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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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止まった時計塔 第3章 時刻を止めた街




見る日、と言った声は、広場の端から路地へ移ってもまだ残っていた。


声そのものが追いかけてくるのではない。窓辺の布、胸元にしまわれたぜんまい巻き、台の上に置かれた麓を見る札。そういうものが、同じ言葉を少しずつ別の形で言い直している。


今日は見る日。


動かす日ではない。


決める日でもない。


セリノは、低い台の布をそのままにして、広場の外へ歩き出した。


「街を見るのですか」


旅人が聞くと、セリノはうなずいた。


「針を見たあとに街を見ます」


「逆ではなく」


「逆の日もあります。でも、今日は針を見た手が先にあります。その手で街を見ると、何を急ぎたくなるか分かります」


旅人は、自分の手を見た。


動かしたい手。


見上げ続けたい手。


答えにしたい手。


三枚の木片は、塔の入口の外に置いてきた。持ってこなかったのに、手の中にはまだ三つの形が残っている。持ち帰らないことで、消えるわけではない。むしろ、置いた場所があるから、今ここで手を見ることができる。


ククルーは、旅人の少し後ろを歩いている。


いつものように先頭で案内しない。セリノの後ろに旅人がいて、その後ろにククルーがいる。案内役が最後にいる形は、少し珍しかった。けれど、ククルーは不満そうではない。むしろ、最後尾から街全体の足音を聞いているようだった。


路地へ入ると、時計の音が増えた。


ちく、たく。


ち。


たく。


ちく。


同じ音ではない。大きさも、速さも、間も違う。壁に掛けられた時計、店先の小時計、屋根の下で揺れる古い振り子、懐にしまわれた時計。いくつもの音が重なっているのに、合唱にはなっていない。


それでも、ばらばらという感じもしなかった。


それぞれが、自分の席で鳴っている。


旅人は、最初にパン屋の前で足を止めた。


第1章で見た三つの丸時計が、同じ棚に並んでいる。右の時計は、さっきより少し進んでいるように見えた。中央の時計は、変わらない。左の時計は、針が一分だけ遅れている。


遅れている。


そう思ったあと、旅人は言い直した。


塔の時刻へ近づいているように見える。


「今、言い直したね」


ククルーが後ろから言った。


「聞こえましたか」


「聞こえました。言っていなくても、肩が少し言いました」


旅人は、肩を少し下げた。


パン屋の人が、丸いパンを棚へ並べている。パンの表面には、時計の数字に似た切り込みがある。十二ではない。六でもない。切り込みは途中で止まり、輪にならない。


「今日は、左の時計を直さないのですか」


旅人が聞くと、パン屋の人は手を止めた。


「直せる日もあります」


「今日は」


「今日は、書く日です」


パン屋の人は棚の横から薄い紙を一枚取り出した。紙には、三つの時計の時刻が書かれている。けれど、数字だけではない。右の時計の横には「パンを焼き始めた時」、中央の時計の横には「客が来た時」、左の時計の横には「店を閉めたくなった時」と書かれていた。


旅人は、左の文字を見た。


店を閉めたくなった時。


パン屋の人は、恥ずかしそうではなかった。自慢しているのでもない。ただ、棚にパンを置くように、その時を置いている。


「毎日、一分遅れるのですか」


「毎日ではありません」


パン屋の人は答えた。


「でも、遅れる日が多くなりました。塔の針に近づく日もあります。離れる日もあります」


「困りませんか」


「困ります」


その答えは、明るかった。


明るく言えるほど軽い困りごとではないはずなのに、パン屋の人は困ることを隠さなかった。


「焼き上がりを間違えると、パンは硬くなります。早すぎると中が眠ったままです。遅すぎると表だけががんばりすぎます」


ククルーが、パンをじっと見た。


「表だけががんばりすぎるパンは、なかなか切ないね」


パン屋の人は笑った。


「そうだね。だから、時計だけを直すと、パンのほうが置いていかれることがあるんだ」


旅人は、左の時計を見た。


針は、塔の一分へ寄っているように見える。


けれど、ここで守られているのは時計だけではない。店を閉めたくなった時、焼き始めた時、客が来た時。パンの中の眠り。表のがんばりすぎ。そういうものが、三つの時計の横に置かれている。


