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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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110/317

黄昏駅の切符 写真師メルカ




朝の黄昏駅には、写真を乾かす匂いがあった。


紙の匂いではない。


薬草を薄く煮たような、雨の前の石を布で拭いたような、少しだけ甘くて、少しだけ冷たい匂いだ。駅舎の奥から流れてきて、時刻表の下に置かれた灰色の二点札のところでいったん止まり、また細く伸びて写真棚の方へ向かっていた。


ノルはその匂いを数えようとして、すぐにやめた。


「匂いは、数えにくいです」


「数えにくいものが来る朝もあります」


ガーネルが言った。


「今日は、その方がよいかもしれません」


写真棚の前には、昨日より一枚多く布が掛かっていた。


写真ではない。薄い布だ。棚の中央の空きに、写真の代わりにかけられている。布は白くなく、灰色でもない。夕方の光を薄く畳んだような色をしている。何かを隠すためというより、空きを急いで覗かないために掛けられているようだった。


旅人は、その布の前で足を止めた。


布の下には、ほこりの四角がまだあるはずだ。


そこに置かれるはずだった写真も、まだない。


けれど、布が掛かると、空きはただの穴ではなくなった。見えないものを隠しているのではなく、見る前の場所として息をしている。


「来ましたね」


奥から声がした。


声は静かだった。


静かだが、遠くはない。こちらが近づく前から、すでに同じ部屋の中にいるような声だった。


写真棚の奥、駅舎の小さな戸が開いていた。戸の向こうには、低い作業台が見える。台の上には、乾板、浅い水皿、布手袋、細い木枠、乾かしかけの写真が並んでいた。窓は半分だけ開いている。草原の風が入るが、強くはない。写真の端をめくるほどではなく、匂いだけを少し動かす風だった。


そこに、メルカがいた。


長い首を少し曲げ、布手袋を片方だけ外している。目元は穏やかで、笑っているようにも、まだ笑う前のようにも見える。作業台の横には、古い乾板を入れる箱があり、箱の蓋には小さな欠けが三つ並んでいた。


ガーネルは作業場へ入る時、布の小箱を作業台の脇へ置いていた。中には、灰色の二点札がある。時刻表の下から連れてこられた札は、まだ箱の中で斜めになっていた。


「写真師メルカです」


メルカは自分で名乗った。


「写真を残す人、と昨日は呼ばれたそうですね」


ノルが少し慌てた。


「すみません。名前を言わずに」


「いいえ。名前より先に手を見る日もあります」


メルカは外していた布手袋を、作業台の端へ置いた。


「それに、写真を残す人、という言い方は、少し正しいです。少しだけ」


「少しだけ」


ククルーが言った。


「うん。写真は残すよ。でも、残したものだけが、そこにいた全部じゃない」


作業台の上に、一枚の写真があった。


昨日、棚の中央に置かれなかった写真ではない。別の写真だ。ホームの端にあるベンチが写っている。ベンチは空いている。横にある伝言木札も空欄のままだ。けれど、写真の端には、誰かの袖のような淡い影が残っていた。


