黄昏駅の切符 アンバルカの琥珀
アンバルカへ向かう道は、駅の裏手から始まっていた。
線路ではない。
草原の中を、古い木札が低く並んでいるだけの道だ。木札には行き先が書かれていない。矢印もない。ただ、札の上に薄い琥珀色の点が一つずつ置かれている。点は朝の光で光るが、光りすぎない。近づくと少し沈み、離れるとまた見える。
「道しるべですか」
ノルが聞いた。
「道しるべに見えるものです」
ガーネルが答えた。
「アンバルカへ行く時は、それくらいがよいのです」
旅人はかばんの中の薄布に触れなかった。
代わりに、メルカが持つ小皿を見た。乾板水の小皿。底には、昨日より少し濃くなった琥珀色の点がある。メルカは小皿を両手で持っているが、胸元へ抱え込まない。風を受ける高さでもなく、落としそうな低さでもない。ちょうど、見える高さだった。
濃くなった点を見た時、旅人の手は一度かばんへ戻りかけた。
昨日の写真棚の空きも、乾板の端の水も、ここへ来れば少し持ち帰れるのではないか。そんな考えが、手の甲を先に温めた。
メルカも同じものを見たのか、小皿を少しだけ体から離した。
「今、持ち帰りたくなります」
メルカは自分の手へ言うように、静かに言った。
「だから、先に見せに行きます」
「その水を、アンバルカへ返すのですか」
旅人が聞く。
メルカは首を横へ振った。
「返す、というほど大きなことではありません」
「では」
「見せます」
小皿の水面が揺れた。
「乾かしたくなった手を、アンバルカの前に置いてみます。アンバルカが何かを答えるとは限りません」
「答えないこともあるのですか」
ノルが聞く。
「あります」
メルカの声は穏やかだった。
「答えないことで、残るものもあります」
道の先に、琥珀色の影が見えた。
最初は夕焼けが地面に降りたのかと思った。けれど、近づくほど、影は一本の樹になっていく。幹は太く、枝は低いところから幾重にも分かれている。葉は少ない。葉の代わりに、透明な樹脂が枝の間に薄く張り、朝の光を受けている。樹脂の奥には、草原の色、古い駅舎の屋根、遠いホームの影が、少しずつ違う速さで沈んでいた。
琥珀樹アンバルカ。
ノスタルジアの世界樹。
その名を知っていても、目の前にある樹は、名前だけよりずっと静かだった。
大きいのに、押してこない。
古いのに、古さを誇らない。
ただ、見えたものをすぐ言葉にしないように、枝の間に休みを作っていた。
ククルーは樹の根元へ近づきすぎず、旅人の足元に座った。
「根元まで行かないのですか」
ノルが聞く。
「行くよ。でも、目が先に走りそうだね」
ククルーは耳を少し横へ倒した。
「目にも足があるね」
ノルは少し考えた。
「足の速い目ですか」
「今日は、そうだね」
旅人は自分の目が、樹脂の奥へ行きたがっているのを感じた。
見えるかもしれない。
過去の列車。
置かれなかった写真。
琥珀切符の中の線。
旅人の記憶に似た何か。
見えるかもしれないものが多すぎて、見る前から手が少し重くなる。
ガーネルは駅灯を持ってきていなかった。
代わりに、小さな布を一枚持っていた。駅舎の低い棚に敷かれていた布より、少しだけ厚い。布の端には、琥珀色の糸が一筋だけ縫い込まれている。
「灯は置いてきました」
「どうしてですか」
「ここは、見えすぎる場所です」
ガーネルは布を根元の石の上へ敷いた。
「今日は、明るくするより、見えたものを布の上で休ませます」
アンバルカの根元には、浅いくぼみがあった。
水たまりではない。
樹脂の表面が少しだけ沈んで、だまりになっている。中には、琥珀色の光がゆっくり回っていた。液体のようにも、固まった光のようにも見える。メルカはそこを、琥珀だまりと呼んだ。
「ここに写真を映すのですか」
旅人が聞くと、メルカは小皿を布の上へ置いた。
「映す、というより、横に置きます」
小皿の水と、琥珀だまり。
二つは触れない。
間に布がある。
小皿の底の琥珀色の点が、だまりの光を受けて少しだけ揺れた。
ぽた。
音はしなかった。
けれど、昨日の乾板水が落ちた音を、手が覚えていた。
琥珀だまりの奥で、何かが沈んだ。
風景だった。
駅舎の窓。
ホームの端。
写真棚の薄布。
時刻表の欠け。