「この時計を、塔のせいにしないのですね」


旅人が言うと、パン屋の人は少しだけ首を傾げた。


「塔の影はあります」


「はい」


「でも、影だけではパンは硬くなりません」


セリノが、静かにうなずいた。


「よい記録です」


パン屋の人は、紙を棚へ戻した。


「リカがそう書けと言ったのです」


「リカさん」


旅人がくり返す。


「時刻写しです。もうすぐ来ると思います。人の時計を直す人ではなく、写して並べる人です」


その言葉が終わるころ、路地の奥から小さな走る音が来た。


走っている。


この街で初めて聞く、急いだ足音だった。


けれど、足音は乱暴ではない。石畳の小さな時計を踏まないよう、ところどころで軽く跳ねる。急いでいるのに、踏まない場所を知っている足音だった。


若い人が、紙束を抱えて現れた。


髪は短く、片側に小さな留め具をつけている。留め具は時計の針に似ているが、先は丸い。肩から下げた鞄には、細い紙片がいくつも差し込まれている。紙片の端には、小さな時刻と、店の名前のような文字が見えた。


「セリノさん、四件写しました」


若い人は、息を切らせながら言った。


それから旅人とククルーに気づき、急いで頭を下げようとして、紙束を落としかけた。


ククルーが、前足で紙の端を押さえた。


「頭より紙が先に落ちそうでした」


「すみません」


若い人は、紙を抱え直した。


「リカです。時刻を写しています」


「旅人です」


「ククルーだよ。紙を踏まない係もできるよ」


リカは少し笑い、それからすぐ紙束を見た。


「今、笑いました。書いたほうがいいですか」


「笑った時刻ですか」


旅人が聞くと、リカは真剣にうなずいた。


「はい。笑った時刻も、ずれます。急いだあとに笑うと、時計より先に息が戻る時があります」


セリノは、リカの紙束を見た。


「今日は全部を書く日ではありません」


リカの肩が、少し下がった。


「分かっています。でも、今朝、写真棚の時計がまた塔の時刻へ寄りました。昨日より一分近いです。古書店の奥時計もです。パン屋は左だけ。井戸の時計は、まだ離れています」


言葉が速い。


速いけれど、責める速さではない。こぼれそうな水を手で受けている速さだった。


旅人は、第2章の三枚の木片を思い出した。


動かしたい手。


見上げ続けたい手。


答えにしたい手。


リカの速さは、どれか一つに入るだろうか。


入りそうで、入らない。


「リカさんは、全部を合わせたいのですか」


旅人が聞くと、リカはすぐ答えなかった。


紙束を胸に寄せる。


「合わせたいです」


正直な声だった。


「でも、合わせたら安心できるから合わせたいのか、街が助かるから合わせたいのか、まだ分かりません」


ククルーの耳が、静かに立った。


「分からなさが、そのまま残っているね」


リカは、困った顔をした。


「よいですか」


「はい。分からないことを、分かる顔にしなかったので」


セリノは、リカから紙を一枚受け取った。そこには、古書店、写真棚、パン屋、井戸の四つが並んでいる。時刻は数字で書かれているが、その横に短い言葉もある。


古書店。開きかけた本を閉じたくなった時。


写真棚。裏返しの額を戻したくなった時。


パン屋。店を閉めたくなった時。


井戸。順番を決めたくなった時。


どれも、ただの遅れではなかった。


どれも、生活の中で手が動きかけた時だった。


「塔の一分へ寄っているのは、時計だけではないのですね」


旅人が言う。


リカはうなずいた。


「たぶん、手です」


それから、すぐ首を振った。


「いえ、手だけでもないです。息も、棚も、店じまいの布も。全部と言うと大きすぎます。でも、時計だけではありません」


リカは、自分の言葉に追いつこうとしているようだった。言葉が先へ走り、足があとから石畳を踏む。けれど、踏む場所は選んでいる。小さな時計を踏まない足音と同じだ。


セリノは、紙を返した。


「今日は、四件でよい」


「でも」


「四件を、よく見ます」


リカは唇を結んだ。


旅人は、そこでリカを止める言葉を探しかけた。がんばりすぎないで、と言えば簡単だ。急がなくていい、と言えば優しい。でも、その言葉でリカの手を小さくしてしまうかもしれない。リカは街を責めたいのではない。時計を管理したいだけでもない。こぼれそうなものを、こぼれる前に紙へ写したいのだ。


「三枚の木片を、ここにも置けますか」


旅人はセリノに聞いた。


セリノは、少し考えた。


「同じ木片は、塔の入口の外にあります」


「同じものにしないで、似たものを」


リカが、鞄から細い紙片を三枚取り出した。


「紙ならあります」


三枚の紙片は、時刻を書くためのものだった。リカはそこへ何も書かず、パン屋の棚の端に置いた。一枚目、二枚目、三枚目。第2章の木片と似ているが、紙は風で少し反る。置いた瞬間から、木片より軽い。


