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クイズクロニクル  作者: pj.masta


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112/317

黄昏駅の切符 琥珀に混じる輪郭




翌朝、アンバルカの根元には、昨日よりも低い光が残っていた。


朝なのに、夕方のような色ではない。


夕方の色を、朝が少しだけ預かっているような光だった。


旅人は、その言い方を口にしなかった。言い方を作ると、昨日見た線まで言葉の方へ寄ってきそうだったからだ。


メルカは乾板水の小皿を持っていなかった。


代わりに、空の木枠だけを持っている。昨日、琥珀だまりの横に置いた、写さない写真の木枠だ。木枠の端には、まだ何も写っていない。ただ、持つ手が少し慎重になっていた。


「今日は、小皿を持ってこないのですか」


ノルが聞いた。


「持ってくると、近づけたくなります」


メルカが答えた。


「近づけたくなるのは、悪いことですか」


「悪くありません。けれど、今日は、近づけたい手より先に、見えてしまった輪郭の距離を見ます」


ノルは分かったような、分からないような顔をした。


「輪郭の距離」


「はい」


メルカは木枠を胸元へ抱えなかった。布手袋の指先で、枠の下を軽く支えている。


「昨日の線を、写真にも、記憶にも、名前にも入れないための距離です」


ガーネルは駅灯を持たず、琥珀糸の休み布を持っていた。昨日と同じ布だ。ただし、今日は根元の石ではなく、アンバルカの外縁にある低い切り株の上へ広げた。


「根元まで行かないのですか」


旅人が聞く。


「行けます」


ガーネルは布のしわを伸ばした。


「でも、昨日見えたものは、根元へ戻れば見えるとは限りません。見える場所へ急ぐより、見えた後の場所を見ましょう」


ククルーは布の端に座った。


鈴は鳴らない。


鳴らないことを、誰も急いで意味にしなかった。


旅人はアンバルカを見上げた。


枝の間の樹脂膜は、昨日よりも薄く見える。薄くなったのではなく、見る側が昨日よりも少しだけ慎重になったのかもしれない。樹脂の奥には、草原の色と駅舎の屋根と、写真棚の薄布らしい白が、ゆっくり違う速さで沈んでいる。


その中に、線があった。


昨日の線かどうかは分からない。


顔になる手前の線。


そう呼びそうになって、旅人は唇を閉じた。


呼ぶと、昨日より近くなる。


「見えていますか」


メルカが聞いた。


「線のようなものが」


旅人は答えた。


「線ですか」


ククルーが聞く。


「線のようなものです」


旅人が言い直すと、ククルーはうなずいた。


「今日は、その『ようなもの』を落とさないでおこう」


「落とす?」


「うん。すぐ線にすると、ようなものが落ちるんだ」


ノルは自分の手元を見た。


灰色の二点札は持ってきていない。数え札もない。けれど、ノルの指は、ときどき布の端をなぞりそうになる。


「点も、今日は置かない方がいいですか」


「置きたいなら、置きたい手だけ見ましょう」


ガーネルが答えた。


ノルは指を握った。


「置きたい手が、あります」


「では、それは見えています」


ガーネルはそれ以上ほめなかった。


ほめると、ノルが安心して、次の手を急ぎそうだったからだ。


アンバルカの樹脂が、きし、とも、さら、とも言えない音を出した。


音のあと、樹脂の奥で輪郭が少しだけ近づいた。


旅人に似ている。


その言葉は、昨日よりもはっきり胸の近くまで来た。


似ている、と言えば、何が似ているのかを探したくなる。肩の高さ。髪の流れ。顔の向き。歩き方。けれど、樹脂の奥の輪郭には、どれもない。ないのに、似ていると思いそうになる。