それらが順番に見えたわけではない。重なってもいない。水面に近いところへ一つずつ来て、すぐ沈む。見ようとすると遅れ、見ないふりをすると近づく。
ノルが息を飲んだ。
「見えました」
「何がですか」
ククルーが聞く。
「分かりません」
ノルはすぐに言った。
「分からないけれど、見えました」
メルカはうなずいた。
「よい言い方です」
「よいんですか」
「はい。アンバルカの前で、分かったふりをしないのは大切です」
旅人は琥珀だまりを見た。
さっき沈んだ風景の中に、空のベンチがあった気がする。
あるいは、なかったかもしれない。
写真棚の薄布が揺れたようにも見えた。
けれど、それは今朝の布なのか、昨日の布なのか、それとも琥珀が作った似た色なのか分からない。
「過去ですか」
旅人は聞いた。
その問いを出した瞬間、自分の声が少し急いだことに気づいた。
過去ですか。
そう聞けば、見えたものを過去という箱へ入れられる。箱に入れば、安心できる。けれど、箱の蓋が早すぎると、見えなかったものまで閉じてしまう。
メルカは小皿に手を添えた。
「過去に近いものです」
ガーネルは布の端を少し伸ばした。
「過去そのもの、と言うには、まだ地面が見えていません」
ククルーは旅人の足に尻尾を軽く触れさせた。
「足元を待とう」
旅人はうなずいた。
琥珀だまりの光が、またゆっくり回る。
今度は、古い列車の窓のようなものが見えた。
窓のようなもの。
列車、と言い切る前に、旅人は息を止めた。窓の中に誰かがいるようにも見える。けれど顔はない。手もない。形は、光の端でほどけている。
ノルの指が動いた。
数えようとしたのだ。
窓の数。
見えた影の数。
ほどけた端の数。
けれど、ノルは数え札を持ってきていなかった。代わりに、灰色の二点札が布の小箱に入っている。ノルは小箱を見て、指を止めた。
「数えたいです」
「はい」
ガーネルが答える。
「でも、今数えると、窓の数が答えになりそうです」
「それも見えていますね」
ガーネルの声は、少しうれしそうだった。
ノルは照れずに、真剣な顔でうなずいた。
「数えたい手が、先に見えました」
琥珀だまりの奥で、窓のような光は沈んだ。
消えたのではない。
残ったのでもない。
沈んだ。
その違いを、旅人はすぐ言葉にできなかった。
「アンバルカは、残す樹なのですか」
旅人が聞く。
メルカは根元の幹に手を触れなかった。
触れたい手を、布手袋の中で休ませているのが分かった。
「残す力を持つ樹です」
「残す樹、ではなく?」
「樹を一つの役目で呼ぶと、樹のほうが苦しくなります」
メルカは枝の間を見上げた。
樹脂の薄い膜の奥で、草原の色が少し沈む。
「アンバルカは、残します。けれど、隠します。遅らせます。薄くします。光らせます。見えないところを、見えないまま守ることもあります」
ガーネルは布の上に、写さない写真の木枠を置いた。
昨日の木枠だ。
空の四角が、琥珀だまりの横にできる。
「今日は、これを持ってきました」
「写すためですか」
ノルが聞く。
「写さないためです」
メルカが答えた。
木枠の中には何もない。
けれど、何もない四角があることで、琥珀だまりの見えたものが、すぐ写真にならずにすむ。空の四角は、見えたものを捕まえない。見たい手だけを、そこへ休ませる。
旅人は、木枠の影を見た。
影は琥珀だまりに届かない。
少し手前で止まっている。
その止まり方が、ほっとするほど小さかった。
「旅人」
ククルーが呼んだ。
「はい」
「今、何を写したくなりましたか」
旅人は目を閉じなかった。
閉じると、見えたものを自分の内側へ持ち込みすぎる気がしたからだ。
琥珀だまりを見たまま、答える。
「列車の窓のようなものを」
「ようなもの」
「はい。列車とは、まだ言いたくありません」
ククルーはうなずいた。
「列車と言う手前で止めたんだね」
メルカは小皿を少しだけ持ち上げた。
水面の琥珀色の点が、琥珀だまりの光から離れる。
すると、だまりの奥にあった風景が少し薄くなった。
「小皿を離すと、見えにくくなるのですね」
ノルが言った。
「見えにくくなります」
メルカは答えた。
「でも、なくなったわけではありません」
「近づけると、見えやすくなる」
「はい」
「では、近づけた方がよく見えます」
