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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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止まった時計塔 第2章 動かない針




塔の入口は、扉より先に影で分かった。


石畳の色が、広場のものと少し違う。塔へ近づくほど、石の目が細かくなり、足音が低くなる。広場では靴の下で軽く鳴っていた石が、ここでは音を吸う。吸って、消すのではなく、どこかへ預ける。


セリノは、塔の正面へまっすぐ向かわなかった。


入口の外、と言った通り、扉の見える道の少し手前で横へ折れた。塔の壁に沿って、低い植え込みと石の縁が続いている。植え込みには、草原で見た黄金色よりも淡い葉があり、風が来ても大きく揺れない。葉の先には、小さな露が残っていた。


朝ではない。


それでも露は落ちずにいる。


「ここの水は、遅いのですか」


旅人が聞くと、セリノは葉を見た。


「遅いと決める前に、残っている、と見ます」


「残っている」


「はい。落ちない水を、すぐ遅れにしない」


旅人はうなずいた。


草が遅れて立つ。鈴が半拍遅れる。針が動かない。露が落ちない。似ているものはまた増えた。けれど、露を遅れにすると、すぐに鈴も針も同じ棚へ入れたくなる。


残っている水。


それだけにする。


ククルーは植え込みの横を歩きながら、露を鼻でつつかなかった。いつもなら「こぼさないように」と冗談を言いそうなのに、今日は言わない。その沈黙も、塔の影の中で小さく重く見えた。


セリノは、低い石の縁で立ち止まった。


そこからなら、塔の時計面が見えた。


広場より近い。


見上げれば、丸い面の数字が読める。数字は古く、いくつかの線が薄れている。けれど、読めないほどではない。旅人は、思わず目で数字を追った。


十二。


一。


二。


三。


そこで、セリノが手を上げた。


止める手ではなかった。


ただ、旅人の視線と時計面のあいだに、薄い木札を一枚差し出した。第1章で渡された、丸い空きのある札だ。


「先に、こちらで」


旅人は札を受け取った。


穴から時計面を見ると、数字の半分が外れた。針の根元も、丸い穴の縁で切れる。かわりに、時計面の下にある小さな窓と、そのさらに下の石の継ぎ目が見えた。窓は閉まっている。けれど、閉じ込めるような閉まり方ではない。古い本の表紙を、しおりを挟んだまま閉じているような閉じ方だった。


「針を見ないためですか」


「見すぎないためです」


セリノは言った。


「見ないようにすると、かえって針だけが大きくなります」


旅人は、札の穴を少し上へ動かした。


針の先だけが見えた。


長い針は、十と十一のあいだに置かれている。短い針は、四を少し過ぎたところにあるように見えた。だから、時刻を読むなら、四時五十二分かもしれない。


かもしれない。


そう思った瞬間、胸の中で数字が強くなった。


五十二分。


一分足せば、五十三分。


動かないなら、進めればいい。


手が、自然に前へ出た。


札を持っている手ではない。空いているほうの手だった。


ククルーが、何も言わずにその手を見た。


旅人は気づいて、手を下ろした。


「今、動かしたくなりました」


「はい」


セリノはうなずいた。


「それが、まず一つ目です」


「一つ目」


「動かしたい手」


セリノは、腰の小さな袋から細い木片を取り出した。木片には何も書かれていない。セリノはそこへ指で軽く触れ、低い石の縁に置いた。


「書かないのですか」


「書くと、手が一つの名前になります」


「名前にしない」


「まだ」


セリノの「まだ」は、塔の石に当たって小さく戻った。


旅人は、自分の手を見た。動かしたい手は、悪い手ではない。第1章でそう聞いた。けれど、ここで針を見た瞬間、その手は少し強くなった。強くなった手は、自分で自分を正しいと思いたがる。