「飛びそうです」


ククルーが言う。


「飛んだら追うよ」


リカがすぐ答える。


セリノは首を横に振らなかった。


「飛ぶものとして置きましょう」


旅人は、三枚の紙片を見た。


「合わせたい手」


一枚目のそばに、声だけ置く。


「安心したい手」


二枚目。


「こぼれる前に写したい手」


三枚目。


リカは、紙片を見つめた。


「三つとも、あります」


「一つにしません」


旅人が言うと、リカは小さくうなずいた。


「一つにすると、どれかが悪くなります」


「悪くしたくないのですね」


「はい」


リカの声は、少しだけ遅くなった。


「塔の時刻へ寄っていくのが怖いです。でも、怖いと言うと、塔が悪いみたいになる。街の人が悪いみたいにもなる。私が遅く気づいたせいみたいにもなる」


パン屋の人が、棚の向こうで静かに手を止めた。


リカは、それに気づいて慌てた。


「責めていません」


「分かっているよ」


パン屋の人は言った。


「でも、責めないように急ぐと、息が苦しくなる」


その言葉に、リカは紙束を抱え直した。


苦しくなる。


旅人は、保存時計についてセリノが言った言葉を思い出した。忘れたくない時、人はすぐ強く握る。握られたものは、息がしにくくなる。


街の時刻も、息がしにくくなっているのかもしれない。


けれど、そう決めない。


決める前に、四件を見る。


「古書店へ行きますか」


セリノが言った。


リカが、すぐ歩き出しかける。


その足が、三枚の紙片の前で止まった。


「置いていきますか」


旅人が聞く。


リカは迷った。


紙片は風で少し浮いている。持っていけば、失くさない。置いていけば、飛ぶかもしれない。でも、置いていくから戻って見られる。


「置いていきます」


リカは言った。


「でも、一枚だけ石をのせてもいいですか」


セリノがうなずく。


リカは小さな石を一つ、一枚目の端に置いた。


合わせたい手。


そこだけ、飛びにくくなった。


旅人は、それを見た。


合わせたい手は、リカの中で少し重い。


それを悪いとは思わない。


ただ、見えた。


古書店は、パン屋の二軒先にあった。


第1章で見た本の紐は、まだ本を押さえている。けれど、店の中へ入ると、外から見えたより多くの時計があった。棚の上、机の端、はしごの横、古い地図の下。どれも本を読むための時計ではない。読んだ時間を記録するためだけでもない。


店主は、開きかけの本の上に手を置いていた。


「閉じたくなりましたか」


リカが聞く。


店主は、苦笑した。


「また先に書いたね」


「すみません」


「いいよ。閉じたくなった」


店主は、本の上の手を少し浮かせた。


本は、真ん中より少し後ろで開かれている。文字は細かく、ところどころ薄い。挿絵には、昔の街道と、荷物を背負った人々が描かれている。懐かしい絵だと思いそうになり、旅人はその手を胸の内で止めた。


