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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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111/317

黄昏駅の切符 アンバルカの琥珀




アンバルカへ向かう道は、駅の裏手から始まっていた。


線路ではない。


草原の中を、古い木札が低く並んでいるだけの道だ。木札には行き先が書かれていない。矢印もない。ただ、札の上に薄い琥珀色の点が一つずつ置かれている。点は朝の光で光るが、光りすぎない。近づくと少し沈み、離れるとまた見える。


「道しるべですか」


ノルが聞いた。


「道しるべに見えるものです」


ガーネルが答えた。


「アンバルカへ行く時は、それくらいがよいのです」


旅人はかばんの中の薄布に触れなかった。


代わりに、メルカが持つ小皿を見た。乾板水の小皿。底には、昨日より少し濃くなった琥珀色の点がある。メルカは小皿を両手で持っているが、胸元へ抱え込まない。風を受ける高さでもなく、落としそうな低さでもない。ちょうど、見える高さだった。


濃くなった点を見た時、旅人の手は一度かばんへ戻りかけた。


昨日の写真棚の空きも、乾板の端の水も、ここへ来れば少し持ち帰れるのではないか。そんな考えが、手の甲を先に温めた。


メルカも同じものを見たのか、小皿を少しだけ体から離した。


「今、持ち帰りたくなります」


メルカは自分の手へ言うように、静かに言った。


「だから、先に見せに行きます」


「その水を、アンバルカへ返すのですか」


旅人が聞く。


メルカは首を横へ振った。


「返す、というほど大きなことではありません」


「では」


「見せます」


小皿の水面が揺れた。


「乾かしたくなった手を、アンバルカの前に置いてみます。アンバルカが何かを答えるとは限りません」


「答えないこともあるのですか」


ノルが聞く。


「あります」


メルカの声は穏やかだった。


「答えないことで、残るものもあります」


道の先に、琥珀色の影が見えた。


最初は夕焼けが地面に降りたのかと思った。けれど、近づくほど、影は一本の樹になっていく。幹は太く、枝は低いところから幾重にも分かれている。葉は少ない。葉の代わりに、透明な樹脂が枝の間に薄く張り、朝の光を受けている。樹脂の奥には、草原の色、古い駅舎の屋根、遠いホームの影が、少しずつ違う速さで沈んでいた。


琥珀樹アンバルカ。


ノスタルジアの世界樹。


その名を知っていても、目の前にある樹は、名前だけよりずっと静かだった。


大きいのに、押してこない。


古いのに、古さを誇らない。


ただ、見えたものをすぐ言葉にしないように、枝の間に休みを作っていた。


ククルーは樹の根元へ近づきすぎず、旅人の足元に座った。


「根元まで行かないのですか」


ノルが聞く。


「行くよ。でも、目が先に走りそうだね」


ククルーは耳を少し横へ倒した。


「目にも足があるね」


ノルは少し考えた。


「足の速い目ですか」


「今日は、そうだね」


旅人は自分の目が、樹脂の奥へ行きたがっているのを感じた。


見えるかもしれない。


過去の列車。


置かれなかった写真。


琥珀切符の中の線。


旅人の記憶に似た何か。


見えるかもしれないものが多すぎて、見る前から手が少し重くなる。


ガーネルは駅灯を持ってきていなかった。


代わりに、小さな布を一枚持っていた。駅舎の低い棚に敷かれていた布より、少しだけ厚い。布の端には、琥珀色の糸が一筋だけ縫い込まれている。


「灯は置いてきました」


「どうしてですか」


「ここは、見えすぎる場所です」


ガーネルは布を根元の石の上へ敷いた。


「今日は、明るくするより、見えたものを布の上で休ませます」


アンバルカの根元には、浅いくぼみがあった。


水たまりではない。


樹脂の表面が少しだけ沈んで、だまりになっている。中には、琥珀色の光がゆっくり回っていた。液体のようにも、固まった光のようにも見える。メルカはそこを、琥珀だまりと呼んだ。


