止まった時計塔 第1章 時計塔の麓
丘へ上がる道は、草の色を少しずつ変えた。
黄昏駅から続いていた黄金色は、遠くで見た時よりも明るい。枯れているのではない。陽をためて、夜へ渡す前の麦のように、一本ずつが細く光っている。足を置くたび、草の先が靴の横で倒れ、すぐには戻らず、遅れて立った。
その遅れを、旅人は数えなかった。
一呼吸遅れる草。
半拍遅れる鈴。
進まない針。
似ているものが並びはじめると、すぐに一つの答えにしたくなる。けれど、ここへ来るまでに木札の横へ置いてきたものは、同じ答えにするための札ではなかった。戻って聞くための、別々の空きだった。
丘の上に着く少し前、道の脇に低い石柱が現れた。
古い駅のホーム端に立っていたものに似ている。けれど、ここには線路がない。石柱の上には小さな丸いくぼみがあり、その中に、手のひらより少し小さい時計が一つ寝かされていた。文字盤は琥珀色に焼け、針は細い葉脈のように薄い。ガラスには草の影が映っている。
旅人は、触れなかった。
時計は止まっているように見えた。けれど、止まっていると決めるには、まだ近づきすぎていない。動いていないように見えるものと、動かさず置かれているものは、同じ顔をすることがある。
「道しるべですか」
旅人がたずねると、ククルーは石柱のまわりを一周した。
「道しるべでもあるね。休み場でもある。たぶん、思い出しすぎないための重しでもあるんだ」
「思い出しすぎない」
「うん。思い出すことも、ときどき足を急がせるから」
ククルーはそう言って、時計のガラスへ鼻先を寄せかけ、すぐにやめた。首元の鈴は鳴らない。鳴らないまま、細い鎖だけが草の風を受けていた。
旅人は、石柱の横に半歩ぶんの空きを見つけた。
誰かが踏んで固めた場所ではない。草が少し低いだけだ。そこへ立つと、時計を見下ろすのではなく、横から見る形になる。文字盤の中央も、針の先も、少しだけずれて見えた。
「ここから見るための場所みたいです」
「横から見える場所があったんだね」
ククルーは、少しだけ鼻先を上げて言った。見つけたのは旅人なのに、声の端に、案内役も一緒に場所を見つけたような明るさが混じっている。
旅人は笑いそうになり、それもまだ言葉にしないでおいた。
丘の上へ出る。
時計塔の麓の街が、そこで初めて見えた。
塔は、思っていたよりも太かった。
遠くから見た時は、空へ伸びる細い影に見えた。近づいて見ると、塔の下半分は古い石の層をいくつも重ねたように広く、麓の街を背中で支えている。灰色ではない。雨に濡れたことのある石、夕方の光を長く吸ってきた石、何度も磨かれて角が丸くなった石が、淡い金色と薄い茶色を帯びていた。
時計面は、まだ高い。
けれど、もう遠景ではない。丸い面のふちに細かな飾りがあり、そのいくつかは欠けている。欠けていることを隠す布はない。補いすぎた金具もない。欠けたところに、鳥の羽のような薄い影が入っている。
針は、動いていない。
同じところを指している。
何時かを読もうとして、旅人は目を細めた。けれど、すぐにやめた。数字を読むには遠い。遠いものを無理に読めば、読めた気になる。読めた気になった数字は、すぐに答えの顔をする。
塔のまわりには、街があった。
廃墟ではなかった。
洗った布が低い窓に干されている。古書店の前に小さな箱が並び、背表紙の色あせた本が、風にめくられないよう細い紐で留められている。写真を飾る店では、額の中の絵を朝の光で焼かないよう、薄い布が半分だけかけられていた。パンを売る店の前には、丸い時計が三つ並んでいる。三つとも少しずつ針の位置が違う。
誰も、走っていない。
誰も、慌てていない。
けれど、止まっている街でもなかった。