「なぜ閉じたくなったのですか」


旅人が聞く。


店主は、窓の時計を見た。


「この本は、塔が止まる前の街道記録です」


リカの紙束が、少し鳴った。


セリノは、何も言わない。


店主は続けた。


「昔の街道は、今より人が多かった。荷物も多かった。時計も、もっとそろっていた。そう書いてある」


「それを読むと」


「今の街が、少し足りないように見える」


店主は笑った。


笑いはやわらかいが、少し苦い。


「足りないように見える本は、閉じたくなる。でも閉じると、昔の街道を悪者にするようで、それも違う」


旅人は、本の挿絵を見た。


人が多い街道。


今の静かな路地。


そろっていた時計。


少しずつずれる生活時計。


比べたくなる。比べて、どちらが豊かだったか決めたくなる。その手もある。


「比べたい手もあります」


旅人が言うと、リカがすぐ紙片を取り出しかけた。


セリノが、そっと手を上げた。


「ここでは、紙を増やさない」


リカは止まった。


「でも」


「パン屋に三枚置きました。ここで増やすと、街じゅうが紙でいっぱいになります」


ククルーが、店内を見回した。


「紙でいっぱいの街は、歩きにくそうです」


リカは、少しだけ笑った。


セリノは、店主の本の横に置かれていた栞を指さした。細い布の栞だった。色は薄い琥珀。先端に小さな丸い穴が開いている。


「ここでは、栞で十分です」


店主は、その栞を本の上へ置いた。


閉じない。


でも、読む場所を失くさない。


「閉じたくなった時、栞を置く」


旅人が言う。


店主はうなずいた。


「それで、また読める」


「昔を悪者にしないで」


「今を足りないものにしないで」


リカは、その言葉を紙に書こうとして、やめた。


「書かないのですか」


旅人が聞くと、リカは首を横に振った。


「今書くと、きれいな言葉にしすぎます」


ククルーが、静かに目を細めた。


「きれいな言葉にする手前で止まったんだね」


古書店を出ると、リカの歩く速さは少し落ちていた。


次は写真棚だった。


写真店の窓には、裏返しの額が一枚ある。第1章でも見た額だ。裏側には「まだ」と書かれていた。今日は、その前に小さな時計が置かれている。針は、塔の時刻へ一分近づいたとリカが言ったものだ。


写真店の人は、額を戻しかけていた。


手が、裏返しの額の端にかかっている。


戻すことは悪くない。写真は見られるためのものだ。けれど、その手は途中で止まっている。


「戻したいですか」


旅人が聞くと、写真店の人は手を離した。


「戻したいです。お客さんが来るたび、どうして裏返しなのか聞かれるから」


「答えるのが大変ですか」


「大変です。でも、答えるたびに、まだ戻していないことを思い出せる」


写真店の人は、時計を見た。


「この時計が塔の時刻へ近づく日は、額を戻したくなる日です。たぶん、見せて安心したいのです」


リカは、その言葉に顔を上げた。


「安心したい手」


パン屋に置いた二枚目の紙片だ。


ここにもある。


でも、ここへ紙を増やさない。


旅人は、写真棚の下に空いた一段を見た。そこには、額も布も置かれていない。ただ、棚板に四角い跡が残っている。何かが長く置かれていた跡だった。


「ここは」


「空けています」


写真店の人は言った。


「裏返しの額を戻したくなった時、先にここを見るために」


「空きを見る」


「はい。戻す場所があることと、戻してよい時は、同じではないので」


旅人は、その言葉を受け取った。


戻す場所がある。


戻してよい時。


同じではない。


黄昏駅で見た写真棚の空きと似ている。けれど、同じ出来事ではない。同じ答えでもない。ここでは、この街の写真棚の空きだ。裏返しの額を戻したい手が、先に見る場所だ。


ククルーの首元で、鈴が鳴りそうになった。


鳴らなかった。


旅人は、音の手前を聞いた。


聞いたけれど、意味を決めない。


写真店の人も、リカも、セリノも、その沈黙を急がせなかった。


「井戸へ行きます」


リカが言った。


四件目だ。


井戸は、広場の反対側にあった。朝ではないのに、水を汲む人が何人かいる。順番の札はある。けれど、札は並んでいない。井戸の縁に、ばらばらに置かれている。


一番、二番、三番、と書かれているわけではない。


それぞれに、小さな絵が描かれている。湯のみ。花瓶。布を洗う桶。パンをこねる鉢。水を何に使うかの絵だ。


「順番を決めないのですか」


旅人が聞く。


井戸番の人が、縄を巻きながら答えた。


「決める日もあります。今日は、使い道を見る日です」


リカが紙を見た。


「井戸の時計は、まだ塔から離れています」


「はい」


井戸番の人は言った。


「でも、離れているから安心、とは言わないことにしています」


「なぜですか」


「離れている時計で、早く安心したくなるから」


旅人は、井戸の縁の札を見た。


湯のみの絵。


花瓶。


桶。


鉢。


水は、同じ水だ。


けれど、使い道が違う。


順番を決めれば早い。けれど、早さだけで並べると、何に使う水かが小さくなる。塔の時刻へ近づいている時計だけを見ると、寄っていない時計で安心したくなる。安心も、急ぐと見落とす。


