↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クイズクロニクル  作者: pj.masta


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
109/317

黄昏駅の切符 消えた列車の時刻




夕方は、朝よりもゆっくり駅舎へ戻ってきた。


空の色が変わるより先に、床板の影が長くなる。窓枠の下に細い影が生まれ、低い棚の布の端へ届き、切符窓口の木札の足元で止まる。昨日までなら、その影が止まるころには、ホームの向こうから低い鐘が一度鳴ったのだとガーネルは言った。


今日は、まだ鳴らない。


鳴らないことが、駅舎の中に先に来ていた。


旅人は時刻表の前に立った。


時刻表は壁に掛かっている。古い板の枠に、薄い紙が何枚も重ねられていた。紙は白くない。夕焼けを何度も受けたように、端が淡い琥珀色へ寄っている。墨の線はところどころ薄いが、読みづらいわけではない。読める時刻は、今も読める。


読めないのは、一枠だけだった。


そこだけ、紙が抜けているのではない。


墨が消えているのでもない。


文字のあるはずの場所に、薄い影がある。影は黒くない。指を近づけると、紙の上にあるのか、紙の奥にあるのか分からなくなる。さわれば破れそうで、さわらなければそこにあると分かる。そんな欠け方だった。


ノルは数え札を持っていた。


昨日より、札の束は少ない。全部を持ってこないようにしたのだと、ノルは言った。けれど、少なくした札を何度もそろえるので、指先は忙しい。


「時刻は、上から数えると十三あります」


ノルは言った。


「欠けた枠を入れると、十四です」


ガーネルはうなずいた。


「数えましたね」


「はい」


「では、数えたものを置きましょう」


ノルは一瞬だけ不安そうに札を見た。


「置くと、分からなくなりませんか」


「置かないと、分かったものが手から離れません」


ガーネルは時刻表の下に、小さな細長い台を出した。切符箱を置いた棚よりも低く、床に近い。台の上には、細い溝が十四本あった。十三本には古い紙片が入り、最後の一本だけ空いている。


「時刻を直す台ではありません」


ガーネルが先に言った。


「数えた手を休ませる台です」


ノルは小さく息を吐き、札を一枚ずつ溝に置いた。


一、二、三。


口には出さない。


出さなくても、指が数えている。


旅人はその指を見た。


速い。


けれど、乱れてはいない。数えることで、ノルは自分を落ち着かせている。数えないように言われたら、きっともっと怖くなる。欠けた枠が、何もない穴ではなく、全部を飲み込む場所に見えてしまう。


「数える手は、悪くない」


旅人が言うと、ノルの指が止まった。


「でも、数えたあとに埋めたくなります」


「はい」


ノルは欠けた枠を見た。


「空いていると、そこに時刻を書きたくなります。何時何分、と書けば、なくなった場所が戻る気がして」


「書きたい手も、悪くありません」


ガーネルはそう言った。


ノルは驚いた顔をした。


「悪くないんですか」


「ええ。駅の人は、時刻を書きます。書かない駅は、待つ人を困らせます」


ガーネルは時刻表へ近づき、欠けた枠の下に指を置いた。触れない。紙から少し浮かせる。


「ただ、今は、書く前です」


「書く前」


ククルーが繰り返した。


「切符の前に手を置いたように、時刻の前にも手を置くんだね」


「はい」


ガーネルの声は、低い鐘の前の空気に似ていた。


「時刻は、列車だけのものではありません。時刻を待っていた人の手、帰ろうとした足、渡すつもりだった包み、言うつもりだった一言。そういうものが一緒に立っています」


旅人はホームの端を思い出した。


空のベンチ。


毎夕置かれるはずだった、短い伝言。


誰かが来なかったのではない。来るための時刻が、うまく立てなくなっている。


低い鐘が鳴った。


ごん。


昨日より近い。


けれど、到着を告げる音ではなかった。


鐘は一度だけ鳴り、時刻表の紙が、ゆっくり息をした。


ぱさ。


欠けた枠の影が、ほんの少しだけめくれた。


ノルが前へ出ようとする。


ガーネルは止めなかった。


ただ、台の空いた溝を指した。


ノルは自分で足を止めた。


「先に、空きを置きます」


そう言って、何も書いていない札を一枚、空いた溝へ置いた。


白い札ではない。


薄い灰色の札だった。白いと、すぐ何かを書きたくなるからだと、ノルは言った。灰色なら、まだ紙と影の間に置ける。


「よい札です」


ガーネルが言った。


ノルは少しだけ笑った。


その笑いが終わる前に、時刻表の影がまた動いた。


ぱさ。


今度は紙音の奥から、細い線が二本見えた。


低い灯で見た時刻表裏の線だ、と旅人は思い出した。いや、そう名づける前に、手が先に覚えていた。二本の線は、同じ方を向いていない。近づきそうで、重ならない。列車の線路にも見える。けれど、線路だと思った瞬間、線は紙の奥へ沈む。


