第54話『最期の夜』
「ご当主様、が……!?」
ある日の夜、使用人からの報告にノワールは顔を青くしていた。
ずっと病に伏せていたヴァレンシュタイン当主の体調が思わしくないという。屋敷の中は複数人の医者が呼び集められ、騒がしくなっていた。だが、どの医者の出す結論も同じだった。
「恐らく今夜が峠かと」
ノワールは寝衣にローブを一枚羽織り、部屋を飛び出すように駆けた。
当主の私室の前には複数名の使用人と医者がいた。使用人の一人が、その部屋の扉を開き、ノワールを促した。
薄暗い部屋の中にはベッドに横たわった当主。そして傍らの椅子に腰掛けるレオンハルト。側に立つヴィクトリアの姿だけがあった。
繰り返される呼吸は、あまりに弱々しい。レオンハルトの視線を受け、ノワールはそっと寝台へ近付き、その傍らに膝をついた。
「ご当主様。ノワールが参りました」
小さく告げる。
ヴァレンシュタイン領に来てからというもの、当主の体調の良い日はこうして私室に呼ばれることがあった。
時に姉弟の幼い頃の話を聞いて笑い、時に神子の歌を歌い。ノワールの記憶にはいつでも穏やかな当主の表情ばかりが残っている。
だが今は、乾いた唇から僅かに息が漏れるだけだ。それはいつ止まってしまってもおかしくない程に弱い。
(お願い、いつものように良く来てくれたと笑って……)
ベッドに置いたノワールの手に、冷たい手が重なる。小さく震えている、当主の手だった。
はっと顔を上げれば、瞼を開かないまま当主は唇を開き、掠れた吐息に乗せて言った。
「……神子様……どうか、お歌を……」
見上げた先のレオンも、ヴィクトリアも小さく頷いていた。
ノワールはすぐに口を開く。が、喉の奥が引きつって、上手く声にならない。
滲んでしまいそうな視界を閉じて、一つ一つ旋律を紡いでいく。
繰り返しの旋律を何度歌った頃か、レオンの手がノワールの肩へと置かれた。
冷たく滲む瞼を開く。まだ体温の残る手を重ねてくれていたその人の呼吸は、止まっていた。その表情に苦しみは少しも無く、穏やかに眠るようだった。
何も言えないまま、沈黙が落ちた。
やがて、ヴィクトリアが姿勢を正し口を開く。
「感謝します、闇の神子。貴女の歌の導きのおかげで父も迷わず天へと辿り着けることでしょう」
「……はい」
返す言葉など持ち合わせるはずもない。
ヴィクトリアは踵を返し、廊下へと繋がる扉へと手を掛けた。
が、それを開く直前に足を止める。
「レオンハルト。葬儀は可能な限り早く行うが……正式な継承手続きが終わるまでは、引き続き私が当主代理を務める」
「……分かりました、姉上」
そう短く言葉を交わし、振り向くことなくヴィクトリアは部屋を出る。
入れ替わりに使用人や医者が、神妙な面持ちで部屋に入ってくる。
ノワールはレオンに手を引かれ、その部屋を後にした。
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