「似ている、と言いかけました」


旅人は、言いかけたことだけを言った。


メルカは木枠を少し低くした。


「よい置き方です」


「言わない方がよかったですか」


「言ったことより、言いかけた場所が大切です」


メルカは空の木枠を布の上へ置いた。


枠の内側には、アンバルカは入らない。樹脂の光も入らない。輪郭も入らない。


ただ、何かを入れたくなる四角だけが、そこにある。


「ここへ写したら、似ているかどうか分かるのでは」


ノルが言った。


すぐに口を押さえる。


「分かりたくなりました」


「はい」


メルカは木枠の角に手を添えた。


「その手を、今日は写します」


「手を?」


「写しません。けれど、写したくなった手は、ここへ置けます」


ノルは少し笑った。


「写すのか、写さないのか、分からなくなります」


「分からなくなるところまでが、今日の場所です」


ガーネルは布の端をつまんだ。


「分かった後の手順は、明日以降でよいのです」


旅人は木枠を見た。


枠は空のままなのに、そこへ輪郭を入れた時の形が、手の中に浮かびそうになる。顔はない。名前もない。けれど、枠の四角があるだけで、輪郭は少し捕まえやすくなる。


捕まえやすくなることは、助けにもなる。


同時に、怖さにもなる。


「捕まえたいです」


旅人が言うと、ククルーの耳が少し動いた。


「何をかな」


「分かりません」


「分からないものを捕まえたい」


「はい」


「それなら、手が先に走っているね」


ククルーは怒らない。


旅人の手を止めもしない。


ただ、走っていることを、横に置く。


旅人は自分の手を見た。昨日、少し戻ったと思った、持ち帰らない手だ。今日は、その手がもう一度、琥珀だまりの方へ行きたがっている。


持ち帰らない手は、一度戻れば終わるものではなかった。


毎回、戻り直すものなのかもしれない。


アンバルカの奥で、輪郭が揺れた。


今度は、草原の影と重なった。次に、駅舎の窓の影と重なった。さらに、写真棚の薄布の端と重なった。


重なった。


そう見えた。


けれど、混ざったとは、まだ言えない。


「混じっているように見えます」


旅人は言った。


「何と、ですか」


ガーネルが聞く。


旅人は答えられなかった。


草原と。


駅舎と。


写真棚と。


昨日見た列車の窓のようなものと。


そして、旅人自身と。


どれも言いかけられる。どれも言い切ると、強くなりすぎる。


「混じっているように見える場所が、多いです」


旅人はそう言った。


メルカはうなずいた。


「今日は、それで十分です」


「十分、なのですか」


「はい。十分に見えすぎています」


メルカの声は静かだったが、少しだけ硬くなった。


旅人はもう一度、樹脂の奥を見た。


確かに、見えすぎている。


何かが分かったからではない。むしろ、分からないものが多すぎて、どれか一つを分かったことにしたくなる。似ているものが多いほど、似ていないところを見る力が弱くなる。


木枠の白い内側が、ふっと明るくなった。


輪郭が、枠の中へ入ったように見えた。


ほんの一息の間だけだ。顔はない。名前もない。けれど、白い四角の内側に入った瞬間、輪郭は急に一つの形になりかけた。


旅人の手が伸びた。


伸びた、と気づいた時には、指先が木枠の角の近くまで来ていた。


鈴は鳴らない。


その鳴らなさが、昨日より広い。


メルカは木枠を伏せなかった。隠さず、ただ角度を少しだけ変えた。白い内側から光が外れ、輪郭はまた樹脂の奥へほどけた。


旅人は、伸ばした手を布の上へ戻した。


ノルが小さく息を吸った。


「似ているところ札が、要ります」


ガーネルはすぐには答えなかった。


ノルは自分で首を振る。


「違いました。札を作る前に、似ているところを作りたくなりました」


「はい」


ガーネルが言った。


「その手も、見えています」


ノルは布の端に指を置いた。


「見えると、少し落ち着きます」


「落ち着くために見るのは、悪くありません」


メルカが言った。


「ただ、落ち着いた形をそのまま写真にすると、あとで動けなくなることがあります」


木枠の空の四角が、光を受けて白くなった。


旅人は、枠の白さを見た。


白いところに、輪郭を置きたい。


輪郭を置けば、次に何をすればいいか分かる気がする。


分かる気がすることは、分かることではない。


その違いを、今日のアンバルカは何度も見せている。