「線路ではありません」


ガーネルが言った。


旅人が聞く前だった。


「線路だと思うと、追いかけたくなります」


「追いかけてはいけないのですか」


ノルが聞いた。


ガーネルは少し考えた。


「追いかける日もあります。けれど今日は、追いかけるより、どちらを待てなかったのかを見ます」


どちら。


旅人は二本の線を見た。


一本は、時刻表の外側へ向かっているように見える。


もう一本は、ホームの方へ戻ろうとしているように見える。


どちらも細い。どちらも途切れている。どちらが正しい線なのか、決められない。決めようとすると、片方が消えそうになる。


ククルーは旅人の足元に座った。


「二本あると、一本にしたくなるね」


「はい」


「一本にすると、読みやすいね」


「読みやすい方が、よいのではありませんか」


ノルが言う。


ククルーは耳を少し横へ向けた。


「読みやすくしたことで、聞こえなくなる声もあるよ」


ノルは札の束を見た。


「数えやすくしたことで、見えなくなるものもありますか」


「あります」


ガーネルが答えた。


「だから数えることをやめるのではありません。数えたあとで、数えにくいものの場所を作ります」


旅人は、低い棚の布を思い出した。


小札。


置かれた理由。


切符箱。


まっすぐ一列に並んでいなかったものたち。


ずれているから、それぞれを見られる。


「この時刻は、誰の時刻ですか」


旅人が聞いた。


ノルの指がまた動きかけた。


誰の、と聞かれた瞬間、答えの名札を探しに行きたくなったのだと分かった。


ガーネルは時刻表から目を離し、駅舎の奥へ顔を向けた。


「写真棚を見ます」


「写真ですか」


「ええ。時刻表だけを見ると、時刻が時刻だけになりすぎます」


駅舎の奥には、細い棚があった。


旅人は、そこに今まで気づいていなかった。切符窓口、低い棚、時刻表。見るものが多くて、奥の棚は壁の一部のように静かだった。


棚には小さな写真が並んでいる。


古い家の前で笑う人。


草原の道を歩く人。


駅灯の下で荷物を持つ人。


写真はどれも、少しだけ端が遅れているように見えた。写っている人の輪郭はあるのに、端の夕焼けだけがまだ乾いていない。写真そのものが、見た時刻から一歩遅れてついてきている。


