第50話『その日の朝』
時は遡り、その日の朝のこと。
ヴィクトリアの指示で、ノワールはいつもより手厚い世話をメイドから受けていた。
肌を整え、長い髪を梳かし、その毛先を巻く。
化粧もいつもよりほんの少しばかり目元を強調するものになり、ノワールの姿を幾らか大人びて見せた。
そして指示通りヴァレンシュタインの邸宅の前に停まった馬車へ乗り込もうとすると、一人の青年が手を差し出した。
「こうして挨拶するのは初めてだろうね。闇の神子、ノワール」
それは今までに何度か見かけたことのある姿だった。
いつもセレスティの手を引いて、優雅にエスコートしていた。双子の妹の婚約者であり、この国の次期国王。アルベルト・オブスキア。
一気に青ざめたノワールに、アルベルトは馬車の中で繰り返し話を聞かせていた。上手く言葉が返らないことさえ気に留めず。
王宮に現れた迷い猫を可愛がっていること。その猫が子猫を産んだので、可愛がる対象が増えたこと。
北の国は寒くて来る度に驚いてしまうこと。けれども、たまに見えるオーロラがこの世のものとは思えないほど綺麗なこと。
そんな話を聞く内に、いつのまにか聞き入ってしまったノワールに、アルベルトはこう言った。
「丁度北を視察していたんだ。今日はヴィクトリア嬢と会う予定だったのだが、君の相手を頼まれてね。君の逢瀬の相手をして欲しいという」
「……お、逢瀬……!?」
「そう、ヴィクトリア嬢から少し聞いているよ。君には気になる相手がいるそうだね」
単刀直入に話を振られ、思わずノワールは赤面する。
「けれど、王子様は君の気持ちにはまだ気付かない。自分の気持ちにもね。ならば、悪役がお姫様を拐ってみせようというわけだ」
舞台上で定められた台詞を演じるように、アルベルトは演技掛かった手振りで語った。
ノワールは眉尻を下げながら弱々しく首を振る。
「いいえ……そんな日は、来ません。それで、いいんです。私は……」
「そうかな?やってみなければ分からない。それに、どちらにせよこの馬車はもう街に着いてしまう。王子様が来ようと来るまいと、今日は私の『視察』に付き合ってもらうよ。ノワール嬢」
そうしてノワールは、アルベルトのエスコートを受けながら街を回った。
初めこそ緊張していたものの、初めての演劇を見て、初めてのデザートを食べる内、いつの間にか緊張は解けていた。
こうして他人に心を開きやすくなったのは、彼女にとって最も大きな変化だと言えた。
周囲にはたくさんの人々が行き交う。
そんな中でアルベルトは不意に足を止め、ノワールの耳元へと囁いた。
「ほら、お姫様。王子様が姫君を取り返しにきたよ」
一瞬ぽかんと目を瞬かせたノワールは、馬車の中での会話を思い出し頬を染める。
まさかそんなはずはないと口を開きたくても、上手く言葉にならない。
耳の先までが溶けそうなほどに熱い。だが、振り返って姿を確認することは出来ない。
思わず伏せてしまった顔を上げさせるため、アルベルトの指がノワールの顎を掬い上げる。
それを見るなり、怒気を孕んだ足音が近付く。一歩、また一歩と。
「おお、怖い怖い。氷の貴公子を怒らせるつもりは、無かったんだけれどね」
言葉とは裏腹に、アルベルトは楽しい劇を眺めているような心地で一人呟いた。
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