第3話『その夜』
捨て猫が洗われるように、ノワールは浴槽の中で泡まみれになっていた。
足が伸ばせるほど広いバスタブ。
熱すぎないお湯が張られ、青い花弁が浮かべられている。メイドが丁寧に髪を洗い流していく中、ノワールは肩までお湯に浸かりながら膝を抱えて縮こまっていた。
綺麗なドレス。可愛いぬいぐるみ。
ノワールが羨ましく思った後には、必ず落胆が待っていた。
それは大抵可愛いセレスティに贈られたものだったり、またある時は付き合いのある貴族の子供に贈るものだったりしたが、そのどれもがノワールの元に届くことはなかった。
少しでも期待すると、その後に心は傷付いてしまう。
それを学んだ頃には何も期待しないようになっていた。欲しいと思わなければ、傷つくことはないのだ。
だが、今はどうだ。
メイドは割れ物を扱うような慎重さでノワールの細い腕を取り、良い香りのするオイルを塗っていく。まるで花束に埋もれたかのような香りだ。
気が緩むとうっとり瞼を落としてしまいそうになり、気を引き締めるようにぎゅっと目を瞑る。
その横で。
「うーん、やはり細いな。細すぎる」
「……当主代理。神子様は入浴中ですよ」
「だからどうした。女同士だぞ」
「女同士にもプライバシーはございます」
そんなやり取りが行き交う。
ヴァレンシュタイン家。この国で最も強大な軍事力を誇る、北方を治める公爵家だ。
当然、その財力も並の貴族とは比べ物にならない。王都に構えるこの別邸でさえ、この豪奢さだ。
このオブスキア王国で、その名を知らない者はいない。
……恐らく、ノワールを除いて。
ノワールの役割はただ祈るだけだった。
生涯闇の神子として祈り続ける。第二王子と名ばかりの結婚をした後もそれは変わらないはずだった。
子を設けるという、貴族としては当然の役目すら望まれていなかった。
『闇』の力が万一にでも、我が子に伝わったらどうする。あり得ない、という表情で、かつての婚約者に告げられた日をまだ覚えている。
ゆえにノワールには、最低限の教育すらも与えられていなかった。
(公爵家。貴族の中でも一番偉いお家柄)
唯一、絞り出した知識だ。
その当主の代理だという。つまり、現在ヴァレンシュタイン公爵家で一番偉い女性だ。ヴィクトリア・ヴァレンシュタイン。
そんな女性がなぜ、浴槽にすっぽり収まるノワールをまじまじと見下ろしているのか。
やがて彼女はメイドに背中を押され、渋々浴室を後にした。まだ書類仕事が残っているのだという。
「当主代理は、貴方様を心配しておられるのですよ」
メイドは穏やかにそう言った。
ノワールは、返す言葉を持たなかった。
(心配……?)
それはセレスティが転んでしまったり、熱を出してしまった時にみんなが駆け付ける『あれ』だろうか。
そんなものが自分に向けられる日が来るとは、望んだこともない。いや、望んではいけない。きっと何かの間違いだから。
やがて泡を全て洗い流され、体も髪も拭いてもらい、バスローブを羽織って客室に戻ると。
「おお、出たかノワール」
「当主代理……」
私に貸し与えられた部屋のテーブルで、書類に埋もれているヴィクトリアの姿があった。
後ろからメイドの呆れた声が聞こえる。
「一体何をしておられるのですか、神子様の部屋で」
「なに、ここは私が無理矢理連れ帰った、不慣れな家だ。一人じゃ心細いだろうと思ってな」
書類を放置したままヴィクトリアが立ち上がる。
そして何人でも横になれそうな、大きなベッドへと近付くと、自らの胸に片手を添えて得意げな表情で言った。
「添い寝をしにきた」
「必要ありません」
メイドが、即座にぴしゃりと返す。
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