店先の人が布をたたむ。小さな子が石段に座り、靴ひもを結び直す。背の曲がった人が、写真棚の前で額を一枚だけ横へ動かし、動かしたあとで手を休ませる。井戸の近くでは、二人が水を汲む順番を譲り合い、どちらが先かを決めないまま笑っていた。
街は、動いている。
ただ、動きが少しずつ、塔の影に触れている。
塔の影は、道をまっすぐ切らなかった。石畳の上を細く渡り、店の軒先で薄くなり、草の縁でまた濃くなる。影の中へ入った人は、そのたびに足を止めるわけではない。けれど、誰も影を踏み荒らすようには歩かなかった。
「静かです」
旅人が言った。
「静かだね」
ククルーが答えた。
「でも、黙っているのとは違うよ」
「うん。いい静かさだね。声を小さくしても、生活が小さくなっていないよ」
丘を下りる石段の途中に、低い木の札が立っていた。
文字は、薄い。
ようこそ、と書いてあるのかもしれない。塔の麓、と書いてあるのかもしれない。けれど、はっきり読めるのは、その下に刻まれた小さな印だけだった。丸い時計面のような印。その中心から、針ではなく、草の芽のような線が二本出ている。
「時計の印ですか」
「時計の印に似た、休みの印だね」
ククルーは答えた。
「時計に似せているのかな」
「時計だけにしてしまうと、すぐ何時かを聞かれるね。芽だけにしてしまうと、すぐ育て方を聞かれる。だから、似たものを二つ置いて、すぐ決めないようにしているのかもしれないね」
「かもしれません」
「うん。まだ、街の人に聞く前だから」
旅人は、その言い方にうなずいた。
聞く前に、決めない。
ここまで歩いてきた半歩が、街の入口でもう一度足元へ戻ってきた気がした。
石段を下りると、空気が変わった。
草の匂いに、古い紙の匂いが混じる。さらに、乾いた木箱、磨いた金具、焼きたてのパン、雨を待っている石の匂い。いくつもの時間が、同じ風の中で重なっている。けれど、混ざりきってはいない。古い紙は古い紙のまま、パンはパンのまま、磨いた金具は金具のまま、互いの隣にいる。
旅人は、最初の店の窓で足を止めた。
窓辺に、小さな時計が五つ並んでいる。
どれも形が違う。丸いもの、八角のもの、古い切符のように薄いもの、写真立ての後ろへ半分隠れたもの、そして、透明な箱の中に寝かされたもの。透明な箱の中の時計だけ、文字盤が布で半分覆われていた。
店の中から、若い声がした。
「まだ巻かないで」
戸口の近くにいた子どもが、伸ばしかけた手を引っ込めた。
手には小さなぜんまい巻きがある。金色ではなく、よく使われて角が白くなった道具だった。
「今日の分、まだですか」
子どもが聞く。
店の奥にいた人は、本の束を抱えたまま笑った。
「今日の分はあるよ。でも、セリノさんが布を置いた。布がある時は、先に見る」
「見るだけ?」
「見るだけ」
子どもは不満そうではなかった。少し残念そうではある。けれど、怒ってはいない。ぜんまい巻きを胸元へ戻し、透明な箱の中の時計を横からのぞきこんだ。
「昨日と同じ?」
「同じに見えるね」
「同じじゃないの?」
「同じかどうかは、あとで聞く」
店の人は、そこで旅人たちに気づいた。
知らない人を見る目だった。
けれど、身構える目ではない。棚の上の本を、どこへ置くか考えている時の目に似ている。
「塔へ?」
短く聞かれる。
旅人は、すぐにはうなずかなかった。
塔へ来た。そう言えば簡単だった。けれど、塔を直しに来たわけではない。塔の中へ入る日でもない。塔へ、と言われた時にうなずくと、自分の足が塔の入口へ向かうものとして決まってしまう気がした。
「麓へ来ました」
旅人は答えた。
店の人の眉が、ほんの少し上がった。
それから、ゆっくり下がった。
「それなら、ベンチからがいい」
店の人は、窓の向こうを指した。
塔の影が薄く触れる広場の端に、長いベンチがあった。背もたれは低く、座ると塔を見上げすぎない高さになるよう作られている。ベンチの前には、石の低い台が一つ。台の上には何も置かれていない。ただ、布を敷いた跡だけが四角く残っていた。