「安心したい手は、ここにもあります」


旅人が言う。


リカはうなずいた。


「あります」


「でも、パン屋の紙片を取りに戻らない」


「戻れます。でも、今はここで見ます」


リカの声は、パン屋の時より落ち着いていた。


セリノは、井戸の縁に手を置いた。


「四件、見ました」


「はい」


リカは紙束を抱えた。


「全部、塔の時刻へ寄っているわけではありません。でも、全部、手が動きかけています」


「その手を、悪者にしない」


旅人が言う。


「はい」


リカはうなずいた。


「でも、悪者にしないまま、見えるところへ置きたいです」


その言葉は、急いでいなかった。


旅人は、リカの紙束を見た。紙はまだ多い。書きたいことも多い。けれど、最初に会った時のように、全部を一度に差し出そうとはしていない。


ククルーが、井戸の水面をのぞいた。


「水面にも時計は映りますか」


井戸番の人が笑った。


「夜なら、少し」


「では、今日は見ないほうがよさそうです」


「なぜです」


「見えると、読みたくなりますから」


ククルーの声は軽い。


でも、その軽さの下に、読む前に休ませる手がある。


旅人は、それを聞いた。


リカも聞いていた。紙に書かなかった。


四件を見終えると、リカはパン屋へ戻った。


三枚の紙片は、まだ棚の端にあった。


一枚目には小石が乗っている。合わせたい手。


二枚目は、少し横へずれていた。安心したい手。


三枚目は、風で半分だけ棚からはみ出している。こぼれる前に写したい手。


リカは、すぐ直さなかった。


「動いています」


旅人が言う。


「はい」


リカは答えた。


「手も、動いています」


それから、三枚目をそっと棚の内側へ戻した。はみ出していた紙片を押し込むのではなく、落ちないところへ移す。二枚目は、ずれたままにした。一枚目の小石も、そのままにした。


「全部そろえないのですか」


パン屋の人が聞く。


リカは少し笑った。


「そろえたくなります」


「そろえませんか」


「今日は、そろえません」


その声には、無理な我慢ではない重さがあった。


旅人は、棚の三枚を見た。


一枚目は重い。


二枚目はずれている。


三枚目は落ちない場所へ戻った。


三つの手は、一つの答えになっていない。


それで、見える。


「街は、止まっているのではありません」


旅人は言った。


リカが、旅人を見る。


「でも、動いているだけでもありません」


セリノが、静かに続けた。


「止めたものへ、少しずつ寄っています」


ククルーは、三枚の紙片のあいだへ鼻先を近づけた。


「寄っているものを、すぐ戻すと、寄った理由も戻せなくなります」


旅人は、塔のほうを見た。


時計面は見えない。路地の屋根に隠れている。けれど、針が動かないことは分かる。見えないのに、街の時計が少しずつその一分へ寄っていく。パン屋、古書店、写真棚、井戸。それぞれ別の手で。


保存を責めない。


時計塔へ向かう道で何度も聞いている言葉が、ここで少し生活の形になった。


忘れないために止めたものがある。


でも、止めたものへ全部を寄せると、今のパンも、本も、写真も、水も、息がしにくくなる。


「リカさん」


旅人は言った。


「はい」


「今日の四件を、塔のせいにしないで書けますか」


リカは、少し考えた。


「書けると思います」


「リカさんのせいにもせず」


リカは、また少し考えた。


今度は長かった。


「書きたいです」


それは、できます、ではなかった。


でも、旅人はその答えのほうがよいと思った。


書きたい。


そこには、まだ手がある。焦りもある。安心したい重さもある。こぼれる前に写したい速さもある。けれど、失敗の名前にはなっていない。


セリノは、リカへ小さな布を渡した。


「紙束の上に」


リカは布を受け取り、紙束の上にかけた。


全部を隠す布ではない。端の文字は見える。時刻も少し見える。けれど、紙束が一度にこちらへ押し寄せてくる感じが弱くなった。


「書く前に、紙を休ませます」


リカが言った。


セリノはうなずいた。


「手も」


「はい。手も」


パン屋の人が、新しいパンを一つ棚へ置いた。


丸いパンの切り込みは、輪になっていない。途中で止まっている。けれど、焼き足りないわけではない。表だけががんばりすぎてもいない。中の眠りが、ちょうどよく起きたような香りがした。


ククルーが、真剣にパンを見た。


「これは、時刻の香りがちゃんと残っているね」


リカが笑った。


今度は、笑った時刻を書こうとしなかった。


旅人は、その笑いを聞いた。


塔の拍は来ない。


鈴も鳴らない。


時計の音だけが、ばらばらに、けれど同じ街の中で鳴っている。


ちく。


たく。


ち。


たく。


四件の時刻は、そろわない。


そろわないまま、今日の街は少し呼吸をした。


旅人は、布をかけられた紙束と、三枚の紙片と、パン屋の左の時計を見た。


時刻を止めた街。


そう呼ぶことはできる。


でも、その呼び名だけで歩くには、ここには動いている手が多すぎる。


止めた時刻へ寄りながら、まだ今日を焼き、読み、隠し、汲んでいる街。


旅人は、そのくらい長い呼び方を胸の中へ置いた。


長すぎる名前は、看板には向かない。


けれど、戻って聞くための場所には向いている。



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