「二つ目は、何かな」


ククルーが聞いた。


声は明るい。


けれど、明るくしすぎないように、少しだけ低く置かれていた。


セリノは、ククルーを見た。


「見上げ続けたい手です」


ククルーの耳が動いた。


「ぼくにもあるね」


「ありますか」


旅人が言うと、ククルーは肩をすくめた。


「高いものを見ると、案内役はつい説明したくなるんだ。上に何があるか、どこから見ると分かりやすいか、どの順番で見ればいいか」


「それは、悪いことでは」


「ないよ」


ククルーは、旅人の言葉を先に受けた。


「でも、説明が上へ上へ伸びると、足元の人が小さくなるんだ」


セリノは二枚目の木片を置いた。


一枚目から少し離す。近すぎない。遠すぎない。二つの木片のあいだに、露の残った葉の影が入った。


旅人は、札の穴からもう一度時計面を見た。


今度は、針ではなく、針の影を見た。


影は、時計面の上にうっすら落ちている。針そのものは止まっている。けれど、雲が動くたび、影の濃さは変わる。細くなり、薄くなり、少し広がる。針は動かないのに、針のまわりには動くものがある。


「影は動きます」


旅人が言った。


セリノはうなずいた。


「はい」


「針は動かないのに」


「動かない針のそばでも、動いているものがあるね」


その言葉は、プロローグでククルーが言ったことと似ていた。止まったものにも、外の時間が当たる。旅人は、そこへすぐ同じ札を貼らなかった。ただ、似ていると思った。


「三つ目は」


旅人が聞く。


セリノは、すぐには木片を出さなかった。


塔から、拍が来た。


かた。


近い拍だった。


石の縁の木片が、ほんの少し震えた。一枚目と二枚目が同じように震えたわけではない。動かしたい手の木片はわずかに前へずれ、見上げ続けたい手の木片はその場で震えただけだった。


旅人は、それを意味にしそうになった。


一枚目だけ前へ出た。


だから、動かしたい手のほうが強い。


そう決めそうになって、止めた。


「今、木片の動きを答えにしそうになりました」


セリノは、三枚目を取り出した。


「それが三つ目です」


「答えにしたい手」


「はい」


セリノは三枚目を置いた。二枚目の横ではなく、少し手前へ。三枚の木片は、直線にならなかった。三角にもならない。半分だけ開いた扇のように、どれも別の向きを持っている。


ククルーの首元で、鈴が鳴った。


しゃら。


塔の拍のあと、半拍には少し足りないくらい遅れていた。


旅人は聞いた。


セリノも聞いたはずだ。


ククルー自身も聞いたはずだ。


けれど、誰もすぐには言葉にしなかった。


鈴の音は、三枚の木片のどこにも乗らない。動かしたい手でも、見上げ続けたい手でも、答えにしたい手でもない。近いかもしれない。けれど、同じではない。


旅人は、札を下ろした。


「ククルーの音は、ここには置きません」


ククルーが、少しだけ目を細めた。


「なぜですか」


「ここに置くと、三つの手のどれかに見えてしまいます」


セリノは、三枚の木片の外側へ視線を移した。


「では、どこへ」


旅人は振り返った。


広場のベンチが、少し遠くに見える。布を敷いた低い台は、塔の影の中にまだ残っている。そこへ戻れば、直したい手を置いた場所がある。ククルーの「急ぎたい手」も、言葉だけ置いた空きがある。