「セリノさんが来ると思う」
「セリノさん」
旅人がくり返すと、ククルーの耳がぴくりと動いた。
「時計守です」
店の人は言った。
「塔を直す人ではなく?」
聞いてから、旅人は少しだけしまったと思った。
直す、という言葉が早かった。
店の人は責めなかった。小さく息を吐き、本の束を棚へ置いた。
「直すと言う人もいるよ。直したい人もいる。でも、セリノさんは、まず塔を悪者にしない」
その言葉は、店の中の本棚に当たって、やわらかく戻ってきた。
塔を悪者にしない。
旅人は、もう一度時計塔を見た。
高い針は動かない。街の時計は少しずつずれている。透明な箱の中の時計には布がかけられている。それでも、街の人は塔を睨んでいない。
「ありがとうございます」
旅人が言うと、店の人はうなずいた。
「ベンチへ行くなら、塔を見ながら歩かないほうがいい。足元に小さな時計があるから」
旅人は、足元を見た。
石畳の端に、ほんとうに小さな時計が埋めこまれていた。
道の飾りかと思うほど浅い。丸い金属のふちだけが見え、文字盤は石の色に近い。針はない。かわりに、細い線が一本、中心から外へ伸びている。時計というより、誰かがここで立ち止まった跡のようだった。
「踏んではいけませんか」
子どもが、ぜんまい巻きをしまいながら答えた。
「踏んでもいいけど、踏んだら気づく。気づいたら、ちょっと待つ」
それは決まりというより、生活の説明だった。
旅人は足元の時計をまたいだのではなく、その横へ半歩ずれて歩いた。
ククルーも続く。
広場へ向かう途中、いくつもの店先を通った。
古書店では、開かれた本の上に薄い重しが置かれている。重しは時計の形をしているが、針はない。写真店では、額縁の中の一枚だけが裏返されている。裏返しの板には、日付ではなく「まだ」とだけ書かれていた。パン屋の前では、三つの丸時計のうち一つだけ、針がほんの少し遅れている。その遅れを示す紙は貼られていない。
人々は、遅れを隠していない。
でも、遅れを看板にもしていない。
見れば分かるところに置いて、通り過ぎる人が必要な時だけ気づけるようにしている。
「ここには、止まっているものがたくさんあります」
旅人が言う。
「あるね」
「でも、止められているものと、休んでいるものと、まだ見ているものが混じっています」
「混じっているように見えるね」
ククルーは、わざと少しだけ言い直した。
旅人は、その言い直しを受け取った。
「混じっているように見えるね」
「はい」
ククルーは小さくうなずき、それから、首をかしげた。
「旅人、今、塔を直したい手はどこにあるかな」
急に聞かれて、旅人は自分の手を見た。
右手は荷物のひもの近くにある。左手は、いつのまにか少し前へ出ていた。
塔のほうへ。
動かない針のほうへ。
「ここにあります」
旅人は左手を見せた。
「ここにあったんだね」
ククルーは言った。
「悪い手じゃないよ」
「でも、まだ正しい手にもしてはいけない」
「正しい手にする手前で止めたんだね」
ククルーは軽く笑った。その声はいつもの声だった。けれど、時計塔の影へ入った瞬間、首元の鎖がほんの少しだけ震えた。
鈴は鳴らない。
鳴らないのに、旅人はそこへ耳を向けそうになった。
聞きたい手が、今度は耳の内側で伸びる。
旅人は、それも左手と一緒に低く下ろした。
ククルーへは聞かない。
まだ、聞かない。
聞かないことを、忘れることにしない。
広場のベンチには、先客がいた。
年を重ねた人だった。
灰色の髪を後ろで短く束ね、濃い青の上着を着ている。上着の袖口には、針ではなく、細い草の芽の刺繍がある。膝の上には、折りたたんだ布。布の上には、鍵のような形をしたものが置かれているが、歯がない。鍵ではなく、鍵になりかけて、やめた道具のように見えた。
