所を、責めずに覚えておくものだった。


ピペット教授は、それらを一つの箱へ入れなかった。


三つの低い皿へ、別々に置いた。


「次は、これらを同じ机の上へ置きます」


「混ぜるのですか」


旅人が聞く。


「いえ」


教授は首を横に振った。


「混ぜずに、同じ部屋で冷まします」


歯車街の奥で、また小さな発明が鳴った。


ぽん。


かた。


ぱた。


三つの音は、そろわない。


そろわないまま、夕方の蒸気の中で、少しずつ温度を下げていく。


旅人は、待つ針の包み、白い仮置き札、透明な観察札を持ち直した。


走り出したものを止めるためではない。


走り出したものが、どこから走り出したのかを忘れないために。


教授は、研究棟とは別の低い工房へ歩き始めた。


その入口には、まだ何も置かれていない広い板があった。


板の端だけが、夕方の光を受けて、ほんの少し温かい。


「ここに、冷まし台を作ります」


教授は言った。


「完成台じゃないよ。正解台でもない。小発明たちが、自分の熱を少し置いていける台だね」


ククルーが旅人を見上げた。


「案内は速くなったかな」


旅人は、少し考えた。


速くなった。


でも、熱くなりすぎてはいない。


「速く歩いて、ゆっくり置いています」


旅人が言うと、ククルーは静かに目を細めた。


低い工房の中で、三つの皿が並べられる。


赤い糸。


木片。


紙帯。


未完成式の答えは、まだない。


ギアロートの蒸気の理由も、まだ遠い。


でも、街の小さな手がどこで熱くなるかは、少し見えた。


見えた、と言い切る前に、旅人は透明な札を皿の横へ置いた。


見た気になった手。


その札があるから、次も見に行ける。


次は、止める場所ではなく、冷ます台を作る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。