「ここに写真を映すのですか」


旅人が聞くと、メルカは小皿を布の上へ置いた。


「映す、というより、横に置きます」


小皿の水と、琥珀だまり。


二つは触れない。


間に布がある。


小皿の底の琥珀色の点が、だまりの光を受けて少しだけ揺れた。


ぽた。


音はしなかった。


けれど、昨日の乾板水が落ちた音を、手が覚えていた。


琥珀だまりの奥で、何かが沈んだ。


風景だった。


駅舎の窓。


ホームの端。


写真棚の薄布。


時刻表の欠け。


それらが順番に見えたわけではない。重なってもいない。水面に近いところへ一つずつ来て、すぐ沈む。見ようとすると遅れ、見ないふりをすると近づく。


ノルが息を飲んだ。


「見えました」


「何がですか」


ククルーが聞く。


「分かりません」


ノルはすぐに言った。


「分からないけれど、見えました」


メルカはうなずいた。


「よい言い方です」


「よいんですか」


「はい。アンバルカの前で、分かったふりをしないのは大切です」


旅人は琥珀だまりを見た。


さっき沈んだ風景の中に、空のベンチがあった気がする。


あるいは、なかったかもしれない。


写真棚の薄布が揺れたようにも見えた。


けれど、それは今朝の布なのか、昨日の布なのか、それとも琥珀が作った似た色なのか分からない。


「過去ですか」


旅人は聞いた。


その問いを出した瞬間、自分の声が少し急いだことに気づいた。


過去ですか。


そう聞けば、見えたものを過去という箱へ入れられる。箱に入れば、安心できる。けれど、箱の蓋が早すぎると、見えなかったものまで閉じてしまう。


メルカは小皿に手を添えた。


「過去に近いものです」


ガーネルは布の端を少し伸ばした。


「過去そのもの、と言うには、まだ地面が見えていません」


ククルーは旅人の足に尻尾を軽く触れさせた。


「足元を待とう」


旅人はうなずいた。


琥珀だまりの光が、またゆっくり回る。


今度は、古い列車の窓のようなものが見えた。


窓のようなもの。


列車、と言い切る前に、旅人は息を止めた。窓の中に誰かがいるようにも見える。けれど顔はない。手もない。形は、光の端でほどけている。


ノルの指が動いた。


数えようとしたのだ。


窓の数。


見えた影の数。


ほどけた端の数。


けれど、ノルは数え札を持ってきていなかった。代わりに、灰色の二点札が布の小箱に入っている。ノルは小箱を見て、指を止めた。


「数えたいです」


「はい」


ガーネルが答える。


「でも、今数えると、窓の数が答えになりそうです」


「それも見えていますね」


ガーネルの声は、少しうれしそうだった。


ノルは照れずに、真剣な顔でうなずいた。


「数えたい手が、先に見えました」


琥珀だまりの奥で、窓のような光は沈んだ。


消えたのではない。


残ったのでもない。


沈んだ。


その違いを、旅人はすぐ言葉にできなかった。


「アンバルカは、残す樹なのですか」


旅人が聞く。


メルカは根元の幹に手を触れなかった。


触れたい手を、布手袋の中で休ませているのが分かった。


「残す力を持つ樹です」


「残す樹、ではなく?」


「樹を一つの役目で呼ぶと、樹のほうが苦しくなります」


メルカは枝の間を見上げた。


樹脂の薄い膜の奥で、草原の色が少し沈む。


「アンバルカは、残します。けれど、隠します。遅らせます。薄くします。光らせます。見えないところを、見えないまま守ることもあります」


ガーネルは布の上に、写さない写真の木枠を置いた。


昨日の木枠だ。


空の四角が、琥珀だまりの横にできる。


「今日は、これを持ってきました」


「写すためですか」


ノルが聞く。


「写さないためです」


メルカが答えた。


木枠の中には何もない。


けれど、何もない四角があることで、琥珀だまりの見えたものが、すぐ写真にならずにすむ。空の四角は、見えたものを捕まえない。見たい手だけを、そこへ休ませる。


旅人は、木枠の影を見た。


影は琥珀だまりに届かない。


少し手前で止まっている。


その止まり方が、ほっとするほど小さかった。


「旅人」


ククルーが呼んだ。


「はい」


「今、何を写したくなりましたか」


旅人は目を閉じなかった。


閉じると、見えたものを自分の内側へ持ち込みすぎる気がしたからだ。


琥珀だまりを見たまま、答える。


「列車の窓のようなものを」


「ようなもの」


「はい。列車とは、まだ言いたくありません」


ククルーはうなずいた。


「列車と言う手前で止めたんだね」


メルカは小皿を少しだけ持ち上げた。


水面の琥珀色の点が、琥珀だまりの光から離れる。


すると、だまりの奥にあった風景が少し薄くなった。


「小皿を離すと、見えにくくなるのですね」