その人は、塔を見上げていなかった。
ベンチの前の低い台を見ていた。
台の上には、やはり何もない。何もないところへ、手のひらを少しだけ浮かせている。触れていない。けれど、触れないことで、そこに何かの形を確かめているようだった。
ククルーが、静かに頭を下げた。
「セリノさん」
年を重ねた人は、顔を上げた。
その目は、塔の石に似た色をしていた。冷たいのではない。雨のあとに晴れた石の色。たくさんの影を受けて、それでも表面に少し光を残している色だった。
「ククルー案内役」
セリノはそう呼んだ。
ククルーの耳が、少しだけ立った。
「案内役と呼ばれると、背筋が伸びるね」
「伸びて困るほど、曲がってはいませんよ」
セリノは静かに言い、旅人へ視線を移した。
「旅人さん」
名前を聞かなかった。
旅人は、それがありがたかった。
「はい」
「塔へ来ましたか」
さっき店で聞かれたのと同じ問いだった。
けれど、声の置き方が違った。セリノの言葉は、塔へ入るかどうかを確かめるためではなく、旅人の足が今どこにあるかを見るために置かれている。
「麓へ来ました」
旅人は、もう一度答えた。
セリノの口元が、ほんの少しゆるんだ。
「なら、座れます」
「塔へは、まだ入らないのですか」
「入る前に、座ります」
セリノはベンチの空いたところを手で示した。
「直しに来たなら、なおさらです」
旅人は、胸の奥で小さく動いたものを感じた。
直しに来たわけではない。
そう言おうとして、止めた。
直したい手は、たしかにある。自分の手の中にある。塔を故障と決めないと思いながら、動かない針を見ると動かしたくなる。その手をなかったことにして「直しに来ていません」と言えば、手だけが隠れる。
旅人は、ベンチへ座った。
ククルーは横に座らず、足元の石畳に丸くなった。案内役らしく隣に立つことも、前に出ることもしない。ただ、そこにいる。
セリノは、膝の布を広げた。
布は薄い灰色で、ところどころに小さな丸い跡がある。時計を包んだ跡かもしれない。針を休ませた跡かもしれない。布の中央だけ、少し色が明るい。
「塔は、壊れているのではありません」
セリノは、最初にそう言った。
言い切ったのではない。
責める言葉を先に休ませるために、台の上へ置いたような言い方だった。
「壊れていないなら、なぜ動かないのですか」
旅人の問いは、少し早かった。
セリノは、急がない。
「動かないものには、理由がある時もあります。理由がもうほどけたあともあります。理由だと思われているものが、ほんとうは言い訳だったこともあります」
「この塔は」
「まだ、麓です」
セリノは、低い台へ視線を落とした。
「麓で見えるのは、理由ではありません。理由を決めたくなる手です」
旅人は、自分の左手を見た。
塔を直したい手。
ククルーへ聞きたい手。
なつかしいと言いそうになった手。
いくつもの手が、同じ腕の中にある。
「では、ここで何をしますか」
「手を休ませます」
セリノは、膝の布を低い台へ移した。
何もなかった台に、布が敷かれる。
それだけで、台の表情が変わった。空白だった場所が、何かを置ける場所になる。けれど、まだ何も置かれていない。置けるからといって、すぐ置くわけではない。
「街には、保存時計があります」
セリノは言った。
「窓辺や棚や道の端に、小さいものを見たでしょう」
「見ました」
「あれは、過去を閉じ込める箱ではありません」
旅人は、透明な箱の中の時計を思い出した。布で半分覆われ、子どもが巻きたがり、店の人が見るだけと言った時計。
「では、何ですか」
「すぐ答えにしないための、重しです」
セリノは、布の端を指で押さえた。