ノルが身を乗り出しかけた。


「それは」


メルカは止めなかった。


ただ、写真の角に布を一枚置いた。


影の袖は、少しだけ見えにくくなる。


「見えなくするのですか」


ノルが聞く。


「見えすぎないようにします」


メルカは答えた。


「写った端は、ときどき遅れます。人の足より、影の方があとから来ることがある。けれど、遅れて写ったものを、本人だと急いで決めると、写真は少し苦しくなります」


旅人は写真の端を見た。


淡い袖。


袖のように見える影。


人の気配にも見えるし、ただの風の残りにも見える。見ようとすると、そこに誰かを置きたくなる。置きたくなると、写真全体がその誰かの証拠になってしまいそうだった。


「この写真は、昨日の空きと関係がありますか」


旅人が聞いた。


メルカはすぐには答えなかった。


答えを持っていないのではない。答えを一枚の写真へ閉じないために、少し待ったのだと分かった。


「近くにあります」


やがて、メルカは言った。


「けれど、この写真だけを棚の空きへ重ねません」


ノルは小さくうなずいた。


メルカは写真を水皿の横へ移した。


水皿の表面に、写真の端だけが映る。


全部は映らない。


映らないのに、端だけは揺れる。


「昨日、置かれなかった写真は、ここにはありません」


メルカは作業台の下から、小さな木枠を出した。


木枠は空だった。


「でも、置かれなかった写真のために空けた枠はあります」


ノルの指が数え札へ伸びそうになり、止まった。


「空きがまた一つ」


「はい」


メルカは木枠を灰色の二点札のそばへ置いた。


ガーネルが布の小箱を開ける。数えたあとにまだ数えないものは、写真の前でも必要になるからだった。


木枠と灰色の札は、ぴったり並ばなかった。


少しずれている。


そのずれに、旅人はほっとした。


ぴったり並ぶと、同じものに見える。ずれていると、近くに置ける。


「写真は、何をしてくれるのかな」


ククルーが聞いた。


メルカは考えるように、布手袋の指先を整えた。


「忘れたくない手を、少しだけ助けます」


「忘れないようにしてくれるのではなく?」


「それは、強すぎます」


メルカは首を横へ振った。


「忘れないようにする、と言うと、写真は人を捕まえ始めます。私は、手が何かを残したいと思った時、その手が一人で固まらないように、少し助けます」


旅人は自分の手を見た。


琥珀切符に触れた手。


時刻表の欠けを急がせなかった手。


写真の端を見て、誰かを置きたくなった手。


どの手も、悪い手ではなかった。


でも、どの手も、先に進みすぎることがある。


「写真を撮ると、残したい手は休めますか」


旅人が聞いた。


「休める時もあります」


メルカは言った。


「でも、休めない時もあります。撮ったことで、もっと握りしめたくなることもあります」


ノルが顔を上げた。


「数えたあと、もっと数えたくなるのと似ていますか」


「似ています」


メルカは微笑んだ。


「ただ、同じにはしません」


ノルは少し誇らしそうにうなずいた。


「同じにはしません」


ガーネルは部屋の入り口で、低い駅灯を手にしていた。


朝なのに、駅灯を持っている。


メルカの作業場は明るい。窓から草原の光が入り、乾板の水皿にも柔らかな反射がある。それでも、ガーネルは駅灯を高く掲げなかった。作業台の足元へ、低く置いている。


「写真の上ではなく、足元を照らすのですね」


旅人が言うと、ガーネルはうなずいた。


「写真だけが明るいと、写っていないものが暗くなりすぎます」


メルカはその言葉に、小さく笑った。


「駅長は、いつも写真を少し困らせます」


「困らせますか」


「ええ。写真は、見てほしいところを明るくしたがりますから」


「メルカさんは、困りますか」


「困ります」


メルカは正直に言った。


「でも、困った方がよい写真もあります」


作業台の奥に、乾きかけの写真が三枚あった。


一枚はホームのベンチ。


一枚は駅舎の窓。


一枚は草原の道。


どれも端が少し遅れている。中央ははっきりしているのに、端だけがまだ今日へ追いついていない。メルカは三枚を一列に並べず、少しずつずらして置いた。


「この三枚は、同じ夕方に撮りました」


「同じ夕方」


「でも、同じ時刻とは言いません」


ノルが目を瞬かせた。


「同じ夕方なのに?」


「はい。ベンチの夕方、窓の夕方、道の夕方。それぞれ乾く速さが違います」


メルカは草原の道の写真を指した。


「道の夕方は、少し先に暗くなります」


次に、駅舎の窓の写真を指す。


「窓の夕方は、少し遅れて明るさを返します」


最後に、ベンチの写真へ指を移す。


「ベンチの夕方は、座る人がいないと、長く残ります」


旅人はベンチの写真を見た。


空席。


空欄の伝言木札。


写っていない誰か。


それでも、ベンチの夕方は残っている。


写真は、誰かを連れて戻したわけではない。けれど、誰かがいないことを、ただの空白にしなかった。


「昨日の写真棚の空きも、長く残っていました」


旅人が言うと、メルカはうなずいた。


「あの空きは、急いで埋めると傷みます」


「写真が傷むのですか」


「写真だけではありません」


メルカは布手袋を両手にはめた。


「待っていた人も、持ってくるはずだった人も、見ようとした人も、少しずつ傷みます。だから、今日は空きのまわりを乾かします」


「空きのまわりを」


「はい。空きを乾かすのではありません」


メルカは水皿から写真を一枚上げた。


