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なぜ音が聴きたかったのか。それはきっと怖かったんだ。どこにでもいる普通のサラリーマンの俺に何ができる?
それを見越されることが…俺は怖かったんだよ。
『あたしはとっくに自由だわ。あの町から飛び出した時から』
吐き捨てるように、下を向いて言う。
「リコ…間違えずに聞いてほしいんだ。確かに、自分だけの力で今生きているのだから、自由ではあるかもしれない。そうじゃなくて…俺が言いたいのは…リコを縛り付けるものからの…自由のこと」
間違えないように、傷つけないように、ゆっくりと言葉を選んで。
反射のように言いたいことを言う。それが会話と思う人が多いけれど、きっと今必要なのは、脊髄で答えるのではなく、自分の思いを過たず相手に伝えること。それが大切な人なら尚更のこと。
少数派だっていい。それだけ俺はリコが大事なんだ。
『…ごめん、わかっていたけど…逃げた。…ふふっ、やっぱりまだなれないよね。ごめんね…』
軽く笑いながら、悲しみを避けるように視線を逸らした。
自分の中の渦巻く変化。それに気付いてしまったから。…無理していたということにね。笑顔の裏の悲しみに気付いてあげられる人間はどれくらいいるのだろうか?
その深い悲しみが、今までのリコを動かしていたのだけれど。
「急に変わるものじゃないからゆっくり…と言いたいところだけど…」
『ちょっと待って』
着信を告げるメロディーが、二人の会話を止めた。
それは着メロでも着うたでもなく、機械的に事務的に鳴る。
【はい…えっ…はい…わかりました…】
唾を飲み込んで、表情を見つめる。その表情は固く、空気を張り詰めさせた。
短めの電話のあと、会話を再開させるのが憚られるような、不穏な空気。
「…聞いてもいい?」
それを無視するかのように、まるで耳に入っていない。
「リコ?」
肩に手をかけた瞬間、思いきり振り払われて、驚きを隠せなかった。
『…あっ、ごめん。大丈夫だから…』
一つもそれを信じられる要素が無い中で、大丈夫、と言われても信用なんかできるはずもなくて。
「…リコ、これ以上何が起ころうと、俺は驚かないよ。…一体、何があった」
ピクリと反応はあるけれど、口を開いたまま、言葉だけが出てこない。吐き出されるのは、ため息に似た呼吸音だけ。
…しばらくの無言のあと、一言だけつぶやいたのは、失敗した、とだけだった。