「忘れたくない時、人はすぐ強く握ります。握ると、形は残ります。でも、握られたものは、息がしにくくなる。だから、ここでは小さな時計に預けます。預けたものを、毎日動かすとは限りません。毎日止めるとも限りません。今日は見るだけ、今日は巻く、今日は布をかける。そう分けます」
「分けるための時計」
「そう言ってもいいでしょう。でも、そう言い切ると、また分けるためだけの道具になります」
セリノの声には、少しだけ笑いが混じった。
旅人は、その笑いに助けられた。説明なのに、説明で閉じていない。言葉の端が少し開いていて、あとで戻れる。
「塔にも、保存時計があるのですか」
旅人は聞いた。
セリノは、すぐに答えなかった。
塔から、低い拍が来た。
かた。
広場の石が、ほんの少し冷えたように感じた。
そのあとで、ククルーの首元の鎖が動いた。
しゃら、と鳴るかと思った。
鳴らなかった。
旅人は、ククルーを見なかった。
見ないことを、見落としにしない。そう決める。ククルーの横顔を見るかわりに、ベンチの前の布を見る。布の上にはまだ何もない。そこへ、今の鳴らなかった音を置くことはできる。
セリノは、旅人の視線を追わなかった。
「塔には、塔の休みがあるんだ」
それだけを言った。
「今日は、そこへ入らない」
「入らないのですね」
「入らない日にも、できることがあります」
セリノは、歯のない鍵のような道具を布の横へ置いた。
鍵ではない。扉を開けるものではない。近くで見ると、それは細い時計針の形をしていた。けれど、先端は丸く、何かを指し示すにはやわらかすぎる。
「これは、針ですか」
「針を休ませるものです」
セリノは答えた。
「針そのものではありません。針に似せています。似せたものを先に休ませると、本物へ手を伸ばす速さが少し落ちます」
旅人は、道しるべの時計印を思い出した。時計と芽。時計だけにしないための印。ここにも、針と鍵のあいだのような道具がある。
「本物へ手を伸ばす速さを落とす」
「悪い手を止めるためではありません」
セリノは言った。
「よい手も、速すぎると、置き場所をなくします」
その言葉は、胸の奥へ静かに入った。
よい手も、速すぎると、置き場所をなくす。
旅人は、塔を見上げたい手をこらえた。
かわりに、布の上の針に似た道具を見る。先端が丸く、何も刺さない。何時も指さない。ただ、ここに針に似たものがある、と知らせている。
「街の人は、塔を直したくならないのですか」
「なります」
セリノは、今度はすぐ答えた。
「毎日、誰かがなります。私もなります」
「セリノさんも」
「はい」
セリノは、塔を見上げなかった。
「直したい手を持たない時計守は、たぶん塔の前に立てません。でも、その手だけで立つと、塔を責めます」
「だから、座る」
「だから、座る」
ククルーが足元で小さくうなずいた。
「休み方が、ちゃんと見えるね」
セリノは、ククルーを見た。
「案内役に言われると、案内になってしまいます」
「では、休み時間ということに」
「そのほうがいい」
二人のやりとりは、古い友人のようだった。けれど、旅人はその関係をすぐ過去へ結びつけなかった。ククルーがここを知っていたのか。セリノといつ会ったのか。なぜ案内役と呼ばれたのか。聞きたいことはいくつもある。
聞きたい手は、布の端へ置く。
旅人は、低い台の角をそっと見た。
そこには、前にも誰かが手を置いた跡があった。爪で引っかいたのではない。長いあいだ同じ場所に手が休んで、石の色が少しだけ丸くなった跡だった。
「ここは、戻って聞ける場所ですか」
旅人が言うと、セリノの目がわずかに開いた。
「黄昏駅で、その言い方を覚えましたか」
「はい」
「それなら、ここではまだ台です」
セリノは布の角を整えた。
「戻って聞ける場所になるかどうかは、何を置くかではなく、置いたあと戻ってこられるかで決まります」