ノルはそこまで言って、自分で口を押さえた。
その時、メルカの指が少しだけ動いた。
小皿の縁が、布のしわ一つ分だけ琥珀だまりへ近づく。
だまりの奥で、列車の窓のような光が急に濃くなった。窓枠らしい線が二つ、三つ、と並びかける。数えられる形になる直前だった。
ノルの指が小箱へ伸びた。
ガーネルは止めなかった。
メルカが、小皿を元の場所へ戻した。
濃くなりかけた窓は、すぐ薄くなった。なくなったのではない。数えられる前の明るさへ戻った。
「よく見える方が、よいとは限らない」
ガーネルが続きを言わず、ノルは自分で言った。
「今日は、そういう日です」
メルカは小皿を布の上へ戻した。
琥珀色の点は、だまりに近すぎない場所で止まる。
「見える範囲だけ見る、というのは」
旅人は言った。
「見えないところを諦めることではないのですね」
「諦めません」
メルカが言った。
「追いません」
ガーネルが続けた。
「閉じないよ」
ククルーが言った。
ノルは少し考えた。
「数えきらないよ」
四つの言葉は、一列に並ばなかった。
それぞれ少しずつ違うところへ置かれた。
旅人は、その配置を見た。
諦めない。
追わない。
閉じない。
数えきらない。
それは、何もしないことではない。
小皿は布の上で止まり、木枠は空のまま、ノルの指は小箱の手前で止まっている。
旅人の手も、琥珀だまりへ伸びなかった。
琥珀だまりの奥で、また何かが浮いた。
今度は、写真の端のような薄い影だった。
旅人に似ている、と言いかけて、旅人は止まった。
似ていると言った瞬間、形が旅人の方へ寄ってくる気がしたからだ。
影は、顔にならない。
名前にもならない。
けれど、ただの風景でもない。
水面の奥で、誰かの輪郭になる手前の線が、少しだけ揺れた。
ククルーの耳が動いた。
音はしない。
鈴も鳴らない。
けれど、ククルーはその線を見て、すぐには何も言わなかった。
その沈黙が、旅人を助けた。
「今のは」
ノルが言いかける。
メルカは小さく首を横へ振った。
「今日は、名をつけません」
「見えたのに」
「見えたからです」
メルカの声は、少しだけ低かった。
「見えたものほど、名をつけると強く残ります」
旅人は息を吐いた。
名をつけないことで、消えるわけではない。
名をつけないことで、残りすぎないものもある。
アンバルカの枝の間で、透明な樹脂が風を受けた。
きし、とも、さら、とも言えない音がした。
樹脂が、ゆっくり沈むような音。
ガーネルは布を畳まなかった。
メルカも小皿をしまわなかった。
ククルーも立たなかった。
ノルも数えなかった。
しばらく、全員で、見えた範囲の外側を見ていた。
見えないものを見る、ということではない。
見えないまま残す場所を、見ていた。
やがて、琥珀だまりの光が落ち着いた。
列車の窓のようなものも、写真の端のような影も、顔になる手前の線も、奥へ沈んでいった。
「戻ったものはありますか」
ノルが聞いた。
ガーネルはすぐに答えなかった。
メルカも答えなかった。
ククルーは、前足を布の端にそっと置いた。
旅人は琥珀だまりを見た。
見えたものは、戻っていない。
過去も、列車も、写真も、名前も、戻っていない。
けれど、見えたものを全部持ち帰らなくてもよい場所はできた。
「持ち帰らない手が、少し戻りました」
旅人が言うと、ガーネルは静かにうなずいた。
「それは、大切な戻りです」
メルカは小皿を持ち上げた。
琥珀色の点は、薄くなっていた。
薄くなっても、底から離れてはいなかった。
「明日は、琥珀に混じるものを見ます」
メルカが言った。
「混じるもの」
ノルの声が小さくなる。
「混ざったと決める前に、混じるように見えるところを見ます」
ガーネルが言い直した。
ノルはうなずいた。
「決める前に」
旅人は琥珀だまりの奥を見た。
もう、顔になる手前の線は見えない。
見えないのに、そこに何かを置きたくなる。
その手を、旅人は空の木枠の横へ置いた。
アンバルカの琥珀は、完全な過去として、何かを手の中へ渡すことはなかった。
だからこそ、次に見えるものを、すぐ誰かのものにしなくてよかった。
風が枝の樹脂を鳴らす。
きし、とも、さら、とも言えない音。
旅人はその音を、まだ名前にしなかった。