ノルが言った。


「見えにくくなります」


メルカは答えた。


「でも、なくなったわけではありません」


「近づけると、見えやすくなる」


「はい」


「では、近づけた方がよく見えます」


ノルはそこまで言って、自分で口を押さえた。


その時、メルカの指が少しだけ動いた。


小皿の縁が、布のしわ一つ分だけ琥珀だまりへ近づく。


だまりの奥で、列車の窓のような光が急に濃くなった。窓枠らしい線が二つ、三つ、と並びかける。数えられる形になる直前だった。


ノルの指が小箱へ伸びた。


ガーネルは止めなかった。


メルカが、小皿を元の場所へ戻した。


濃くなりかけた窓は、すぐ薄くなった。なくなったのではない。数えられる前の明るさへ戻った。


「よく見える方が、よいとは限らない」


ガーネルが続きを言わず、ノルは自分で言った。


「今日は、そういう日です」


メルカは小皿を布の上へ戻した。


琥珀色の点は、だまりに近すぎない場所で止まる。


「見える範囲だけ見る、というのは」


旅人は言った。


「見えないところを諦めることではないのですね」


「諦めません」


メルカが言った。


「追いません」


ガーネルが続けた。


「閉じないよ」


ククルーが言った。


ノルは少し考えた。


「数えきらないよ」


四つの言葉は、一列に並ばなかった。


それぞれ少しずつ違うところへ置かれた。


旅人は、その配置を見た。


諦めない。


追わない。


閉じない。


数えきらない。


それは、何もしないことではない。


小皿は布の上で止まり、木枠は空のまま、ノルの指は小箱の手前で止まっている。


旅人の手も、琥珀だまりへ伸びなかった。


琥珀だまりの奥で、また何かが浮いた。


今度は、写真の端のような薄い影だった。


旅人に似ている、と言いかけて、旅人は止まった。


似ていると言った瞬間、形が旅人の方へ寄ってくる気がしたからだ。


影は、顔にならない。


名前にもならない。


けれど、ただの風景でもない。


水面の奥で、誰かの輪郭になる手前の線が、少しだけ揺れた。


ククルーの耳が動いた。


音はしない。


鈴も鳴らない。


けれど、ククルーはその線を見て、すぐには何も言わなかった。


その沈黙が、旅人を助けた。


「今のは」


ノルが言いかける。


メルカは小さく首を横へ振った。


「今日は、名をつけません」


「見えたのに」


「見えたからです」


メルカの声は、少しだけ低かった。


「見えたものほど、名をつけると強く残ります」


旅人は息を吐いた。


名をつけないことで、消えるわけではない。


名をつけないことで、残りすぎないものもある。


アンバルカの枝の間で、透明な樹脂が風を受けた。


きし、とも、さら、とも言えない音がした。


樹脂が、ゆっくり沈むような音。


ガーネルは布を畳まなかった。


メルカも小皿をしまわなかった。


ククルーも立たなかった。


ノルも数えなかった。


しばらく、全員で、見えた範囲の外側を見ていた。


見えないものを見る、ということではない。


見えないまま残す場所を、見ていた。


やがて、琥珀だまりの光が落ち着いた。


列車の窓のようなものも、写真の端のような影も、顔になる手前の線も、奥へ沈んでいった。


「戻ったものはありますか」


ノルが聞いた。


ガーネルはすぐに答えなかった。


メルカも答えなかった。


ククルーは、前足を布の端にそっと置いた。


旅人は琥珀だまりを見た。


見えたものは、戻っていない。


過去も、列車も、写真も、名前も、戻っていない。


けれど、見えたものを全部持ち帰らなくてもよい場所はできた。


「持ち帰らない手が、少し戻りました」


旅人が言うと、ガーネルは静かにうなずいた。


「それは、大切な戻りです」


メルカは小皿を持ち上げた。


琥珀色の点は、薄くなっていた。


薄くなっても、底から離れてはいなかった。


「明日は、琥珀に混じるものを見ます」


メルカが言った。


「混じるもの」


ノルの声が小さくなる。


「混ざったと決める前に、混じるように見えるところを見ます」


ガーネルが言い直した。


ノルはうなずいた。


「決める前に」


旅人は琥珀だまりの奥を見た。


もう、顔になる手前の線は見えない。


見えないのに、そこに何かを置きたくなる。


その手を、旅人は空の木枠の横へ置いた。


アンバルカの琥珀は、完全な過去として、何かを手の中へ渡すことはなかった。


だからこそ、次に見えるものを、すぐ誰かのものにしなくてよかった。


風が枝の樹脂を鳴らす。


きし、とも、さら、とも言えない音。


旅人はその音を、まだ名前にしなかった。



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