棚の中央に、一枚分の空きがあった。


写真が落ちた跡ではない。ほこりが四角く残っている。そこに何かがあったことは分かる。けれど、何が写っていたのかは分からない。


ノルが小さな声を出した。


「そこです」


「そこ」


「毎夕、あの時刻のあとに乾かす写真が一枚ありました。写真師さんが、ホームに持ってきて、棚に置いて、次の日の朝に持ち主が取りに来ます」


「今は」


「置かれません」


ノルは数え札を握りそうになり、途中で止めた。


「空いているのは、写真一枚分です。でも、一枚と数えると、足りません。持ってくる足も、待つ人も、朝に取りに来る手も、なくなっている気がします」


ガーネルはうなずいた。


「その気づきを、時刻表へ持って戻ります」


「消えた写真は探さないのですか」


旅人が聞くと、ガーネルは棚の空きを見た。


「見たいですね」


その返事は、思ったより正直だった。


ガーネルも、見たいのだ。


消えたものを、確かめたい。


何が写っていたのか、誰が持ってきたのか、誰が取りに来るはずだったのか。そこまで分かれば、欠けた時刻に名前をつけられる。名前がつけば、戻せるように思える。


でも、ガーネルは棚へ手を伸ばさなかった。


「今日は、写真を取り戻す日ではありません」


「明日は?」


ノルが聞いた。


「明日も、取り戻す日とは決めません。写真を残す人の手を、写真棚の前で見ます」


旅人はその言葉を聞き、少しだけ息を整えた。


写真を残す人。


まだ会っていない人の気配が、棚の空きにあった。


けれど、その人を今すぐ答えにしない。今は、写真が置かれなかった空きと、時刻表の欠けを、同じにしすぎないで持ち帰る。


時刻表の前へ戻ると、欠けた枠の影は少し薄くなっていた。


消えたのではない。


見やすくなったのでもない。


ただ、影のまわりに小さな余白ができている。写真棚の空きが、時刻表だけに閉じこめられていた欠けを、少しだけ広い場所で見られるようにしたのかもしれない。


ノルは灰色の札を空いた溝から取った。


「書いてもいいですか」


「何を書きますか」


ガーネルが聞く。


ノルはしばらく考えた。


「時刻は書きません」


「はい」


「列車名も書きません」


「はい」


「人の名前も、まだ書きません」


「はい」


ノルは札の端に、小さな点を二つ置いた。


文字ではない。


数字でもない。


点は、二本の線のように、近くて離れている。


「待てなかったものが、一つではない印です」


ノルが言った。


ガーネルは長く黙った。


褒める言葉を急がせない沈黙だった。


「よい印です」


やがて、そう言った。


ノルの肩が少し下がった。


旅人は欠けた枠を見た。


さっきより、怖くない。


怖さがなくなったのではない。欠けているものは、まだ欠けている。けれど、欠けた枠の前に、数え札の台があり、灰色の札があり、写真棚の空きがあり、二つの点がある。欠けたまま見られる場所が増えた。


「誰の時間が閉じたのか」


旅人は小さく言った。


それは問いだった。


答えではない。


ククルーが耳を動かす。


「閉じた、と決めすぎない方がいいかもしれないね」


「では」


「閉じかけた時間」


旅人はうなずいた。


閉じかけた時間。


まだ完全には閉じていない。


だから、戻すより先に、閉じかけた形を見られる。


低い鐘がもう一度鳴った。


ごん。


今度は、音のあとに紙がすぐ鳴らなかった。


間がある。


その間に、旅人は自分の手が切符箱へ向かっていないことに気づいた。琥珀切符を開ければ、時刻の奥にあるものまで分かるかもしれない。そう思う手が、ないわけではない。けれど、その手は布の上で休んでいる。


切符を見た手で、時刻を急がせない。


ガーネルの言葉が、今になって少し分かった。


ぱさ。


時刻表の紙が鳴った。


二本の薄い線は、さっきよりも少しだけはっきり見えた。


それでも、重ならない。


同じ方も向かない。


旅人は、そのままで見た。


ノルも、そのままで見た。


ガーネルは駅灯を高くしなかった。


低い灯のまま、欠けた枠と二つの点と写真棚の空きを、同じ明るさに置いた。


「今日、戻ったものはありますか」


ノルが聞いた。


「あります」


ガーネルが答えた。


ノルの顔が明るくなりかける。


「列車ですか」


「いいえ」


明るさは少し止まった。


でも、消えなかった。


「時刻ですか」


「いいえ」


ノルは灰色の札を見た。


「では」


「数字だけで見ないための、置き場所です」


ガーネルは言った。


「それが戻ると、次に聞ける声があります」


駅舎の外で、夕方の風がホームを通った。


ベンチの方から、小さな木札が揺れる音がした。


こと。


空欄の伝言木札だ。


文字は、まだない。


けれど、揺れた。


旅人はホームの方を見た。


空のベンチは、まだ空のままだろう。


誰かが戻ったわけではない。


でも、空いている場所が、ただ空いているだけではなくなった。時刻表の欠け、写真棚の空き、伝言木札の空欄。三つの空きは同じではない。けれど、互いのそばに置ける。


ククルーは前足で床を一度押した。


「空きにも、足元が見えるね」


「足元」


「うん。走り出しにくい足元だね」


旅人は写真棚を見た。


端が遅れている写真たち。


中央の一枚分の空き。


そこに、まだ会っていない人の手がある。


「写真を残す人に会うのですね」


「会います」


ガーネルが言った。


「ただし、写真を証拠にするためではありません。残したいと思った手を、先に見に行きます」


ノルは灰色の札を数え札の束とは別にした。


束へ戻さない。


台の空いた溝にも入れない。


時刻表の下、少しずれた場所へ置いた。


二つの点が、低い灯を受ける。


「これは、数えたものですか」


旅人が聞く。


ノルは首を横へ振った。


「数えたあとに、まだ数えないものです」


その答えを聞いて、ガーネルは静かに笑った。


低い鐘の余韻が、駅舎の柱に少しだけ残っている。


時刻表の欠けは、まだ欠けている。


消えた列車の時刻は、まだ戻らない。


けれど、戻らないから何もできないわけではなかった。


誰の時間が閉じたのか。


その問いは、少し形を変えた。


誰の時間が、閉じかけたまま待っているのか。


旅人はその問いを、時刻表の前に置いた。


答えとしてではない。


次に写真を残す人へ向かうための、まだ書かない札として。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。