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くっ、と喉を鳴らしたまま、吐き出されたのは『お前は何も知らない』という事実。
それはキリキリと締め付けられる。
『逆に君に問うが、お前はこの女の何を知っている?こいつはなあ…魔…』
『これ以上、口を開くなら…たとえ相手が誰だろうと後悔することになるわ』
先を遮るように、リコが叩きつけるように話を切る。
『…過保護だな。君はこの先を知りたくないのか?』
甘い蜜のような誘い。文字通り甘言なのだろう。誘われた先は、間違いなく罠。
だから静かに俺は言う。
「知りたくないとは言えないけれど、俺はリコを信じている。過去は過去でしかないし、今は俺といる。それが現実だろう?」
小さな笑い声から、大きく変わる。
それはいつしか怒りに変わる。
『過去は過去でしかない。素敵な言葉だ。だがそれは幸せに生きてきたから言えることだ。環境を選べなかった俺たちに、過去こそが生きる原動力なんだ。それがわからないガキに、リコを任せるわけにはいかん』
「過去に縛られた人間に、もう彼女は渡さない」
きっと勝てるはずなどない。最初からそんなことは見えている。それでも俺は、後には引けなかった。いつまでもリコを、悲しみに縛り付けるわけにはいかないんだ。
ふと神話を思い出す。アンドロメダとペルセウス。
囚われの姫を助け出した勇者。ハッピーエンドの原点とも言われるそれを。
そうか、俺が求めていたのは、勝利でも支配欲でもなく、彼女の解放だったのか。
なぜか力が湧いてくる。もう何も怖くなどない。ただ俺は俺の思うままに。
一度、拳を握りしめる。強く手の平が白くなるほどに。
一歩外へと近づこうとした瞬間、その手にそっとリコが触れ、小さく首を降った。
彼女の中にあるのは絶対の確信。それもわかっていて。だけど、俺は小さく微笑んで、その手をそっとはずした。
『やめて行っちゃダメ』
あの冷静なリコじゃなくて、昔のリコが帰ってきたみたいだ。うん、それだけで充分だ。
俺はもう一度微笑んで、振り返らずにドアを開いた。