第42話『雪』
コートを受け取ってすぐのことだ。
窓の外の風景が、一気に変わった。今までは木々に囲まれていたり、のどかな田園の風景が広がったりしていたが、ある場所を境に窓の外は一面の白に覆われた。
雪。
それはノワールにとって縁遠いものだった。自室の狭い窓から、ちらちらと降る雪を見たことはあったが、それは決まってストーブすらない自室で毛布に蹲り必死に寒さをしのいでいる最中のことだ。風景を楽しむ余裕などあるはずもなかった。
だが今は温かいコートに身を包み、汚れのない窓越しにそれを楽しむことが出来る。その口元は、知らず知らずの内に笑みを描いていた。
「レオンさん、すごい……こんなに沢山の雪、初めて見ました」
「真冬になればこの程度では済まなくなる。馬車すら動かない。ノワールも、行きたい場所がある時は本格的な冬が来る前に言うんだ」
「分かりました」
そんな他愛もない会話を繰り返し、もういくつかの町での夜を経て、辿り着いたのは北の地一帯を治めるヴァレンシュタイン公爵家の本邸。
王都の別邸も十分に大きかったが、目の前にある本邸はその比ではない。城と呼ばれても信じてしまいそうなほどの巨大な建物が、雪原の向こうにそびえていた。
思わず足を止めかけるノワールの手を引いて、レオンは勝手知ったる歩みで中へと入っていく。
その傍らでは使用人たちが皆揃って頭を下げていた。
「お待ちしておりました、ノワール様」
そう、ノワールに声を掛けてくれる者もいた。
ノワールのことは、使用人たちも既に伝え聞いているようだった。手を引かれながら、可能な限りノワールは頭を下げて応える。
「ノワールの部屋はレオンの部屋の隣に用意させた。それであれば迷う必要もないだろう。分かったか?」
去り際、ヴィクトリアはそう言った。
何かに困った時、真っ先にレオンを頼るであろうことを見越したような眼差しだった。
ノワールは僅かに頬を染めながらも、深々とヴィクトリアに頭を下げた。今までの感謝も十分に込めて。
そしてその日の夜は、疲れが出たのか慣れないベッドの中で、夢も見ないほどにぐっすりと眠ってしまった。
翌日、ノワールは自分のために用意された部屋で、メイドの世話を受けていた。
入浴を済ませ、髪を綺麗に整え、落ち着いた色のドレスを身に纏う。
このヴァレンシュタイン領を治める、ヴァレンシュタイン家当主。
ヴィクトリアとレオンハルトの父。その人に挨拶へ向かう予定だ。
メイドの手によって、薄い唇に紅が引かれる。
鏡に映るノワールに、もうかつての面影は無かった。
青白く痩けていた頬は淡い朱を帯びて、細すぎた腕も人並みのそれになった。傷みきっていた髪も今は艶を放ち、綺麗な曲線を描いてノワールの白い肌を飾っている。
この世の全てに怯えていたような瞳さえ、今は鏡の中に映る自分を真っ直ぐに見据えていた。
(お姉様とレオンさんのお父様へのご挨拶……出来るわ、大丈夫……)
言い聞かせるように指先を固く握る。今にも緊張で震えだしてしまいそうだったが、深い呼吸を挟んで落ち着かせる。
(ヴァレンシュタインの名前を、私が穢すわけにはいかないもの)
それは今のノワールを支える、唯一の意地のようなものだった。
仮初めの婚約者という一時的な地位であれ、自分の言動一つにヴァレンシュタインの名が掛かっているのであれば、怖いなどと言ってはいられない。
扉の外では迎えにきたレオンが待っている気配がする。立ち上がったノワールの背は、まっすぐに伸びていた。
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