第43話『ヴァレンシュタイン家当主』
「俺はここまでしか行けない」
「……えっ」
それはヴァレンシュタイン家当主の自室の前だった。
レオンに腕を引かれやってきたその場所で聞こえた声に、ノワールは思わず小さく声を零す。
「父上の指示だ。闇の神子様とは、二人きりで話をしたいと」
突然の心細さがノワールを襲う。
レオンが一緒だと気を奮い立たせてきたが、早速出鼻を挫かれてしまう。だが、逃げるわけにもいかない。
そっとレオンの腕から指を離す。
「……分かりました。行ってきます、レオンさん」
「ああ、待っている」
そう短く返すレオンの声を背に受けて、ノワールは扉を二度ノックした。そして、ゆっくりと扉を押し開く。
「ノワール・ローゼンベリアです。失礼いたします」
脳内で幾度も練習した挨拶だ。
そっと扉を閉め、部屋の奥へと向かう。そこには寝台に体を横たえ、細い呼吸を繰り返す男性の姿があった。
「そう堅くならなくていい。こんな姿ですまないな。神子様……いや、ノワール」
「いえ……」
ヴァレンシュタイン当主たるその男性は、痩けた細い指でベッドの側の丸椅子を指差す。ノワールは静かにそこへ腰を降ろした。
「ああ、先代の神子様によく似ておられる。あの方も美しい漆黒の髪だった。あの祈りの歌声も、未だに忘れることが出来ない。まるで神が、私の目の前に降りたようだった……」
懐かしい日を思い出すように、当主は目を細めた。
ゆっくりと一度瞬きを挟んだ後、その視線をノワールへと向ける。
「早々に不躾ですまないが……神子よ。歌を歌ってはくれないだろうか。この私のために」
「ええ、もちろんです」
迷うはずもない。ノワールは薄く唇を開くと、慣れた旋律を辿り始める。
どこまでも遠く響くような、静かな歌声。それは神子に与えられた権能。
換気のために開かれた窓の外にさえ響くようだった。
やがてその声が途絶えた頃、当主は大きく息を吐いた。
「ああ、やはり……素晴らしい。心が洗われるようだ。ありがとう」
当主の細い指がノワールへと寄る。ノワールはそれを両手で包むように受け止める。
「皆気付いているだろうが、私に残された時間は、もう長くはない」
「……!」
突然の言葉だった。ノワールは思わず小さく息を飲む。
「この後はヴィクトリアとレオンハルト。あの二人だけでこのヴァレンシュタインを守っていかねばならぬ。本当は私がまだ見守っていてやらねばならぬ年頃だというのに」
娘と息子には聞かせられない、本心だった。だが心残りを紡ぐその表情は、全てを受け入れているかのように穏やかだ。
「レオンハルトに、神子様が寄り添ってくれていること。本当に嬉しく思う。どうか、これからも息子を支えてやってくれ。不器用ではあるが、優しい男に育ってくれた」
ノワールは何も言えなかった。恩人たるヴァレンシュタイン家の当主に願われたそれは、叶わないのだ。
だが言えるはずもない。
答える言葉を探し出すより先に、当主の指先から力が抜け、重い息が吐かれる。
「……すまない」
もうこうして会話をする体力も残されていない。
先程の言葉が現実になりつつあるのだと思い知らされる、短い謝罪だった。
その声にただ頭を下げ、静かに立ち上がり、一礼だけを残してノワールは部屋を後にした。
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