ククルーが布から少し離れた。


「旅人」


「はい」


「今の輪郭に、名前をつけないまま、何を持って帰れるかな」


旅人は答えを探した。


名前ではないもの。


顔ではないもの。


記憶ではないもの。


証拠ではないもの。


けれど、何も持ち帰らないわけではない。


「近づけると、強くなること」


旅人は言った。


ククルーはうなずいた。


「ほかには」


「空の枠があると、入れたくなること」


「ほかには」


旅人は答えようとして、木枠を見た。


メルカが、木枠をほんの少し伏せる。内側の白さは消えず、けれど輪郭を入れたくなる四角ではなくなった。


ノルも、小さな札を探すように動いた指を、布の端へ戻した。


メルカは小さく息を吐いた。


「今日は、それを持ち帰りましょう」


ガーネルは布を畳まなかった。


「持ち帰る、というより、駅の低い棚へ置きましょう」


「駅へ戻るのですか」


ノルが聞いた。


「戻ります」


ガーネルはアンバルカを見上げた。


「ここで見えたものを、ここで決めると、アンバルカが強すぎます」


メルカは木枠を持ち上げた。


「写真台で決めても、写真が強すぎます」


ノルは自分の指を見た。


「数え台で決めても、数が強すぎます」


ククルーは旅人を見た。


「旅人の手で決めても、手が強すぎるね」


旅人はうなずいた。


どの場所も、悪くない。


けれど、一つの場所だけで決めると、強くなりすぎる。


だから、駅へ戻る。


駅の低い棚へ置く。


持ち帰るのではなく、置きに帰る。


アンバルカの樹脂の奥で、輪郭が最後にもう一度だけ揺れた。


旅人に似ている、と言いたくなる。


けれど、今度はその手前で、別のところも見えた。草原の影、写真の端、時刻表の欠け、駅舎の窓。それぞれの端が、輪郭のそばで少しずつ違う色を返している。


旅人は、それを少しだけ助かったと思った。


「助かった、と思いました」


旅人が言うと、ククルーは首をかしげた。


「何にですか」


「一つに決められないことに」


ククルーは笑わなかった。


「一つに決められないことに、助けられたんだね」


鈴は、やはり鳴らなかった。


けれど、その鳴らない間は、昨日より少し広かった。


駅へ戻る道で、木札の琥珀点は昨日と同じように低く光っていた。


ノルは一度だけ、点を数えかけてやめた。


メルカは木枠を持つ手を、いつもより少し下げて歩いた。


ガーネルは布を畳まず、端を少しだけ外へ見せていた。


旅人は、かばんの口を閉じなかった。


何も入れないためではない。


入れたくなった時に、先に見るためだ。


駅舎へ戻ると、低い棚の上に、昨日の手休め布が敷かれていた。ガーネルは、その横へ琥珀糸の布を置いた。メルカは空の木枠を置いた。ノルは札を置かなかった。札を置かなかった手を、布の端へ置いた。


旅人は、自分の手をその横へ置いた。


「切るものでは、ありませんね」


ノルが言った。


誰も、すぐには答えなかった。


切符窓口の奥で、かち、と小さな金属音がした。


風で揺れた道具が、棚の内側へ触れただけの音だった。けれど、低い棚の布の上には、細く開いた道具の跡のような空きが一つある。


ノルの指が、二本に分かれかけて止まった。


切る。


閉じる。


写す。


数える。


名前をつける。


どれも、必要になる日があるのかもしれない。けれど今日の輪郭に、最初に必要なものではない。


「切る前に、ほどけ方を見ます」


ガーネルが言った。


メルカは木枠の角を布の上で少しだけ回した。


「ほどく前に、枠から外しておきます」


ククルーは、空の木枠の外側へ前足を置いた。


「外側にも、場所があるね」


旅人はうなずいた。


琥珀に混じる輪郭は、旅人のものにならなかった。


誰のものにも、まだならなかった。


けれど、誰のものでもないから見捨てる、という場所にも行かなかった。


低い棚の上に、空の木枠、琥珀糸の布、札を置かなかった手、旅人の手が並んでいる。


その並びを見て、ノルが小さく言った。


「二本に分けたくなりますね」


「だから、次はその形を休ませます」


ガーネルが答えた。


駅の外で、風が空欄の伝言木札を揺らした。


こと。


音は、文字にはならない。


けれど、今日見た輪郭を一つにしないまま、次の場所へ送るには十分だった。



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