「今は、まだ」
「まだ、座ったところです」
旅人は、その「まだ」にほっとした。
黄昏駅を出たあとから、まだ、という言葉が何度も助けてくれる。まだ遠い。まだ入らない。まだ座ったところ。まだ、は先延ばしではない。問いを消す言葉でもない。問いが息をする場所を残す言葉だ。
広場の向こうで、子どもがさっきのぜんまい巻きを手に、こちらを見ていた。
店の人が何か声をかける。子どもはうなずき、透明な箱の時計を巻かずに、窓辺の布をほんの少しだけ直した。直したというより、風でめくれた端を押さえた。時計は見えすぎず、隠れすぎず、半分だけ光を受ける。
旅人は、その手元を見た。
出さない見送り手元。
黄昏駅で受けた言葉が胸に浮かびかけ、旅人はそれをそのまま言葉にしなかった。ここでは、まだ店の子どもの手だ。誰かの見送りに重ねるには早い。
でも、見えた。
出しきらない手。
巻ききらない手。
見えすぎないよう布を置く手。
「旅人さん」
セリノが呼んだ。
「はい」
「今、見えたものを、塔の答えにしないでください」
旅人は、息をのんだ。
心の中を読まれたようだった。
セリノは責めていない。ただ、低い台の布を指で押さえるように、その言葉を置いた。
「見えたものは大切です。でも、大切だから、すぐ答えにすると重くなります」
「はい」
「この街では、重くなったものを小さな時計へ預けます。けれど、旅人さんには、まだ時計へ預けなくてよいものもあるでしょう」
旅人は、木札道で残してきた半歩を思い出した。
鈴の音。
なつかしいと言いそうになった息。
そして今、塔を直したい手。
どれも、時計へ入れて閉じるには早い。
「では、ここに置いていいですか」
旅人は、布の上を指さした。
セリノは首を横に振らなかった。
「何を置きますか」
旅人は、自分の左手を見た。
「塔を直したい手を」
ククルーが、小さく息を吸った。
セリノは、うなずいた。
「よいでしょう」
旅人は、左手を布の上へ置いた。
布は冷たくなかった。温かくもない。ただ、手の温度を急いで奪わない。手が布の上で少しずつ落ち着くのを待ってくれる。
塔の針は、まだ動かない。
何も変わらない。
でも、手だけが少し軽くなった。
直したい手を布へ置いても、直したい気持ちは消えなかった。消えないまま、責める形から少し離れた。塔を壊れたものとして握りしめる力が、指の間からゆっくり抜けていく。
「消えません」
旅人が言う。
「消さなくていい」
セリノは答えた。
「消した手は、あとで別の形で急ぎます」
ククルーが、足元でしっぽを一度だけ動かした。
「それは、とてもよくあるよ」
「ククルーにもありますか」
旅人は、思わず聞いた。
聞いた瞬間、胸の奥で何かが止まった。
聞き急いだかもしれない。
ククルーは、すぐには答えなかった。
首元の鈴が、今度は小さく鳴った。
しゃら。
塔の拍は、その前には来ていなかった。
だから、遅れたのかどうか分からない。何に対して半拍遅れたのか、旅人には分からない。ただ、鈴は鳴り、すぐに止まった。
ククルーは笑った。
いつもの笑い方に近い。
「ぼくにも、急ぎたい手はあるよ」
それだけを言った。
旅人は、続きを待たなかった。
続きを待つことと、続きを求めることは似ている。けれど、今はまだ、求める手が強い。だから、旅人は自分の左手を布の上に置いたまま、ククルーの答えをそこへ並べるだけにした。
ククルーにも、急ぎたい手はある。
それだけ。
セリノは、鈴のことを聞かなかった。
聞かないまま、布の端を少し広げた。旅人の手の横に、空きができる。そこは、ククルーの言葉を置く場所にも見えたし、まだ誰のものでもない場所にも見えた。
「今日は、塔の入口まで案内するよ」
セリノが言った。
旅人の手が、少し動いた。
「中へは」
「入りません」