水が細く落ちる。


ぽた。


音は小さい。


けれど、駅舎の外の低い鐘とは違う、小さくて近い音だった。


「濡れている端を急いで拭くと、写っていたものが伸びます。待てば戻る端も、急ぐと別の形になる。だから、端の水だけを少し残します」


旅人は、写真の端から落ちる水を見た。


残すために、少し残す。


ほどくために、少し待つ。


写真師の仕事は、ただ過去を固定することではなかった。残したい手を助けるために、残しすぎない場所を作ることでもあった。


「その水は、どうするのですか」


ノルが聞いた。


「捨てません」


メルカは小さな皿を出した。


皿は浅く、底に琥珀色の点が一つある。


「乾板から落ちた水を、少しだけ集めます。何が写っていたかを読むためではありません。どれだけ急いで乾かしたくなったかを、あとで見るためです」


ノルは目を丸くした。


「急ぎも、残すのですか」


「少しだけ」


「全部ではなく?」


「全部残すと、次の日の手が重くなります」


ククルーが、皿の近くで鼻を動かした。


「急ぎにも匂いがあるね」


「どんな匂いですか」


旅人が聞く。


「まだ名前をつけない方がいい匂いだね」


それだけ言って、ククルーは作業台の下へ少し引いた。


答えを出さないための、小さな後ろ足だった。


メルカは笑った。


「いい案内役ですね」


ククルーはまじめな顔をした。


「今日は写真師の時間だね」


「では、私は写真師らしいことをしましょう」


メルカは空の木枠を、旅人の前へ置いた。


「この枠に、何を写したいですか」


旅人はすぐには答えなかった。


写したいもの。


空のベンチ。


欠けた時刻表。


灰色の二点札。


写真棚の一枚分の空き。


琥珀切符の箱。


どれも、写せば何かが分かるような気がする。けれど、その気持ちは、切符を持ち上げたくなった時の手に少し似ていた。


「写したいものはあります」


旅人は言った。


「でも、今写すと、答えにしたくなるものばかりです」


メルカはうなずいた。


「では、写さない写真を作りましょう」


ノルが首をかしげた。


「写さない写真?」


「はい」


メルカは乾板ではなく、薄い紙を一枚出した。


何も塗っていない紙だ。


写真にはならない。


「ここに、写したいものの名前を書きません。形も描きません。ただ、枠だけ置きます」


紙の上に、細い木枠を置く。


空の四角ができた。


「これは、写真ではありません」


メルカが言う。


「でも、写真を撮りたい手を、写真にする前に休ませる場所です」


旅人はその空の四角を見た。


時刻表の欠けに似ている。


写真棚の空きにも似ている。


それでも、木枠の影は少しだけ別の場所へ落ちていた。


「ここへ、置いてもいいですか」


旅人は聞いた。


メルカは答えず、紙の横へ小さな布を敷いた。


それが答えだった。


旅人は、かばんから薄布を出しかけた。


指が止まる。


まだ、その布を出す日ではない。


代わりに、手だけを布の上へ置いた。


写したい手。


残したい手。


証拠にしたくなる手。


三つは同じではない。


旅人は手を置いたまま、少し息を吐いた。


「写真を撮らなかったことも、残りますか」


「残ります」


メルカは言った。


「ただし、残り方は薄いです。だから、あとで忘れそうになる。でも、薄く残ったものの方が、強い写真より助けになる日もあります」


ガーネルは低い駅灯を、さらに少しだけ下げた。


作業台の足元が明るくなる。


写真そのものは、少し暗くなる。


それでよかった。


旅人は写真ではなく、作業台の上にある手の置き場所を見た。


灰色の二点札。


空の木枠。


乾板から落ちた水の小皿。


写さない写真の白い紙。


どれも、過去を戻す道具ではない。


残したい手が、残す前に一度立ち止まるための場所だった。


半分開いた窓の向こうに、ホーム端のベンチが見えた。空欄の伝言木札が、風に押されて小さく揺れる。


こと。


昨日より、音は近く聞こえた。


文字は戻っていない。


写真も戻っていない。


消えた列車の時刻も、まだ戻らない。


けれど、メルカはその音を聞いて、写真棚の布を少しだけ直した。


空きのまわりは、少し乾いた。


乾いたことで、まだ乾かしてはいけないものも見えた。水皿の底にある琥珀色の点は、写真ではなく、写真の外に残った小さな問いのように見える。


「明日は、アンバルカの方へ行きます」


ガーネルが言った。


その名が出ると、作業台の水皿の底の琥珀色の点が、少しだけ濃く見えた。


「琥珀を見るのですか」


ノルが聞く。


「見ます」


メルカが答えた。


「でも、過去を見るためだけではありません」


旅人は水皿の底を見た。


琥珀色の点は、点のままだ。


線にも、顔にも、名前にもならない。


「見える範囲だけを見るためですね」


旅人が言うと、メルカは静かにうなずいた。


「はい。見えないところまで、写真にしないために」


作業場の匂いが、朝の駅舎へゆっくり戻っていく。


薬草を薄く煮たような、雨の前の石を布で拭いたような匂い。


旅人はその匂いを、名前にしなかった。


写真棚の一枚分の空きは、まだ空いている。


けれど、その空きのまわりには、乾くのを待つ場所ができていた。


そして、アンバルカの琥珀は、まだ遠くで、見える範囲だけを待っていた。



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