「戻って聞く台の前の、あの布へ」


言ってから、旅人は少しだけ首を横へ振った。


「まだ台になったばかりの場所へ」


セリノの目に、静かな光が入った。


「台、より少し手前で言葉が止まったんだね」


ククルーは笑った。


今度は、少しだけほんとうに笑っていた。


「旅人、言い切る前に立ち止まる場所が見えてきたね」


「言い直してばかりです」


「それは、急いで決めなかった証拠にもなります」


塔の上で、針は動かない。


けれど、旅人の中では、何かが少し動いた。


針を動かす前に、動かしたい手を分ける。


見上げ続けたい手を分ける。


答えにしたい手を分ける。


そして、ククルーの音を、そこへ混ぜない。


「針を休ませる、というのは」


旅人は、言葉を探した。


「針に何かする前に、こちらの手を休ませることですか」


セリノは、すぐにうなずかなかった。


「それもあります」


「それだけではない」


「はい。針自身にも、休みがあります。でも、針に触れる前に、触れる手がどんな形か見ておかないと、休ませるつもりで押してしまいます」


押してしまう。


旅人は、自分の手を握った。


やさしく置くつもりの手が、速すぎると押す手になる。説明するつもりの声が、強すぎると決める声になる。忘れないための時計が、強く握られると閉じ込める箱になる。


「戻りますか」


セリノが聞いた。


「もう、針を見なくてよいのですか」


旅人が聞き返すと、セリノは時計面を見上げた。


「今日は、よく見ました」


「少ししか」


「少しを、見落とさずに置いたね」


ククルーが、そこで一歩前へ出た。


「ぼくは、もう一つ見ました」


セリノが、目だけで先を促す。


ククルーは塔の時計面ではなく、時計面の下の窓を見た。


「あの窓は、閉まっているね。でも、閉じて終わり、という顔じゃないよ」


「しおりを挟んだ本のようでした」


旅人が言うと、ククルーはうなずいた。


「うん。旅人はそれを見ていたね。ぼくは、説明したくなる手を少し休ませたよ」


セリノは、二枚目の木片へ指先を近づけた。触れない。触れないまま、木片の横に小さな空きを作るように指を置いた。


「では、見上げ続けたい手の横に、説明したくなる手も置きます」


「書かないのですか」


ククルーが聞く。


「書きません」


「よかった」


ククルーは、ふう、と息を吐いた。


その息が、軽すぎないことを、旅人は聞いた。


塔の拍は、しばらく来なかった。


来ないあいだ、街の音が戻ってくる。パン屋の前で時計のひとつが小さく鳴り、すぐ止まった。古書店の紐が風に揺れ、ぱた、と本の端を押さえた。遠くで子どもが、巻かない日、と誰かに言っている声がした。


街は、針が動かなくても動いている。


でも、針が止まっていることをなかったことにして動いているのではない。止まった針の下で、動くものと休むものを分けながら暮らしている。


旅人は、三枚の木片を見た。


「これは、持って帰りますか」


「いいえ」


セリノは首を横に振った。


「ここに置くと、風で動きます」


「動いてしまいませんか」


「動いてしまうから、戻って見る意味があります」


セリノは、一枚目の木片を元の位置へ戻さなかった。拍で少し前へずれたままにする。二枚目は震えた場所のまま。三枚目は手前に置かれたまま。


「今日の手は、今日の位置に置いておきます」


「明日は違うかもしれない」


「はい。同じかもしれない。違うかもしれない。どちらでも、戻って聞けます」


旅人は、広場の布を見た。


低い台はまだ遠い。けれど、遠すぎない。戻ろうと思えば戻れる。戻ることは、塔から逃げることではない。針を見た手を、布へ持って帰ることだ。


「戻りたいです」


旅人は言った。


「よいです」


セリノは答えた。


「入る前に戻れる人は、入ったあとも急ぎすぎません」


三人は、来た道を戻った。


旅人は、もう一度時計面を見上げたいと思った。


その手もある。


けれど、今は見上げなかった。見ないことで忘れるのではない。さっき見た針、影、窓、三枚の木片を、まだ散らさないために見ない。


ククルーは隣を歩いた。


鈴は鳴らない。


鳴らないことを答えにしない。


セリノは前を歩き、広場の端で一度だけ立ち止まった。


布を敷いた低い台が、影の中で待っている。


旅人は、そこへ戻った。


第1章で置いた直したい手は、もう布の上にはない。けれど、そこにあった場所は残っている。旅人はその横へ、今度は札を置いた。丸い穴のある、麓を見る札。


「針を見ました」


旅人は、布へ向かって言った。


「動かしたい手がありました。見上げ続けたい手も、答えにしたい手もありました」


ククルーは黙って聞いている。


セリノも、黙っている。


「ククルーの鈴は、そこへ混ぜませんでした」


言ってから、旅人は少しだけ息を止めた。


ククルーのほうを見ない。


でも、見ないことで消さない。


布の上で、札の穴が薄く光を受けていた。穴の向こうには何もない。ただ、布の灰色が丸く見えるだけだ。それでも、その丸い空きは、塔の時計面に似すぎていない。似ているけれど、同じではない。


セリノが、低く言った。


「今日は、ここまでです」


旅人はうなずいた。


塔の針は、まだ動かない。


動かないまま、見たものが増えた。


動かないまま、手の置き場所が三つ増えた。


それは解決ではない。


でも、針を壊れと決める前に、戻って聞けるものが増えた。


広場の向こうで、保存時計の布がまた少し揺れた。子どもは、ぜんまい巻きをまだ胸元にしまっている。店の人が「今日は見る日」と言う声が聞こえた。


旅人は、その言葉を聞いた。


今日は見る日。


動かす日ではない。


決める日でもない。


見たあと、戻る日だった。



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