「入口まで」
「入口の外まで」
セリノは言い直した。
「扉を見る日ではありません。扉へ向かう前に、麓がどこまであるかを見る日です」
旅人は、布の上の手を見た。
手は、もう塔へ伸びていない。
けれど、塔へ行かない手にもなっていない。
行く前に休んでいる手だ。
「分かりました」
旅人は言った。
セリノは、膝の上から小さな包みを取り出した。中には、薄い木片が三枚入っている。木札道の札に似ているが、琥珀点はない。かわりに、一枚ずつ、丸い空きが開けられている。
「これは何ですか」
「見上げすぎないための札です」
セリノは一枚を旅人に渡した。
軽い。
穴から向こうを見ると、時計塔の下半分だけが見えた。高い時計面は穴の外に外れる。塔を見ているのに、針を見上げすぎない。石の層、窓の下、広場の人の動きだけが、丸い穴の中に入る。
「塔の麓を見る札」
旅人が言うと、セリノはうなずいた。
「針を読む前に、針の下で暮らしているものを見ます」
「針を動かす前に」
「はい。動かす前に、休ませるものがたくさんあります」
旅人は札の穴から広場を見た。
子どもが布を直す手。
古書店の紐で留められた本。
写真店の裏返しの額。
パン屋の三つの時計。
ベンチの足元で丸くなるククルー。
布の上の自分の左手。
塔の麓は、塔の下にあるだけではない。
針を見上げる前に、ここにいくつもの手がある。
かた。
塔から、拍が来た。
今度は近い。
広場の石畳が、音を返さない。店の窓の時計も鳴らない。遠い時よりも、音は低く、すぐ近くの布へ座ったようだった。
旅人は、札を下ろした。
ククルーの鈴は鳴らなかった。
鳴らないことに、ほっとしたのか、気になったのか、自分でも分からない。
その分からなさも、布の端へ置く。
セリノは立ち上がった。
「行きましょう」
「はい」
旅人は左手を布から離した。
手の形は、少し残っていた。布に跡がついたわけではない。けれど、自分の手がそこにあったことを、布が覚えてくれているように見えた。
セリノは布をたたまなかった。
低い台の上に敷いたままにする。
「置いていくのですか」
旅人が聞く。
「戻れるように」
セリノは答えた。
「置いた手を、置きっぱなしにするためではありません。戻って、今も同じ手かどうか聞くためです」
旅人はうなずいた。
戻って聞ける場所は、まだ台になったばかりだ。
けれど、布がある。
手が休んだ。
戻る理由ができた。
ククルーが立ち上がり、体を軽く伸ばした。
「入口の外まで、だね」
「入口の外までです」
セリノはくり返した。
「塔は高いですが、麓は広い。高いものへ急ぐ人ほど、広さを忘れます」
旅人は、もう一度札の穴をのぞいた。
時計面は見えない。
針も見えない。
見えないのに、塔へ近づいている。
そのことが、不思議に安心だった。
三人は広場を出た。
石畳の端に埋めこまれた小さな時計を、旅人は踏まなかった。避けすぎもしなかった。ただ、横へ半歩ずれた。ククルーも同じように歩く。セリノはその先で待ち、急かさない。
塔の影が、足元へ来る。
冷たい影ではない。
長いあいだ誰かの手を休ませてきた布のような影だった。
旅人は、その影の中で一度だけ足を止めた。
止まることを、失敗にしない。
動くことを、勝ちにしない。
まだ麓だ。
まだ、入口の外へ向かうだけだ。
塔の針は、上で動かないまま、広場と街と草原に影を落としている。
その下で、保存時計の布が揺れ、子どものぜんまい巻きが胸元で眠り、古い本の紐が風に鳴らない音を立て、ククルーの鈴は鳴らないまま歩いた。
鳴らない鈴も、今日の音だった。
旅人は、そう決めそうになって、やめた。
今日の音に、なりそうなもの。
そのくらいにして、足を進める。
時計塔の麓は、塔へ入る前に、もういくつもの問いを置いていた。




